兄弟们太宰治
(2018-09-01 14:49:10)
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太宰治兄弟 |
分类: 日本随笔 |
兄たち
兄弟们
太宰治
翻译:王志镐
父がなくなったときは、長兄は大学を出たばかりの二十五歳、次兄は二十三歳、三男は二十歳、私が十四歳でありました。兄たちは、みんな優しく、そうして大人びていましたので、私は、父に死なれても、少しも心細く感じませんでした。長兄を、父と全く同じことに思い、次兄を苦労した伯父さんの様に思い、甘えてばかりいました。私が、どんなひねこびた我儘いっても、兄たちは、いつも笑って許してくれました。私には、なんにも知らせず、それこそ私の好きなように振舞わせて置いてくれましたが、兄たちは、なかなか、それどころでは無く、きっと、百万以上はあったのでしょう、その遺産と、亡父の政治上の諸勢力とを守るのに、眼に見えぬ努力をしていたにちがいありませぬ。たよりにする伯父さんというような人も無かったし、すべては、二十五歳の長兄と、二十三歳の次兄と、力を合せてやって行くより他に仕方がなかったのでした。長兄は、二十五歳で町長さんになり、少し政治の実際を練習して、それから三十一歳で、県会議員になりました。全国で一ばん若年の県会議員だったそうで、新聞には、A県の近衛公とされて、漫画なども出てたいへん人気がありました。
父亲去世的时候,大哥刚大学毕业,二十五岁,二哥二十三岁,三男二十岁,而我只有十四岁。兄弟们都很优秀,而且都很大人气了。我在父亲死后,一点儿也没觉得无依无靠。大哥完全像父亲一样,二哥辛劳像伯父一样,只觉得十分甜蜜。而我无论怎样任性,兄弟们总是一笑了之。我对此一无所知,我爱好折腾,他们却置若罔闻,兄弟们不简单,岂止没有,一定有百万以上啊!对那遗产,对亡父政治上诸多势力的坚守,在努力做着眼睛看不见的事情。周围也没有伯父这样的人,总共只有二十五岁的大哥,二十三岁的二哥,他们合力前行,除此之外别无他法。大哥二十五岁就成了镇长,实际见习了一些政治,然后三十一岁成了县议员。他似乎成了全国第一个县议员,在报纸上,他与A县的近卫公一起,能画漫画等,非常有人气。
長兄は、それでも、いつも暗い気持のようでした。長兄の望みは、そんなところに無かったのです。長兄の書棚には、ワイルド全集、イプセン全集、それから日本の戯曲家の著書が、いっぱい、つまって在りました。長兄自身も、戯曲を書いて、ときどき弟妹たちを一室に呼び集め、読んで聞かせてくれることがあって、そんな時の長兄の顔は、しんから嬉しそうに見えました。私は幼く、よくわかりませんでしたけれど、長兄の戯曲は、たいてい、宿命の悲しさをテエマにしているような気がいたしました。なかでも、「奪い合い」という長編戯曲に就ついては私は、いまでも、その中の人物の表情までも、はっきり思い出すことができるのであります。
大哥似乎经常心情不好,但他的抱负在那样的地方是前所无有的。在大哥的书架上,全都塞满了王尔德全集、易卜生全集以及日本戏剧家的著作。长兄自己也写戏曲,经常将弟妹们召集在一间房间,让我们听他读一些戏曲。在这样的时候,我可以看到大哥的脸上洋溢着一种内心的喜悦。那时候我还小,并不怎么明白,只是觉得大哥的大部分戏曲似乎以悲剧为主旋律。其中还有一部叫做《互相争夺》长篇戏曲,剧中的人物表情我至今还能清楚地回忆起来。
長兄が三十歳のとき、私たち一家で、「青んぼ」という可笑おかしな名前の同人雑誌を発行したことがあります。そのころ美術学校の塑像そぞう科に在籍中だった三男が、それを編輯いたしました。
大哥三十岁那年,我们一家人还曾发行过一本同人杂志,起了个滑稽的名字《青涩》。那时正在美术学校塑像科念书的三男也参与了编辑。
「青んぼ」という名前も、三男がひとりで考案して得意らしく、表紙も、その三男が画かいたのですけれども、シュウル式の出鱈目のもので、銀粉をやたらに使用した、わからない絵でありました。長兄は、創刊号に随筆を発表しました。
三男独自策划了《青涩》这个名字并觉得很得意,杂志的封面也是三男画的,由于是超现实主义的胡闹的东西,使用了大量的银粉,以及看不明白的画。长兄在创刊号上发表了随笔。
「めし」という題で、長兄が、それを私に口述筆記させました。いまでも覚えて居ります。二階の西洋間で、長兄は、両手をうしろに組んで天井を見つめながら、ゆっくり歩きまわり、「いいかね、いいかね、はじめるぞ。」「はい。」
标题为《生计》,长兄以第一人称作口述笔记。至今我还记得。长兄在二楼的西式房间里,两手背在后面,一边望着天井,一边慢慢地踱方步。
“好了吗?好了吗?开始吧!”“好!”
