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日语综合教程第六册第七课  关于如何写文章(第二讲)

(2009-10-17 10:23:09)
标签:

写作

日语综合教程

芳贺绥

分类: 综合日语第六册

日语综合教程第六册第七课  关于如何写文章(第二讲)

翻译:王志镐


关于作者:芳賀绥(はが やすし)(1928-)国语学者,日本熊本县熊本市出生。东京大学文学部毕业,历任东京大学、藤女子大学、法政大学助理教授、东京工业大学教授。专攻语言社会心理学研究范围包括表现、文法、方言等方面,并活跃在政治评论界。出演NHK电视台,担当新闻栏目支持等。代表作有《日本文法教室》、《日本人的表现心理》、《语言.社会.日本》等。本文根据《语言》杂志1978年5月号发表的《关于文章》转载。

第六冊 第七課 文章について(关于文章)

 

文章を書くことは苦しい。しかしまた楽しい。書きたいテーマは脳中にあって早く文字化されることを待っている。頭の動きの調子のよいときには、目白押しで待っているといってもそれほど言い過ぎではない状態になる。

 

撰文虽苦,却也有乐。要写的主题在脑袋里等着尽快变成文字。在脑袋好使的时候,把它们说成是正拥挤不堪地等待着的状态,我觉得也并非言过其实。

 

しかし、ひるがえって思うに、文章をかくことは恐ろしい。書くなどということは、恐れるべく、慎むべきことである。

 

但反过来一想,撰写文章又使人害怕。写作之事,应对其存畏惧之心,审慎之心。

 

人は、自分の持っているものを文章化する。それによって他人を益することもあれば、世に刺激を与え、問題を投ずることもできよう。、ひとが「持っている」物は高が知れている。「持っていない」もののほうがはるかに多いのだ。

 

人们将自己持有的想法写成文章,如果说此举有益于他人的话,是因为它可以给社会以刺激,还可以提出问题。但是,人们“所拥有的”东西毕竟有限,而“所不拥有的”东西则多得多。

 

知識、思想、表現力、人格的感化力――どれをとってみても、各人の持っているものは知れている。他人を益するだの、問題を投ずるだのと、楽天的に構えてばかりはいられない。書くことは、おのれの足らざるところを人に示す行為である。隠すより現れる。内にあふれるものが行間に読み取れることもある代わりに、内に何が欠けているかが見えすいて、読者の気持ちを寒々とさせることもある。人は、あまりにしばしば、書いて自己の貧困を世にさらす。

 

知识、思想、表达力、人格的感化力——无论从哪方面看,每个人所拥有的东西都是有限的,不要一味摆出一副乐天派的架势,认为写作是有益于他人的,是提出问题的。写作也是将本人的不足之处展示给世人的行为,越是隐藏越要露馅。既有可以从字里行间读出的内心洋溢着的激情,又有可以让人看透的内心的不足,令读者有冷冰冰的感觉。人啊,因过于频繁地写作,将自己的贫乏无知暴露无遗。

 

足らざるを露呈するだけではない。思いの内容を過不足なく言葉んに表すのと、これがまた容易ではない。事実関係の再構成に手間どる、どこかにすき間が残る。それを文字化する、またすき間がある。言葉足らざるもどかしさは、いつまでも尾を引いてこころが平らかでない。

 

还不仅是暴露自己的不足,要将思考的内容用恰如其分的语言表达出来是一件很不容易的事。重现事实关系要费功夫,哪里都会留下空档。将它写成文字,还会有漏洞。因词语不足而引起的无奈,自始至终会影响着你,使你的心情无法平静。

 

けれども、また思うに、これは、表現すること、更に人が生きることの背負っている宿命というものかもしれない。――人間は、自分の考えを他者に伝えたくて、言語という記号(シンボル)を創りだした。言語は記号であって、考えそのものではない。選び出された言葉の列が、考えを映しているに過ぎない。ちょうど、実際の風景と、カメラで写した風景とに違いがあるように、実際の考えと、言語によるその表現との間には、常に微妙なずれがある。

