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中国佛教と日本佛教―日本佛教の母胎としての中国佛教

(2009-10-11 08:11:11)
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宗教

日本佛教

中国佛教

菩萨戒

释迦

文化

分类: 寺院报道

编按:2009年10月9日晚,日本大谷大学校长木村宣彰等一行四人,在中国佛协张琳副秘书长和李贺敏二人陪同下,来龙泉寺拜访师父。10日早上九点,木村宣彰校长在中国佛学院作精彩的演讲,演讲题目是《中国佛教与日本佛教——做为日本佛教母体的中国佛教》。下面是他的演讲稿: 

中国佛教と日本佛教―日本佛教の母胎としての中国佛教―

大谷大学学長 木村宣彰

中国佛教と日本佛教―日本佛教の母胎としての中国佛教

 

中国佛教与日本佛教―做日本佛教母体的中国佛教―

(1)はじめに―佛教とは何か―

 中国佛教は日本佛教の母胎である。日本の佛教と中国佛教とは信仰という点では同じであるが、実際の在り方に於いて様々な相違を示している。しかし、日本佛教は中国佛教から多くの影響を受けている。日本佛教の母胎は中国佛教である。そのことを考える前に、先ず「佛教とは何か?」について考えることにする。

 私たちが日頃、学んでいる佛教とは何か?

1)缘起-佛教是什么?

中国佛教是日本佛教的母体。日本佛教与中国佛教在信仰这个点上是一样的,而在实际存在方式上却表现出种种不同。日本佛教从中国佛教中吸取了许多影响,日本佛教的母体是中国佛教。在思考这个问题之前,首先要来了解“佛教是什么”。

我们日常学习的佛教,究竟是什么?

 

 佛教については、その成立の「成立」、「内容」、「目的」の三点から考えることができる。

佛教とは、①その「成立」の上から見ると、歴史上の佛陀である釈尊が説いた教えである。それ故に、佛教とは「佛陀が説いた教え」ということができる。

②「佛教」は、その教えの「内容」から言えば「佛法」である。日本では、古くは佛教よりも佛法と言うことが多かった。佛教は「佛陀とは何か」「佛陀の本質とは何か」を説いている。佛陀とは「法」(ダルマ?dharma)を悟って佛と成った。佛陀は、悟りの内容である「法」に基づいて教えを説いている。それ故に「佛教」は「佛法」である。 

关于佛教,可以从其结构的成立、内容、目的三点来进行考察。

所谓佛教,首先从其成立上看,是历史上的佛陀释迦牟尼讲述的教诲。因此可以说,佛教是“佛陀所说之教”。第二,从佛陀教诲的内容看,佛教是佛法。在日本古代,佛法这个词用得更经常些。佛教向人们讲述,“佛陀是谁”,“佛陀的本质是什么”。佛陀是体悟了法(dharma)而成佛的。佛陀根据他悟道的内容-法,而展开说教。因此又可以说,佛教是佛法。 

 

③更に佛陀?釈尊は何故「佛教」を説かれたのか? 佛教の「目的」とは何か? 

このことは最も大切な課題である。佛陀が佛教を説いた「目的」について考えなくてはならない。全ての人々が真理に目覚めた覚者(佛陀)に成るための教えが佛教である。佛教徒は「皆共成佛道」(皆、共に佛道を成ぜんことを)と言っている。即ち、「佛教」とは、佛に成るための教えである。それ故に佛教は「佛道」である。

第三,要进一步思考,佛陀释迦牟尼何故要宣扬佛教?佛教的目的是什么?