「おれは、ことし三十になる。孔子は、三十にして立つ、と言ったが、おれは、立つどころでは無い。倒れそうになった。生き甲斐がいを、身にしみて感じることが無くなった。強いて言えば、おれは、めしを食うとき以外は、生きていないのである。ここに言う『めし』とは、生活形態の抽象でもなければ、生活意慾の概念でもない。直接に、あの茶碗一ぱいのめしのことを指して言っているのだ。あのめしを噛かむ、その瞬間の感じのことだ。動物的な、満足である。下品な話だ。……」
“我今年三十了。孔子曰:三十而立。而我却无立锥之地,像是破产了。对生活的价值,我无切身感受。如果说重了,我除了吃饭之外,已无生计了。这里所谓的《生计》如果是指生活状态的抽象概念,却并无生活意欲的概念,仅仅是直接指向那一碗饭而已。吃了那碗饭,瞬间感到了动物的满足。这是粗野的话。……”
私は、未だ中学生であったけれども、長兄のそんな述懐を、せっせと筆記しながら、兄を、たまらなく可哀想に思いました。A県の近衛公だなぞと無智なおだてかたはしても、兄のほんとうの淋しさは、誰も知らないのだと思いました。
我虽然还是个中学生,却一边将长兄的感怀不停地记了下来,一边心想:长兄真是太可怜了。尽管A县的近卫公因神秘而无知被吹捧,可是长兄真正的孤寂凄凉,却谁也不知道。
次兄は、この創刊号には、何も発表なさらなかったようですが、この兄は、谷崎潤一郎の初期からの愛読者でありました。それから、また、吉井勇の人柄を、とても好いていました。次兄は、酒にも強く、親分気質の豪快な心を持っていて、けれども、決して酒に負けず、いつでも長兄の相談相手になって、まじめに物事を処理し、謙遜な人でありました。そうしてひそかに、吉井勇の、「紅燈に行きてふたたび帰らざる人をまことのわれと思ふや。」というような鬱勃うつぼつの雄心を愛して居られたのではないかと思われます。いつか鳩はとに就いての随筆を、地方の新聞に発表して、それに次兄の近影も掲載されて在りましたがその時、どうだ、この写真で見ると、おれも、ちょっとした文士だね、吉井勇に似ているね、と冗談に威張って見せました。顔も、左団次みたいな、立派な顔をしていました。長兄の顔は、線が細く、松蔦のようだと、これも家中の評判でありました。ふたり共、それをちゃんと意識していて、お酒に酔ったとき、掛合いで左団次松蔦の鳥辺山心中や皿屋敷などの声色を、はじめることさえ、たまにはありました。
虽然二哥似乎在这创刊号上什么文章也没有发表,可是他从一开始就是谷崎润一郎的忠实读者,还对吉井勇的人品非常欣赏。二哥喝酒很凶,具有一种老大气质的豪爽心胸,然而他从不酒后误事,无论什么时候都是大哥的知心人,他认真处理事务,谦逊为人。我想,他是悄悄地以吉井勇的“闯红灯而又归来的人,我认为是真诚的我”这样的雄心勃勃的爱自居。不知什么时候关于鸽子的随笔在地方报纸上发表了,更且二哥的近影在报纸上刊载了,那时候一见到了这张照片,真是没话说了,他也成了相当的文人墨客了,就像吉井勇似的,看上去有一种夸张的威风。脸嘛,像一张左团次似的漂亮的脸。而长兄的脸则是细长条,松本常青藤似的,这只是家里的评判。两人也正好意识到了这点,在醉酒的时候,相伴沉浸在左团次松本常青藤的鸟边山内以及皿公馆的声色中,不仅是刚开始,而且也是难得的。
作者介绍:
太宰治(だざい おさむ),本名津岛修治(つしま
しゅうじ),日本小说家,日本战后无赖派文学代表作家。主要作品有小说《逆行》、《斜阳》和《人间失格》等。
太宰治从学生时代起已希望成为作家,21岁时和银座咖啡馆女侍投海自杀未遂。1935年《晚年》一书中作品《逆行》列为第一届芥川奖的候选作品。结婚后,写出了《富岳百景》及《斜阳》等作品,成为当代流行作家。1948年6月13日深夜与崇拜他的女读者山崎富荣跳玉川上水自杀,时年39岁,留下了《人间失格》等作品。
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