 

但是,又想到,也许这就是语言表达,就是人类生存着所背负着的注定的命运。——人类为了将自己的想法传达给他人,创造了所谓语言的符号。尽管语言是符号,但不是思想。经过选择的一行词语,只不过反映了思想而已。正如实际的风景与照相机所拍摄的风景相去甚远,实际的思想与通过言语所表达的东西之间,常常存在着微妙的偏差。

 

賢者は黙して語らない。書くことも話すこともせず、ひたすら沈黙を守って世間の尊敬を受けている。壁に向って九年間も沈黙を続けた達磨大師の面壁九年は、さしずめ、その好例といっていい。黙っていれば、恥ずをかかずにすむ。

そうは思っても、そういう考えをここにこうして書いて、新しい恥ずの種をまくのが、人間の、特に凡夫の業というものなのだ。人間の業は、言葉を持って自分を表現しないではいられないというところにある。それが社会の生物としての人間の本能なのだ。

 

贤者沉默不语。他既不写作也不说话,一味地坚守沉默而受到世人的尊敬。总之,恪守沉默而面壁九年的达摩大师,可以称为一个良好的典范。只有保持沉默,就可以避免受辱。如此想来,将这些思想写在这里,从而埋下新的祸根的,就是人类,特别是凡夫俗子的所谓善恶行为。人类的行为就是一定要用语言来表达自己的想法。这是社会性动物人类的本能。

 

とするならば、ためらいや恐れはほどほどに抑えざるを得ない。そして、甘えは捨てなければならない。自分を表現し、相手に理解してもらうために、努力し続けようではないか。たしかに、言葉には記号というものの持つ不自由さがある。けれども、自分の気持ちを正しく相手に伝えるためには、言葉という手段しかないという事実を、もう一度認識し直さなければならない。

 

要这样做,就不得不适当地压抑犹豫和恐惧,而且还必须抛弃肤浅的想法。为了表达自己的想法,让对手理解自己的想法,就要努力坚持不懈。的确,在语言中存在着作为符号的不便之处,但是为了将自己的感想准确地传达给对方,语言是唯一的手段,我们必须再次重新认识这个事实。

 

これが文章を書くという行為の出発点だと私は考えている。その上に立って文章を実際に書いていくとき、私が心掛けていることが二つある。

 

我以为,这是写文章这一行为的出发点。基于这一点,具体将文章写下去时,我所注意的有两点。

 

まず第一に、自分の持っている考えを、少しでも的確に表現しようということだ。そのためには、まず自分自身の考えをつきつめていくことが大切だ。自分でさえ「うまく言えないんだけれど」ということを、他人がどうして理解してくれるものか。

 

第一,要将自己持有的想法尽量准确地表达出来。为此,首先很重要的一点是:自己的想法要经过深思熟虑。连自己都“不能很好说清楚”的事,又怎能让别人理解呢?

 

自分の考えことを言葉という記号に移しかえたとき、まとまっていなかった思考がはじめてはっきりとした形をとる。言語は記号だから、思考そのものとの間にはずれがあるかもしれない。だからこそより的確に言葉を選ばなくてはならない。少しでも自分の心にぴったりくる言葉を選ぼうとするのは、ものを書く者の責任だ。そのための格闘こそ、表現作業の中心である。

 

将自己思考的事情转换成所谓语言这种符号时,考虑不成熟的东西开始形成清楚的想法。因为语言是符号,与思想之间或许存在偏差。正因为如此,必须尽量准确选择语言。尽可能选择自己心中最恰当的词语,这是写作者的责任。正是为此目的而进行的搏斗,才是这项表达工作的中心。注意要将心灵与语言之间的距离无限地缩小。

 

第二に、他者に伝えるために表現しているという意識を忘れがちになる。けれども、表現というものは、それが相手に伝わってはじめて完結するものだ。「どんな人たちに」「何を」伝えたいのかということを意識することは、ものを書く場合、不可欠の条件だ。