这是一个重要的课题。我们必须思考佛陀讲述佛教的目的。为了全人类,以至所有的有情众生,都在真理中觉醒而成为觉悟者(佛陀),而成佛,这样的教诲,乃是佛教。也就是说,佛教是为了成佛的教诲。因此佛教是佛道。

(2)佛教の構成要素―帰依三宝―

 このように佛教は、①佛が説いた教であるから「佛教」である。②佛の本質である「法」を説いているから「佛法」である。③更に佛に成る道を説いているから「佛道」である。  

 佛教とは、佛法であり、また佛道である。この三者が一体になっているのが佛教である。その中でもっとも重要なことは、全ての人々が「佛」(目覚めた人?覚者)に成る教えであるということである。

(2)佛教的构成要素-归依三宝

总结而言,所谓佛教,因是佛陀所说之教而称为佛教,因讲说佛的本质-法而称为佛法,又因讲说成佛之道而称为佛道。

佛教是佛法,是佛道。三者合一,是为佛教。在这中间,全部有情众生都能成佛(觉醒之人,觉悟者)的教诲,是最重要的。

 

 この「佛教」を構成する要素として「佛」と「法」と「僧」が無くてはならない。佛がなければ佛教は存在しない。佛が悟りの内容である「法」を他に対して説かなかった佛教は存在しない。佛教は「佛法」「佛道」であるが、「佛法」と言っても教えの聴聞者が居なくては成立しないし、「佛道」と言っても実践者がなければ存在し得ない。

佛教には、「佛」と「法」と「僧」の「三宝」が必要である。佛教には佛?法?僧という三つの大事な宝が必要である。この「三宝」は佛教徒にとって基本的な信仰の対象である。この三宝への帰依は、世界の佛教徒に共通するものである。

做为构成佛教的要素,佛法僧三者缺一不可。如果没有佛陀,佛教不存在。如果佛陀没有对他人宣说他所悟的法,佛教不存在。佛教是佛法,是佛道。做为佛法,如果没有听闻者,就不成立;做为佛道,如果没有实践者,也不成立。

在佛教中,佛法僧三宝是必要的。三宝是佛教徒的基本信仰对象。归依三宝,在世界的佛教徒中,是共通的。

 

中国佛教と日本佛教―日本佛教の母胎としての中国佛教

(3)中国佛教の特色―教相判釈―

 佛教に関する理解はさまざまである。佛教については種々の展開がある。

インドにおいては、①原始佛教、②部派佛教、③大乗佛教というように展開した。まず①佛の在世の「原始佛教」は、釈尊を中心とする佛教である。②佛滅後の「部派佛教」は小乗佛教と呼ばれているが、この時代の佛教も「釈迦一佛」の佛教である。釈迦佛以外の佛陀を認めない「釈迦一佛」の佛教である。③その後の「大乗佛教」では、全ての人々に「佛性」を認める。その結果、釈迦一佛の佛教から全ての人々が成佛して「佛に成る」佛教である。十方世界に多佛が存在する佛教である。

(3)中国特色-教相判释

关于佛教的理解是多样的,而佛教的流传展开也是异彩纷呈。

在印度,佛教展开为原始佛教、部派佛教、大乘佛教。首先,佛陀在世时的原始佛教,是以释尊为中心的佛教。其次,佛陀灭度之后的部派佛教,虽然被称作小乘佛教,而这个时代的佛教也是“释迦一佛”,也就是说,不承认释迦佛以外的佛陀的存在。第三,过此以後的大乘佛教,认可在全部人类中的佛性。做为結果,从释迦一佛的佛教,发展为全部人类都可成为佛陀的“成佛”佛教。这是主张在十方世界中,有无量诸佛存在的佛教。

 

大乗佛教とは、原則的に万人の成佛を認めている。中国佛教や日本佛教は、大乗佛教である。一部に部派(小乗)佛教の宗派もあったが、圧倒的に大乗佛教が信仰されていた。

日本佛教の母胎は中国佛教である。日本佛教は中国佛教から大きな影響を受けている。そこで中国佛教の特色を明確にしなくてはならない。中国佛教が分らないと日本佛教の特色も明確にならない。そこで先ず中国佛教の特色について考えたい。

