爱宫本百合子
(2018-08-30 18:18:29)
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分类: 日本随笔 |
愛
宮本百合子
翻译:王志镐
愛ということばは、いつから人間の社会に発生したものでしょう。愛という言葉をもつようになった時期に、人類はともかく一つの飛躍をとげたと思います。なぜなら、人間のほかの生きものは、愛の感覚によって行動しても、愛という言葉の表象によってまとめられた愛の観念はもっていませんから。
爱这个词语,到底是从什么时候出现在人社会中的?我认为自从有了爱这个词语,无论如何对人类来说是实现了一个飞跃。之所以这样说,是因为除了人类以外的生物,尽管由于爱的感觉而在行动,却不能根据爱这个词语之表现而将其归结为具有爱的观念。
更に、その愛という言葉が、人間同士の思いちがいや、だましあいの媒介物となったのは、いつの頃からでしょう。そして、愛という字が近代の偽善と自己欺瞞のシムボルのようになったのはいつの時代からでしょうか。三文文士がこの字で幼稚な読者をごまかし、説教壇からこの字を叫んで戦争を煽動し、最も軽薄な愛人たちが、彼等のさまざまなモメントに、愛を囁いて、一人一人男や女をだましています。
更进一步说,爱这个词语使人类志趣相同者产生误会,成为互相欺骗的媒介物,到底是什么时候的事啊?而且,爱这个字成为近代的伪善和自我欺骗的象征,有时从什么时候开始的呢?那些无聊文人用这个字来欺骗幼稚的读者,从说教的讲坛上高呼这个字来煽动战争,最轻薄的恋人们,将其作为他们的各种动量,偷偷嘀咕着爱这个字,一个个地欺骗着每个男女。
愛という字は、こんなきたならしい扱いをうけていていいでしょうか。
愛という言葉をもったとき、人間の悲劇ははじまりました。人類愛という声がやかましく叫ばれるときほど、飢えや寒さや人情の刻薄がひどく、階級の対立は鋭く、非条理は横行します。
爱这个字,是否受到了如此卑鄙无耻的待遇?
当拥有了爱这个词语时,人类的悲剧也就开始了。爱的声音越是被人类喧嚣地叫嚷,饥寒、人情之刻薄也越是严重,阶级的对立越是尖锐,毫无道理的做法越是横行。
わたしは、愛を愛します。ですから、このドロドロのなかに溺れている人間の愛をすくい出したいと思います。
我非常喜欢爱这个字。我想把沉溺在这泥潭中的人类的爱拯救出来。
どうしたら、それが可能でしょうか。わたしの方法は、愛という観念を、あっち側から扱う方法です。人間らしくないすべての事情、人間らしくないすべての理窟とすべての欺瞞を憎みます。愛という感情が真実わたしたちの心に働いているとき、どうして漫画のように肥った両手をあわせて膝をつき、存在しもしない何かに向って上眼をつかっていられましょう。この社会にあっては条理にあわないことを、ないようにしてゆくこと。憎むべきものを凜然として憎むこと。その心の力がなくて、どこに愛が支えをもつでしょうか。
要怎样做才有可能呢?我的方法是,从另一个侧面来看待爱这个观念。去憎恨那些不像是人做的所有事情,不像是人应有的所有道理以及所有的欺瞒。当爱这种感情真实地在我们心中起作用的时候,为什么还像漫画中那样,将肥胖的双手合拢,双膝并拢,面对那些不存在的某种东西眼珠朝上看呢?让这个社会所有的不合情理的东西一去不复返。应该憎恨的东西要凛然面对,如无这种内心的力量,怎能保持对爱的支撑呢?
愛とか幸福とか、いつも人間がこの社会矛盾の間で生きながら渇望している感覚によって、私たちがわれとわが身をだましてゆくことを、はっきり拒絶したいと思います。愛が聖らかであるなら、それは純潔な怒りと憎悪と適切な行動に支えられたときだけです。そして、現代の常識として忘れてならぬ一つのことは、愛にも階級性があるという、無愛想な真実です。
爱也好,幸福也好,无论何时都是人类在这个社会矛盾中生存时所渴望的,根据这种感觉,我们对于欺骗我们和我们的身体的一切事情,我认为要明确地拒绝。如果爱是神圣的,那么要用纯洁的愤怒、憎恶以及恰当的行动来支撑她。而且作为现代常识不能忘记的一件事,那就是爱也是有阶级性的,是并不令人亲切的真实。
〔一九四八年二月〕
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