 

第二,不要忘记是为了向别人传达,才有了所谓表达的意识。在热衷于自己的表达时,往往会不知不觉忘了对方的存在。可是,所谓表达,是传达给对方之后才告完结的。“向何种人”转达“何种事”,如此之类的意识,在写文章时是不可欠缺少的条件。

 

これは、日常の生活の中で「相手を意識した」話し方をしていないと、うまくできる、ものではない。ところが、若い人たちは書くことと同様、こういう話し方が苦手なようだ。

 

这一点,如果在日常生活中不使用“意识到了对方”的说话方法,就不能很好地表达。可是年轻人对这种说话方式与写作一样,感到很不擅长。

 

それが難解で独りよがりな表現とつながり、飛躍ばかりでとりとめもない表現とうtながる。これでは、当人は自分を表現しているつもりでも、独り言を言っているのと変わりはない。

 

这样的说话方式,与令人费解的、自以为是的表达方式有关系,与跳跃的、不得要领的表达方式有关系。这样做的话,即使当事人打算表达自己的想法,却与自言自语没有任何区别。

 

「言語不信」などと言う人に限り、ありきたりの没個性的な表現に寄りかかって、こと足れりとする傾向がある。それでいて、他人に理解されないとこぼしいているのは、甘えというものだ。「弘法筆を選ばず」というが、実際には、弘法大師は書体によって筆を選んだという。表現も同じことで、相手によって選ぶ言葉も違ってくる。そのためには、ふだんから様様な文章を読み味わって、言葉に関する感覚を養っておかなくてはならない。

 

就那些声称“不相信语言”的人的范围而言,他们有一种倾向,就是依靠那些司空见惯的、毫无个性的表达方式,并就此而感到满足。尽管如此,他们还发牢骚说难以被他人所理解,这种想法真是浮浅。虽然有“弘法写字,笔无选择”的说法,但据说实际上,弘法大师还是根据字体的不同而选择不同的毛笔。表达也是如此,要根据不同的对象而选择不同的词语。为了做到这一点,从平时起就必须阅读品味各种各样的文章,培养关于语言的感觉。

 

さて、これまで述べてきた心掛けに基づいて、いよいよベイをとるとなると、具体的には、どんな点に注意して文章を書いていったらいいだろう。

 

那么,如果以上述注意点为基础,终于到了拿起笔来写的时候,具体要注意哪些要点才能写好文章呢?

 

「文章をはレイアウトである」――これが、私の文章観だ。

文章をレイアウトする目的は、テーマ(主題)をはっきりと浮かび上がらせることにある。この文章によって、何を人に伝えたいのか、どんなことを訴えたいのかということから、目をそらせてはいけない。テーマが分裂していったり、テーマ以外の要素が入ってきたりすると、レイアウトをすっきりと仕上げることができない。

 

“文章就是版面设计”,这就是我对文章的看法。

对文章进行版面设计的目的,就是要将主题清楚地浮现出来,还在于将想要说的事情之间的比重和互相关系视觉化。通过这篇文章,想要把什么传达给人们,想要述说什么样的事情,眼光必须紧盯着这一点。一旦主题分散,或将主题以外的因素牵涉进来,版面就不能设计得很流畅。

 

レイアウトには、スペースの感覚が大切だ。文章のレイアウトの場合、このスペースのは原稿用紙の枚数にあたる。それが五枚であるか、十枚であるか、スペースの大きさによって、レイアウトの方向も定まる。例え、枚数が自由である場合でも、自分で内容に応じたすペースを設定しておく必要がある。無限大の紙にレイアウトはできないのだから。

 

在版面设计上,空间的感觉很重要,在设计文章的版面时,这个空间就是稿纸的张数。是五页,还是十页,根据空间的大小,定下版面设计的方向。即使页数可以自由决定,自己也有必要根据内容设定空间,因为在无限大的纸上是无法进行版面设计的。