中国佛教の特色としては、①膨大な漢文聖典を保有し、②長い歴史を持ち、③佛教思想の規模が大きく、④日本佛教の母胎となっていること等を挙げることができる。

大乘佛教在原则上承认万人成佛。中国佛教与日本佛教是大乘佛教。虽然曾经存在过一些部派(小乘)佛教,但是大乘佛教得到压倒性的信仰。

日本佛教的母体是中国佛教,日本佛教从中国佛教中接受了重大影响。在这里,我们应该先明确了解中国佛教的特色。不了解中国佛教的特色,也就无从了解日本佛教的特色。

做为中国佛教的特色,可以列举以下四点:其一,保有膨大的汉文圣典;其二,历史悠久;其三,佛教思想规模宏大;其四,成为日本佛教的母体。

 

特に「佛教思想の規模の大きさ」という中国佛教の特色については、教相判釈のことを考えなくてはならない。インド佛教には、中国佛教のような「教相判釈」が存在しなかった。中国に佛教が伝来したのは紀元前後の頃であるが、インドから伝来した佛教は、佛滅後の四百年から五百年を経過した佛教であった。そのために既に佛像が存在し、大乗?小乗の佛教が同時に伝わった。更に大乗経典の中にも種々の内容のものがあった。その為に大乗と小乗の相違とは何か、種々の大乗経典の優劣はどこにあるのか、このような問題にについて考え、佛教の教えを分類?整理する必要が生じたのである。そこで中国佛教には多くの教相判釈が考えられたのである。

特别要注意的是,在关于“佛教思想规模宏大”这一中国佛教的特色上,必须思考教相判释这一问题。在印度佛教中,象中国佛教那样的教相判释不存在。佛教传来中国是在纪元前后。从印度传入的佛教,业已经过了佛陀灭度之后的四、五百年时间。因此,佛像已经存在,小乘佛教与大乘佛教同时传来。而在大乘经典中,更含有种种内容。为此,大乘与小乘的不同在哪里,种种大乘经典的优劣又在哪里,通过思考这些类似的问题,产生了分类整理佛陀教诲的必要性,也形成了许多学说。

 

その中の代表的な説は、天台智顗の「五時八教」や、華厳法蔵の「五教十宗」の教相判釈である。その外にも種々の教相判釈があるが、数多くの大乗経典の中から随一の経典を選び出し、その中心思想である「宗」を追求している。教判によって明らかにされた「宗」に基づいて様々な「宗派」が成立している。

このような佛教思想の規模の大きさは、佛教の歴史の中で中国佛教は最も規模が大きく、特に誇るべき特色である。

做为代表性的学说,天台智顗的五時八教,华严法藏的五教十宗,都是教相判释。在这两种以外,还有种种的教相判释,从大量的大乘经典中选出被看作是最好的一种,探究其中心思想-宗。根据依靠教判而阐明的“宗”,形成了宗派。

象这样的佛教思想规模的宏大,在世界佛教史中,中国佛教是最有特色,最值得自豪的。

中国佛教と日本佛教―日本佛教の母胎としての中国佛教

 

(4)「慧学」重視の佛教―天台と華厳―

このようにして中国佛教に天台宗や華厳宗などの宗派が生まれた。インド佛教にはこのような宗派は存在しない。教相判釈と宗派の成立は中国佛教の特色である。

中国佛教では教相判釈が非常に重視された結果、経典や論書に対する注釈?研究が盛んになり、ついに膨大な典籍が作られたのである。例えば『法華経』『涅槃経』等の主要な大乗経典に対する注釈は各宗派の種々の立場から様々に解釈がなされている。

インドから伝来した伝統佛教では、佛道の修行は戒学?定学?慧学の「三学」の次第によって修行しなくてはならないものであった。最初に①「戒学」によって自己の言動や動作を正常に修め、次に②「定学」によって散乱の心を統一して思惟を専注し、その後に③「慧学」によって智慧が発揮されるというのである。

(4)重视慧学的佛-天台与华严

在思想规模宏大的整体中国佛教中,天台宗与华严宗等宗派应运而生。在印度佛教中,本没有这样的宗派。教相判释与宗派成立是中国佛教的特色。

中国佛教因为非常重视教相判释,做为结果,流行对经典论书的注释研究,终于创作了膨大的著述典籍。例如,对于法华经、涅槃经等主要大乘经典的注释,各个宗派从不同的立场,做出了种种解释。

