2023年01月22日
(2023-01-22 16:40:43)和歌こそなほをかしきものなれ。あやしのしづ山賤がつの仕業も、いひ出でつればおもしろく、おそろしき猪のししも、卧す猪の床といへば、やさしくなりぬ。
この頃の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、詞の外に、あはれにけしき覚ゆるはなし。贯之が「糸によるものならなくに」と言へるは、古今集の中の歌屑とかや言ひ伝へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらと見えず。その世の歌には、すがた·言葉、このたぐひのみ多し。
この歌に限りて、かく言ひたてられたるも知りがたし。源氏物语には、「ものとはなしに」とぞ書ける。新古今には「のこる松さへ峯にさびしき」と言へる歌をぞいふなるは、まことに少し砕けたるすがたにもや見ゆらむ。されど、この歌も、衆議判のとき、よろしきよし沙汰ありて、後にもことさらに感じ仰せ下されけるよし、家長が日記には書けり。
歌の道のみ古に変らぬなどいふ事もあれど、いさや。今も詠みあへる同じ詞·歌枕も、昔の人の詠めるは、さらに同じものにあれず。やすくすなほにして、姿も清げに、あはれも深く見ゆ。
梁塵秘抄の郢曲の言葉こそ、また、あはれなる事は多かめれ。昔の人は、ただ、いかに言ひ捨てたることぐさも、みないみじく聞こゆるにや。(徒然草一四)
和歌可谓是最为有趣的了。身份低微的人做的低贱的事,一经其所吟诵就富有情趣了。即如那令人生畏的野猪,倘若被吟诵为“卧猪之床[1]”,似乎便也就柔和得很多了。
近来的和歌,虽然时有某一阙被认为写得很是不错,但不知怎么的,没有像以前的和歌那样诗外有袅袅余韵的了。贯之[2]所咏的“无物可以系细丝”,据说是《古今和歌集》中的歌屑,不过我没看到过有今人所能吟诵之的。加之当时的和歌,不论格调还是用词,大都是这一类的。
偏偏这一首歌被说成是歌屑,真的是莫名其妙,其实《源氏物语[3]》中就说道:“贯之的所谓无物……”。《新古今和歌集[4]》中的:“冬来山峦落叶舞,惟余松树嗟孤寂”,好像也被说成是歌屑的,起码一般都不认为这是一首工整的和歌。尽管如此,当众议评判这首歌的时候,还是有人认为这是首不错的歌。其后更因后鸟羽院[5]的赏识,给与很高的评价。这歌外的轶事,是记载在家长[6]的日记中的。
还有一种说法说只有和歌一直以来没有变化,不过我不敢苟同。现在所吟诵的虽然是同样的词句以及歌中的名胜典故,与以前的人所吟诵的已染绝非一样的了。那时的吟诵真的很自然率真,歌的格调也清雅,那种情感也很深沉的。
实际上《梁尘秘抄[7]》中的流行歌,似乎要更蕴含很深的情感的。以前的人只是相当随意的吟诵,但今人听起来不是都很棒的吗?
[1] 卧猪の床:野猪躺在茅草蒿草之上。
[2] 贯之:纪贯之,平安前期的歌人、歌学者、三十六歌仙之一。仕醍醐、朱雀两天皇。官从御书所预、土佐守、从四位下直至木工权头。和纪友则他们一起撰进《古今和歌集》。家集有《贯之集》、《古今集假名序》、《大堰川行幸和歌集》、《土佐日记》、《新撰和歌》(撰)等。(868~945年)
[3] 源氏物语:平安中期的长篇小说,作者紫式部。
[4] 新古今和歌集:敕撰和歌集,二十卷。建仁元年(1201年)由源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅经等奉后鸟羽上皇的院宣设立和歌所,元久二年(1205年)成书撰进。
[5] 后鸟羽院:名尊成,也称隐岐院、显德院,高仓天皇第四子,1183年即位,在位十五年让位。妄图王政复古,在1221年时下了讨伐北条时政的院宣(承久之乱),失败后被流放隐岐,后驾崩于此。擅歌道,流放时将《新古今和歌集》更做增删,成书《隐岐本新古今集》。(1180~1239年)
[6] 家长:源家长,镰仓初期歌人,勅撰新古今和歌集的和歌所的设立、关闭及财务事宜的纪录官,承久之乱后下野。其1196年起笔的日記记载了勅撰新古今集十一年间的诸事。(?~1234年)
[7] 梁尘秘抄:后白河法皇编撰。梁尘秘抄十卷和梁尘秘抄口传集十卷,已残缺不全。