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植物知識  牧野富太郎

(2013-11-16 14:47:44)
标签:

植物

牧野富太郎

日本散文

分类: 日本随笔

植物知識

牧野富太郎

翻译:王志镐

 

 

序言

直率地说,花无非是(植物的)生殖器而已。著名的兰学(从荷兰传入日本的科学)者宇田川榕庵先生在他的著作《植物学起源》中曾这样写道:“花就如同动物的阴处,成为生产繁殖的资本开始的所在。也就是说,花儿实在是美丽,而且有趣的是,有着丰富的生殖器,与动物丑陋的生殖器有着天壤之差别,完全不能与之相比,而且可见之处一点也没有丑恶的地方,完全充满美的看点。首先,花瓣的色彩吸引了我们的眼球,储存的花香扑向我们的鼻子。如果更加以留心,你就会注意到花的形状也好,花萼也好,并不是什么值钱的东西。

 

   まえがき(序言)

 

 

花は、そっちょく率直にいえばせいしょっき生殖器である。有名ならんがくしゃ蘭学者のうだがわようあん宇田川榕庵先生は、彼のちょ著『植学けいげん啓源』に、「花は動物のいんしょ陰処のごと如し、生産はんそく蕃息のとり資て始まる所なり」と書いておられる。すなわち花はまこと誠にびれい美麗で、か且つ趣味にと富んだ生殖器であって、動物のみにく醜い生殖器とはうんでい雲泥の差があり、とてもくら比べものにはならない。そして見たところなんのしゅうあく醜悪なところは一点もこれなく、まったく美点にみ充ちみ満ちている。まずかべん花弁の色がわが眼をひ惹きつける、かこう花香がわが鼻をう撲つ。なおしさい子細に注意すると、花の形でもがく萼でも、注意にあたい値せぬものはほとんどない。

 

这花,无非是为了种子的生存而存在的器官而已。如果种子没有必要生存的话,花完全是无用多余之物,也许不会在植物上表现出来了。而且这花形,花色,雌雄花芯的机能,是制造种子的花所有的构造,是花奉天意接受的任务。所以凡是植物,没有无花的,如果没有花,也有代替花的器官,专司生殖之职责。(不过最下等的细菌之类,是以分裂身体的方式繁殖的。)

 

この花は、たね種子を生ずるために存在している器官である。もし種子を生ずる必要がなかったならば、花はまったく無用のちょうぶつ長物で、植物の上にはあらわ現れなかったであろう。そしてそのかけい花形、かしょく花色、しゆうずい雌雄蕊の機能は種子を作る花のかま構えであり、花の天から受け得た役目である。ゆえに植物には花のないものはなく、もしも花がなければ、花に代わるべき器官があって生殖をつかさど司っている。(ただし最も下等なバクテリアのようなものは、体が分裂してはんしょく繁殖する。)

 

植物是因为什么缘故一定要种子呢,不用说是因为需要持续维持子孙的根源吧。有了这个根源,植物的种属就不会断绝,只要地球存在就可以持续下去。而且保护这种子的,就是果实。

 

植物にはなにゆえに種子が必要か、それは言わずと知れたしそん子孫をつ継ぐ根源であるからである。この根源があればこそ、植物の種属はた絶えることがなく地球の存する限り続くであろう。そしてこの種子を保護しているものが、果実である。

 

草也好,树木也好,再勇敢也不过继承自己的子孙吧,为了不使自己的种属断绝而倾注全力。所以植物一直在地球上生活着,绝不会灭绝。这与动物是一样的,与人类也是一样的,没有什么区别。在这一点上,上等与下等生物有共同的权利。而且人类生子如前面所记,与草木是一样的,只是为了我们的种属不断传向后代,没有什么别的意思。如果不生子的话,种属必定会断绝。也就是说,在我们持续的种属中,起着中继的作用,这就是存在于这个世界上的理由。

 

草でも木でも最もゆうかん勇敢に自分のしそん子孫をつ継ぎ、自分の種属をた絶やさぬことに全力をそそ注いでいる。だからいつまでも植物が地上に生活し、けっしてぜつめつ絶滅することがない。これは動物も同じことであり、人間も同じことであって、なんら違ったことはない。この点、上等下等の生物みな同権である。そして人間の子を生むは前記のとおりくさき草木と同様、わが種属をこうだい後代へ伝えてた断やさせぬためであって、別に特別な意味はない。子を生まなければ種属はついにた絶えてしまうにきまっている。つまりわれらは、続かす種属のなかつ中継ぎ役をしてこの世に生きているわけだ。

 

因此从生物学的观点看来,在这其中得不到中继,对这个义务懈怠的人,作为人类社会的反叛者,说起来这属于独身者,我想不见得有影响吧。也就是说,这是违背天然的自然法则的身体。人类只要有男女,必定要求配偶,难道这不是理所当然的道路吗?

 

ゆえに生物学上から見て、そこになかつ中継ぎをし得なく、その義務をおこた怠っているものは、人間社会の反逆者であって、独身者はこれに属すると言っても、あえて差しつかえはあるまいと思う。つまり天然自然の法則にそむ背いているからだ。人間に男女がある以上、必ず配偶者を求むべきが当然の道ではないか。

 

动物为了维持其子孙,奉献出自己的全部生涯,举出蝉的例子就可以很好地明白。酷暑持续鸣叫的蝉是雄蝉,它是在拼命地呼叫雌蝉。一旦经过甜蜜的幽会,雄蝉莞尔踏上了死亡的旅途,可怜地从树上落下来,死体在地上被暴晒,成为蚂蚁的饵食。

 

動物が子孫をつ継ぐべき子供のために、その全生涯をささ捧げていることはせみ蝉の例でもよくわかる。暑い夏に鳴きつづけているせみ蝉はおすぜみ雄蝉であって、いっしょうけんめい一生懸命にめすぜみ雌蝉を呼んでいるのである。うまくランデブーすれば、おすぜみ雄蝉はかんじ莞爾としてしで死出のたびじ旅路へと急ぎ、あわ憐れにも木から落ちてしがい死骸を地にさら曝し、あり蟻のえ餌となる。

 

但是雌蝉直到产卵还活着,在产卵的最后,在雄蝉的后面追逐着走向死亡。所有的蝉生来出自地上,这就是完全为了生存而全力打拼的缘故。在这里草也好,树也好,虫子也好,鸟也好,兽类也好,人也好,在这一点上没有什么改变,也就是说生物都是一样的。

 

しかしめすぜみ雌蝉は卵を生むまでは生き残るが、卵を生むが最後、おすぜみ雄蝉のあと後を追って死んでゆく。いわゆるせみ蝉と生まれて地上にい出でては、まったく生殖のために全力を打ち込んだわけだ。これは草でも、木でも、虫でも、鳥でも、けもの獣でも、人でも、その点はなんら変わったことはない、つまり生物はみな同じだ。

 

除了植物学家以外,我们看花,并不是为花的真正目的而发出赞美,而只不过是观赏其表面表现出来的美而乐不可及。对花而言,实在是极其迷惑而且可叹的事啊。为了花,捧一掬泪水不好吗?

 

 われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的をたんび嘆美するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美をしょうかん賞観して楽しんでいるにすぎない。花に言わすれば、まこと誠にめいわくしごく迷惑至極とかこ歎つであろう。花のために、いっきく一掬の涙があってもよいではないか。

 

 

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