在印度传来的传统佛教中,修行佛道必须按照戒学?定学?慧学的三学次第来进行。最初,依据戒学来修正自己的言语动作趋于正道;其次,依据定学来统一散乱之心,以使得思惟专注;最后,依据慧学而使得智慧发挥。

 

中国佛教では、この中で慧学が重視されて天台宗や華厳宗など、偉大な教学が成立した。佛教徒は、インド?中国?日本に関係なく宗派に関係なく「戒学」「定学」「慧学」を修めるべきである。しかし、中国佛教では経論の研究を中心とする「慧学」が特に重視された。南北朝時代に様々な「学派」が発達し、隋唐に至り、中国を代表する天台宗や華厳宗などが成立した。これは中国佛教において特に「慧学」が重視されたことを意味する。

三学の中で「戒学」「定学」が軽視されたことを意味する。その反動として唐代に戒律や禅定を重視する宗派が成立した。「禅宗」や「律宗」の成立である。

在中国佛教中,重视慧学的天台宗与华严宗,成立了伟大的教学。世界上的佛教徒,在印度?中国?日本等,不问国度,不问宗派,戒定慧三学是必修的。但是,中国佛教特别重视以经论研究为中心的慧学。南北朝时代各种各样的学派非常发达,到了隋唐,代表中国佛教的天台宗与华严宗终于成立了。这两个宗派的成立,无疑是中国佛教慧学重视的结果。

在慧学重视的反面,似乎意味着对戒学与定学的轻视。做为反弹与弥补,在唐代成立了重视戒律的律宗,与重视禅定的禅宗。

(5)禅宗と律宗と浄土教の成立

中国佛教において南山道宣の「律宗」が成立したことは、三学の中から「定学」と「慧学」の二つから離れて「戒学」の一面のみを取り出して特別に発達せしめたのである。

また、中国佛教では、三学の中から「戒学」と「慧学」とを離れて、特に「定学」を重視する「禅宗」が生まれた。浄土教の「念佛」も三学の中から「戒学」と「慧学」とを離れて「定学」に特化して発達したものといえる。

この中国佛教は、戒学?定学?慧学の次第順序によって修行するというインド佛教の通例から大きく外れることになる。このような律宗や禅宗や浄土教の成立は、当然、日本佛教に大きな影響を与えている。このように三学の中から戒学や定学に特化する宗派の成立は、一面からいえば「実際化」「単純化」と言える。この傾向を更に推し進めたのが日本佛教である。

5)禅宗、律宗与浄土宗的成立

在中国佛教中,南山道宣成立的律宗,是从戒定慧三学中偏离定慧二学,特别侧重戒学,发达而成的。与此同时,从戒定慧三学中偏离戒慧二学,特别侧重定学,发达而成的是禅宗。与之类似,浄土宗的念佛,也可以说是从戒定慧三学中偏离戒慧二学,特别强化定学而来的。

象这样,中国佛教大幅度远离了,依据戒学?定学?慧学的次第顺序而修行的印度佛教的通例。这样的律宗、禅宗与浄土宗的成立,当然也给日本佛教以巨大影响。在三学之中特别强化戒学定学,而促成的宗派成立,从一个侧面看可以说是实际化、单纯化。更进一步推进这种实际化、单纯化倾向的,是日本佛教。

(6)大乗の菩薩戒の問題

中国佛教では大乗佛教が圧倒的に流行していたが、出家の比丘?比丘尼が守るべき「律」に大乗と小乗の区別はなかった。大乗?小乗ともに「具足戒」を受戒して出家者の資格を得るのである。

