[小松拓也故事]从受伤中学到的点滴
(2012-06-22 01:14:25)
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日本小松拓也拐杖 |
分类: 小松拓也的故事 |
083【译文】
从受伤中学到的点滴
自从弄伤了跟腱以后,日常生活充满了种种不便。
但从中学习、体会、发现到的东西也不少。
当时我的生活必须依赖拐杖,所以尽量避免需要多次移动或者起身、坐下的动作。
上下楼梯最为辛苦,因为不得不一个台阶一个台阶地挪动。
不得不过上这样行动不便的生活后,我不禁发现日本虽是发达国家但在无障碍文化和意识方面还落后得很。
不仅如此,人们对伤患或残疾人群体的关心程度也远不及想象。可能你认为平时在对待路上的伤残人士时已经足够亲切体贴,可那实际上只是从健全者角度出发的自以为是。
比如我拄着拐杖走在路上时常常会有阵阵不安向我袭来。
扶着拐杖缓慢前进时从身旁擦身而过的往来行人和自行车比我想象的要多得多。
向前伸出拐杖前进的时候,拐杖并不一定能和身体保持平行。
所以有时候拐杖与地面的接触点会向左右产生小距离的偏移。
但是对一般人来说往往意识不到这种偏移,他们通过目测觉得让开这点应该差不多了吧就稍微拉开些许间距从我身体两侧通过。
一次又一次,每次都让我感到危险,并且神经紧绷。
同时我也不禁意识到,以前身体健康的时候,自己和周围人一样,对行动不便的人们缺乏细致的关怀。
对行动不便的伤残人士来说,一瞬间的判断失误都有可能造成巨大的伤害和危险,因为他们不像健康人那样在遭遇危险时具有立刻回避危险的瞬间爆发力。
腿部受伤的我只是正常地走在马路上,也经常会不小心失去平衡差点摔倒什么的把自己吓一跳。
而且我住的地方到处是坡道,比走在平坦马路上更加危险也更加消耗体力,这一切都让移动行为变得无比艰辛。
但很遗憾的,能够意识到伤残人士的不便、体贴地主动让路或者拉开足够距离缓慢通过的行人少之又少。
当然,偶尔也会碰到悄悄让路尽量不惊到我的行人,每次体会到他们的善意,胸中总会涌出阵阵难以言喻的感动和谢意。
受伤后这几个月的休养生息让我痛切体会到健康是何等重要且弥足珍贵之物,我开始意识到很多平时以为理所当然的事物并非理所当然,它们需要感激和珍惜。
我想这次受伤一定是上帝赋予我的必然考验。
虽然肉体受损,但这些年来培养出的根深蒂固的思想观念和固定概念也幸运地受到震荡、开始破裂。
待续
083【原文】
怪我から学んだ些細なこと
アキレス腱を切って以来日常の生活でも不便が付き纏った。
だがそこから学んだ事や感じた事、気付いた事も少なくない。
当時俺は松葉杖の生活だったし出来れば生活の中でもあんまり移動したり立ち座りを繰り返す行為はしたくなかった。
階段の上り下りは特に辛い作業だったし一段ずつしか上り下り出来なかった。
そういう生活を強いられるようになって日本という国は先進国でありながら意外にもバリアフリーの文化や意識がまだまだ遅れている事に気付かされる。
同時に怪我人や体が不自由な人に対して世間はそこまで関心が強くなく、普段自分が思いやりを持って町行く怪我人に接してきたようでもそれはあくまで健常者目線なのだという事も理解するようになった。
例えば松葉杖で道を歩いていた頃何度となく当時の俺を襲った不安がある。
松葉杖でゆっくり歩く俺の体のすぐ横をすれ違ったり後ろから追い越していく通行人や自転車が意外なほど多かった。
松葉杖を前に出しながら歩く際、必ずしも体に平行して杖を前に出せるわけではない。
時には杖の出しどころに糊代程度のプラスマイナスが生まれる。
だが一般の通行人にとってそんな事は意識の範疇にない場合が多いようで自身の目測だけでこれぐらいなら問題ないだろうと判断した俺の体のすぐ脇あたりを通ろうとする。
当然それらの一回一回が俺にとっては危険を感じる瞬間だったし神経を擦り減らす瞬間でもあった。
同時に健康だった頃、そんな些細な不自由な方達への気配りを周りの人達と同様今まで大して意識した事のない過去の自分に気付く。
体が不自由な人間にとって一瞬の判断の間違いは即大怪我や危険に結び付くし、健康な時と違って危ない目に遭ったからと言って一瞬で危険を回避出来るような瞬発力もない。
怪我人の俺からしたら街を歩いている事だけでもバランスを崩してしまったり転びそうになってしまいハッとする瞬間が何度もあった。
特に俺の住んでいる街は坂道だらけで平坦な道を歩くよりもリスクがいっぱいだったし、体力面でも移動が非常にハードだった。
そういった怪我人を意識したり思いやって道を譲ってくれたりゆっくり大きく避けてくれたりする人は残念ながらほとんど巡り会わなかった。
逆にそっと道を避けてくれたり俺を驚かせないよう気遣いながら道を歩いてくれるような心優しい人にもたまに出会え、何とも言えない感動や感謝を感じる機会にも恵まれた。
怪我をした事で健康がいかに大事で素晴らしい事かを俺は数ヶ月もの間身に染みて感じ取るようになったし、日頃当たり前だと思っていた事が実は非常にありがたみのある当たり前ではない貴重な事なんだと意識出来るようになった。
怪我をした事はきっと俺にとって必然的な神様が与えてくれた試練だったに違いない。
俺は今までの人生で身につけた凝りに凝り固まってしまった思想観念や固定概念を怪我によってラッキーにも打ち破り始める事になるのだ。
つづく
Published on
2011年6月13日
11:44 AM.
Filed under:
小松拓也自伝「俺と中国」