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秋季漫步——(转载)

(2013-11-14 10:54:45)
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秋季

漫步

萩原朔太郎

杂谈

分类: 日本随笔

秋季漫歩

萩原朔太郎

 

 四季を通じて、私は秋という季節が一番好きである。もっともこれは、たいていの人に共通の好みであろう。元来日本という国は、気候的にあまり住みよい国ではない。夏は湿気が多く、蒸暑いことで世界無比といわれているし、春は空が低く憂鬱であり、冬は紙の家の設備に対して、寒さがすこしひどすぎる。(しかもその紙の家でなければ、夏の暑さがしのげないのだ。)日本の気候では、ただ秋だけが快適であり、よく人間の生活環境に適している。

    一年四季之中,我最喜欢的是秋季,这也是大部分人的喜好吧。本来日本这个国家的气候并不太适合居住。夏季潮湿,世界上少有的闷热,春季的天空低矮压抑,冬季对于纸制门窗的房子又太过寒冷。(可若没有纸制门窗,夏天就难以忍受。)日本的气候就只有秋天是舒适的,是适合人类居住的生活环境。

 

 だが私が秋を好むのは、こうした一般的の理由以外に、特殊な個人的の意味もあるのだ。というのは、秋が戸外の散歩に適しているからである。元来、私は甚(はなは)だ趣味や道楽のない人間である。釣魚(つり)とか、ゴルフとか、美術品の蒐集(しゅうしゅう)などという趣味娯楽は、私の全く知らないところである。碁、将棋の類は好きであるが、友人との交際がない私は、めったに手合せする相手がないので、結局それもしないじまいでいる次第だ。旅行ということも、私は殆(ほとん)どしたことがない。嫌(きら)いというわけではないが、荷造りや旅費の計算が面倒であり、それに宿屋に泊ることが厭(いや)だからだ。こうした私の性癖を知ってる人は、私が毎日家の中で、為(な)すこともない退屈の時間を殺すために、雑誌でもよんでごろごろしているのだろうと想像している。しかるに実際は大ちがいで、私は書き物をする時の外、殆ど半日も家の中にいたことがない。どうするかといえば、野良犬(のらいぬ)みたいに終日戸外をほッつき廻っているのである。そしてこれが、私の唯一の「娯楽」でもあり、「消閑法」でもあるのである。つまり私が秋の季節を好むのは、戸外生活をするルンペンたちが、それを好むのと同じ理由によるのである。

    但是我之所以喜欢秋天,除了这些普遍的理由之外,还有特殊的个人原因,就是因为秋天适合在户外散步。我本来就是一个几乎没有兴趣和嗜好的人。像钓鱼、高尔夫、收集美术品等等的兴趣娱乐,我完全不知道。虽然喜欢围棋和将棋,和朋友也不来往的我,根本没有较量的对手,结果连这个也不玩了。我几乎没有旅行过,倒不是讨厌,因为打包行李、计算旅费太麻烦,而且也讨厌住在旅馆里。知道我有这样性癖的人,想象着我每天在家中为了消磨无聊的时间,无所事事地读读杂志什么的。然而实际上大错,除了写作的时候,我在家里几乎呆不上半天。说起做了什么,我就像野狗一样终日在户外徘徊。而这就是我的“娱乐”,是我的“休闲法”。因此上我喜欢秋天的理由,和在户外生活的流浪者们喜欢的理由是一样的。

 

 前に私は「散歩」という字を使っているが、私の場合のは少しこの言葉に適合しない。いわんや近頃流行のハイキングなんかという、颯爽(さっそう)たる風情(ふぜい)の歩き様をするのではない。多くの場合、私は行く先の目的もなく方角もなく、失神者のようにうろうろと歩き廻っているのである。そこで「漫歩」という語がいちばん適切しているのだけれども、私の場合は瞑想(めいそう)に耽(ふけ)り続けているのであるから、かりに言葉があったら「瞑歩」という字を使いたいと思うのである。

    虽然刚才我使用了“散步”,可是我的情况并不适合这个词。不必说最近流行的郊外远足了,连飒爽英姿地走路样子都没有。在多数情况,我连行走的目的和方向也没有,像神志不清的人一样转来转去。也许“漫步”这个词最适合了,而我还沉迷于冥想之中,如果有这个词汇,那姑且就叫“冥步”吧。

 