ところが、ここに別の戒律思想が現われた。それが「菩薩戒」の思想である。大乗佛教の菩薩は、自利のみでなく、自利?利他円満の精神、上求菩提?下化衆生の精神によって修行すべきである。その菩薩の「心構え」として「菩薩の戒律」を説く経典が現われたのである。その中で後世の佛教にもっとも影響力を与えたのは『梵網経』である。『梵網経』は『菩薩戒経』とも呼ばれ、天台の智顗や華厳の法蔵などが研究し注釈を残している。

この『梵網経』の説く菩薩戒は「十重四十八戒」(重い戒十と軽い戒四十八の合計五十八戒)である。『梵網経』の菩薩戒は「具足戒」のように守ることを誓い、出家の比丘としての資格を得る「律」とは異なる戒律思想である。中国佛教では『梵網経』の菩薩戒は大いに研究されたが、この大乗菩薩戒による出家者というものは存在しなかった。

(6)大乗菩薩戒的問題

在中国佛教中,大乗佛教以压倒性的优势流行,然而在出家比丘比丘尼应该遵守的戒律中,比如在四分律、五分律中,没有大乗与小乗的区別。大乗也好,小乗也好,只有受持了具足戒,才能获得出家者的资格。

在另一方面,出现了別样的戒律思想。这就是菩薩戒的思想。大乗佛教的菩薩,不局限于自利,要依据自利、利他圆满的精神,上求菩提、下化衆生的精神来修行。讲述做为大乘菩薩的心理构造的菩薩戒律的经典,应运而生了。这就是给与後世佛教以强大影響力的梵網経。梵網経又称作菩薩戒経,天台智顗与華厳法蔵等,都加以研究并留下注釈。

梵網経所説的菩薩戒,称为十重四十八戒(重戒十条,軽戒四十八条,合計五十八戒)。『梵網経』的菩薩戒,与具足戒那样的,发誓遵守以取得出家比丘資格的戒律思想是不一同的。在中国佛教中,梵網経的菩薩戒得到大力研究,然而依据这样的大乗菩薩戒的出家者,并不存在过。

(7)日本佛教における大乗戒壇の成立

ところが、日本佛教においては、かつて中国に留学した伝教大師最澄(767―822)によって大乗戒による受戒が主張された。佛教の教えに大乗と小乗の区別があるのだから、出家者にも大乗の出家と小乗の出家の区別が必要である。このように考えた最澄は、大乗佛教の出家者は二百五十戒の具足戒でなくて『梵網経』の大乗の菩薩戒によって出家すべきであると主張したのである。その受戒の作法においても大乗戒壇を建立すべきであると主張した。小乗の受戒は三師七証の十人が必要であるが、大乗の菩薩戒の受戒は一人の伝戒師と釈迦佛?文殊?弥勒などの佛菩薩によって受戒が可能であると主張した。大乗菩薩戒においては、もし一人の伝戒師も得られない場合には佛像の前で「自誓受戒」することを認める。これは佛教の歴史で未曾有のことである。

(7)在日本佛教中大乗戒壇的成立

然而,在日本佛教中,曾经留学中国的伝教大師最澄(767-822),主张依据大乗戒而受持戒律。最澄认为,在佛教的教诲中,有着大乗与小乗的区別,因此在出家者中,大乗出家与小乗出家的区別也是必要的。这样思考的最澄,主张大乗佛教出家者不是依据二百五十戒的具足戒,而是依据梵網経大乗菩薩戒而出家。因此,在受戒作法上,必须建立大乗戒壇。小乗受戒必须需要三師七証的十人,而大乗菩薩戒的受戒,依据一位伝戒師与釈迦佛、文殊、弥勒等诸佛菩薩,是可能的。在大乗菩薩戒中,如果连一位伝戒師都得不到,在佛像前自誓受戒是可以承认的。最澄的主张,在佛教歴史上,是前所未有的。

 

この最澄による大乗菩薩戒の独立の主張は、直ぐには認められなかった。しかし、最澄の死後一週間にして朝廷から許可されたのである。日本佛教において菩薩戒を授ける大乗戒壇が認められたのである。それから以後、日本佛教は具足戒を受ける者はなくなった。それから今日まで具足戒の受戒者はなく、日本佛教は「無戒律」に近い状態となったのである。これは最澄による円頓戒の顕著な影響である。

最澄的这种大乗菩薩戒独立的主張,在其生前并未得到直接的承认。但是,在最澄逝世一週之后,日本朝廷允许了这种作法,承认在日本佛教中,建立传授菩薩戒的大乗戒壇。从此以後,在日本佛教僧人中再也没有接受具足戒的,直至今日。因此日本佛教几乎接近于無戒律的状態。这是最澄圆顿戒的顕著影響。

(8)三学超越と「信」の重視

最澄の後、比叡山に学んだ日本佛教の各宗派の祖師は、皆、この大乗戒に拠ることになった。例えば、浄土宗の法然(1133―1212)は、この「円頓戒」の伝統を伝えながらも念佛による浄土往生を説いた。その場合に「戒を守ること」も「禅を修すること」も浄土往生にとっての必要でなく、ただ「念佛」のみが重要であると説いたのである。

このようにして日本佛教は大乗戒の円頓戒が伝統になった。中国佛教では、三学の中から「戒学」や「定学」を特化して「律宗」や「禅宗」が成立したが、日本佛教では戒?定?慧の「三学」よりも「信」「信心」を重視の佛教が生まれたのである。

日本佛教が一見「無戒律」のように見えるのは、戒?定?慧の三学を「信心」「信」に集約したためである。確かに、佛教徒として「信」「信仰」が無ければ戒学も定学も慧学も意味がない。これが日本佛教の根本的な立場となった。

このようにして日本佛教は中国佛教を模範としていたが、次第に中国佛教とは異なる特色を生じるようになった。佛教徒は、信仰心を大切にして日常生活に即して佛教を実践することが日本佛教の基本的な方向となった。

(8)三学超越与信的重視

最澄之後,在比叡山修学的日本佛教各宗派的祖師们,都以大乗戒为依据。比如,浄土宗法然(1133-1212)在维持圆頓戒伝統的同时,提倡念佛往生浄土。在法然的場合,守戒与修禅对于浄土往生而言都不是必要的,只有念佛才最重要。

日本佛教继承了大乘圆頓戒的传统。中国佛教从三学中特别强化戒学与定学而成立了律宗和禅宗,而在日本佛教中,比起戒?定?慧三学,更重视信、信心,因此产生了重视信、信心的佛教。

日本佛教之所以从表面上看好像是無戒律的,是因为戒定慧三学集约在信心、信上面了。确实,做为佛教徒,如果没有信,没有信仰,那么戒定慧三学也就没有意义。这是日本佛教的根本立場。

象这样日本佛教以中国佛教为模範,而逐渐生发出与中国佛教不同的特色。佛教徒极其重视信仰心,贯彻于日常生活,以实践佛教,这成为日本佛教的基本方向。

(8)在家佛教

更に日本佛教は、佛教を寺院や出家の僧侶の専有物でなく民衆のものとして解放した。

インド佛教や中国佛教では、出家と在家とは厳格に区別されている。日本佛教では出家と在家(居士)の区別は厳密でない。それは出家も在家も共により大切なのは「信心」「信」であると為したからである。「信」に出家?在家の区別はない。そこから日本佛教は「在家佛教」となった。佛教の本尊である佛像は、寺院だけでなく、一般家庭に「佛壇」を設けて安置したのである。これは日本独特のものであり、一般の家庭に「佛壇」を安置するための部屋である「佛間」がある。これによって日々、佛教徒は自らの「信」「信心」を確認するのである。このことは日本佛教の顕著な特色である。

(8)在家佛教

更进一步,日本佛教把佛教解放给了普通民众,而不再是寺院或者出家僧侶的专有事物。

在印度佛教或者中国佛教中,出家与在家有着严格区別。而在日本佛教中,出家与在家(居士)的区別并不严密。那是因为,出家也好,在家也好,信心、信成为他们的共通的同样重要的东西。在信之中,出家在家并无区別。从这里出发,日本佛教演变而成为在家佛教。佛教的本尊佛像,不仅在寺院,在一般家庭中也设立佛壇,加以安置。这是日本独特的东西。在一般家庭中,安置佛壇的房间,叫做佛間。依据家中佛壇,佛教徒能够时时日日确认检讨自己的信与信心。这个是日本佛教的顕著特色。