 私はどんな所でも歩き廻る。だがたいていの場合は、市中の賑(にぎ)やかな雑沓(ざっとう)の中を歩いている。少し歩き疲れた時は、どこでもベンチを探して腰をかける。この目的には、公園と停車場とがいちばん好い。特に停車場の待合室は好い。単に休息するばかりでなく、そこに旅客や群集を見ていることが楽しみなのだ。時として私は、単にその楽しみだけで停車場へ行き、三時間もぼんやり坐っていることがある。それが自分の家では、一時間も退屈でいることが出来ないのだ。ポオの或る小説の中に、終日群集の中を歩き廻ることのほか、心の落着きを得られない不幸な男の話が出ているが、私にはその心理がよく解るように思われる。私の故郷の町にいた竹という乞食(こじき)は、実家が相当な暮しをしている農家の一人息子(ひとりむすこ)でありながら、家を飛び出して乞食をしている。巡査が捕えて田舎(いなか)の家に送り帰すと、すぐまた逃げて町へ帰り、終日賑やかな往来を歩いているのである。

    我在哪里都是转来转去地走,但最多还是在市中心热闹拥挤的地方。有点走累了,就去哪里找个椅子坐下,而这最好是公园或火车站。特别喜欢火车站的候车室,不仅可以休息,我还乐于在这里看看旅客或其他的人群。有的时候仅仅只是为了这个乐趣就来到车站,呆呆地坐上三个小时,而我在自己的家里无聊地呆一个小时都做不到。爱伦.坡的某个小说讲过一个只有终日徘徊在人群中才能安心的不幸男人的故事,我想我完全能了解那种心理。我的故乡城里有个叫竹的乞丐,是个富裕农家的独生子,却从家里跑出来乞食。被警察抓到送回家后,马上又跑回城里,整日在热闹的大街上走来走去。

 

 秋の日の晴れ渡った空を見ると、私の心に不思議なノスタルジアが起って来る。何処(どこ)とも知れず、見知らぬ町へ旅をしてみたくなるのである。しかし前にいう通り、私は汽車の時間表を調べたり、荷物を造ったりすることが出来ないので、いつも旅への誘いが、心のイメージの中で消えてしまう。だが時としては、そうした面倒のない手軽の旅に出かけて行く。即ち東京地図を懐中にして、本所(ほんじょ)深川の知らない町や、浅草、麻布(あざぶ)、赤坂などの隠れた裏町を探して歩く。特に武蔵野(むさしの)の平野を縦横に貫通している、様々な私設線の電車に乗って、沿線の新開町を見に行くのが、不思議に物珍らしく楽しみである。碑文谷(ひもんや)、武蔵小山(こやま)、戸越(とごし)銀座など、見たことも聞いたこともない名前の町が、広漠たる野原の真中に実在して、夢に見る竜宮城のように雑沓している。開店広告の赤い旗が、店々の前にひるがえり、チンドン楽隊の鳴らす響が、秋空に高く聴(きこ)えているのである。

     一看到秋季晴朗的天空,我的心里竟会莫名地产生思乡之情。随便哪里都行、想去个陌生的城市里旅行。可是就如前面说的,查询火车的时间表、打包行李等等我都做不到,旅行的吸引力就从我心中的映像里消失了。不过有时候会有不那么麻烦的、轻松的旅行。也就是把东京地图放在怀里,去本所深川那一带不了解的区域、浅草、麻布、赤坂等隐藏起来的后街、小巷。特别是穿越武藏野平原时,乘坐各种各样的私营电车,看着沿线新开发的区域,感到不可思议的新奇。碑文谷、武藏小山、户越银座等见所未见、闻所未闻的地方,在广漠的原野上真实地存在着,就像梦见的龙宫一样错杂地立在那里。开店宣传的红旗在各个店前飘扬,庆典乐队的奏鸣声,在秋天的高空中都能听得见。

 

 家を好まない私。戸外の漫歩生活ばかりをする私は、生れつき浮浪人のルンペン性があるのか知れない。しかし実際は、一人で自由にいることを愛するところの、私の孤独癖がさせるのである。なぜなら人は、戸外にいる時だけが実際に自由であるから。

    不喜欢家庭的我,只爱户外的漫步生活的我,也许与生俱来的流浪者的天性吧。然而实际上,是我的孤独癖让我喜欢一个人的自由自在。这是因为人只有在户外时才是真正自由的。

 

 

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