 

日本佛教が「信」「信心」を失うと、その佛教の生命も失うことになるであろう。

日本佛教は、三学超越の「信」を強調するのである。三学を「信」の一点に「単純化」、「純粋化」しようとしたのが日本佛教である。日本佛教は、三学を「信」「信心」に集約し特化したとも言えるであろう。日本佛教は「信」の中に「三学」が含まれると考えるようになった。しかし、これは甚だ危険なことであり、もし「信」「信の心」を失うならば、単なる「無戒律」の佛教に堕落することになる。

日本佛教如果失去了信与信心,也就失去了佛教的生命。

日本佛教强调三学超越的信。戒定慧三学,在信的一点上单纯化、纯粹化,这是日本佛教。可以说,日本佛教把三学集约在了,特别强化在了信、信心上,在信中包含三学。但是,这也是极其危险的。如果失去了信、信心,就堕落为無戒律的佛教了。

9)むすび―日本佛教の思想的背景―

 中国佛教に比較して日本佛教はあらゆる面で「単純化」されている。三学が「信」の一点に集約されている。

日本の佛教の中で「念佛」は大きな位置を占める。その「念佛」は、佛教と共に古くから行なわれている。この念佛についても「観念」から「称念」へ、更に「称念」から「信念」へと展開する。

かつて中国の廬山の慧遠が修めたように、静かに瞑想し佛を観想するのが「観念の念佛」である。それが善導によって「口称の念佛」となり、更に「単純化」「純粋化」されて「信心の念佛」となったのである。このように日本佛教では、あらゆる面で単純化が進んでいる。それには、思想的な背景があると言わねばならない。

(9)结语―日本佛教的思想背景

与中国佛教相比较,日本佛教在所有的面都表现出单纯化。正如戒定慧三学集约在信这一点上。

在日本佛教中,念佛占据着重大位置。念佛在佛教中本是共通的,古来为人们所实践。而日本佛教的念佛,从観念到称念,更从称念到信念,而逐步展開。

曾经象中国的廬山慧遠所修的那样,静静瞑想,観想佛陀,这是観念的念佛。到了唐代,依据善導,转向了口称的念佛。更进一步単純化、純粋化,在日本佛教中变成了信心的念佛。象这样,日本佛教在所有的面,单纯化不断迈进。而在这里,必须提及它的思想背景。

 

佛教の根本教理である『華厳経』の「三界唯心」「三界一心」、『法華経』の「諸法実相」「治生産業、皆是実相」「一称南無佛、皆已成佛道」、『涅槃経』の「悉有佛性」「法身常住」など、大乗佛教の主要な思想が日本佛教の背景となっている。

日本佛教は、佛教を学問的よりも実際的に把握され、佛教の「単純化」、「在家化」が進み、日常生活の中に佛教が取り入れられるようになったと考えられる。

今後、日中の佛教は、より緊密に連携して相互に「絆」を強めていきたい。そのことによって相互に佛教の根本思想を見失うことなく佛教がより発展することを願っている。

做为佛教的根本教理,華厳経的三界唯心,三界一心,法華経的諸法実相,治生産業、皆是実相,一称南無佛、皆已成佛道,涅槃経的悉有佛性,法身常住,这些大乗佛教的主要思想,都成为日本佛教的背景。

日本佛教,比起学问研究,更着重于实际的日常把握,佛教的単純化、在家化不断进步,把佛教融入到了日常生活之中。

今后,希望中日的佛教,能够紧密提携,加强联系。依据这样的交流,都不忽视佛教的根本思想,从而促进佛教能够更进一步的发展。这是我的愿望。

 

 

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