 

スペース(枚数)がはっきりしたら、それを視覚的に捕らえることを勧めたい。一枚の紙の大きさを、これからレイアウトすべきスペースと考える。そして、その紙を縦の線で区切っていこう。こうして、スペースの割り振りを考えていくのだ。

 

空间(页数)搞清楚了,建议你让它抓住视觉。将一页纸的大小,考虑为此后将进行的版面设计的空间,然后用竖线将纸分区,用这样的办法来考虑空间的分配。

 

読み手の注意を促し、興味を呼び覚ます提示の部分、それを受けて、テーマを浮き彫りにしていく展開の部分、そしてそれらの全てが一点に凝縮する結論の部分。そういう話の組み立てを、こうやると、自分の目で確かめることができる。今思い返してみると、中学生のころから、一枚のざら紙に答案を書く時、無意識のうちにこういうレイアウトを実行していたようだ。いま、論文を書く時でも、新聞のコラムを書く時でも、同じコツを実践しているらしいと、自分では感じる。答案を書くコツ、すべては共通してたものと信じる。教師の立場で学生の答案を読むとレイアウトの巧拙が歴然とする。

 

促使读者注意、唤起读者兴趣的提示部分,一旦承接下来,要将主题突出的展开部分与此后的全部文章浓缩成一点,成为结论部分。将这些话组织起来,这么一来,就可以用自己的眼睛来确认了。现在回想起来,似乎从中学生开始,在一张草稿纸上写答案时,就无意之中实施了这种“版面设计”。我感到,现在写论文也好,写报纸栏目也好,好像都在实践着同一技巧。我相信写答案的技巧,做专栏的技巧,进而发现和掌握报纸排版的技术,全都有共通的地方。站在教师的立场来阅读学生的答案,版面设计的优劣便一目了然了。

 

提示や結論の部分が長すぎて、くどい印象を与えたりすることはないだろうか。展開の部分の材料の配列はうまくおさまっているだろうか。材料が多すぎてごたごたしたり、一方に偏って散漫になったりしてはいないだろうか。――こうしたことを点検して、レイアウトが決まったら、それに従って文章を書いていけばいい。

 

提示和结论部分如过长,不会给人以冗长乏味的印象吗?展开部分的材料排列得让人满意吗?有没有因为材料过多而显得散乱,或因偏重于一方而显得内容不集中吗?——如此检点一番,决定了版面设计,就可以按照它来写文章了。

 

こうした作業は、戯曲やシナリオを書く時に用いられていて、専門用語では、「箱書き」と言っている。「箱書き」は戯曲やシナリオを構成するレイアウトなのだ。

 

这样的作业,在戏曲和脚本的写作时也被采用,在专业用语中叫做“分场景要点”。“分场景要点”就是构成戏曲和脚本的版面设计。

 

言ってみれば、文章とはドラマのようなものである。その主人公は、もちろん文章の読み手だ。読み手というバイプレイヤーには、台詞はない。けれどもにそこに存在し、行間に主人公の書き手と無言の対話をしていなくてはならない。大学を受験した時の自分をいまになって思い出すと、確かに、出題者(顔も名も知らない)と対話する気持ちで筆を進めていたと思う。

 

说穿了,文章就是戏剧那样的东西。它的主人翁不用说就是写文章的人自己,但是还有一个对手戏角色,那就是文章的读者。所谓读者这个配角没有台词,但他却的的确确地存在着,在文章的字里行间里,与主人翁的创作者进行着无言的对话。现在回想起考大学时的我,确实是在与命题者(他的相貌与名字一概不知)进行对话的心情下,拿着笔往下写的。

 

ドラマの主人公は、相手役に向って、熱心にその考え方を説いていく。相手役の反応を見ながら、その心をつかもうと働きかけていく。そして、ついに相手の心を動かすというクライマックス。そして、幕切れの印象的な台詞。

 

剧中的主人翁面对着他的对手戏角色,热情地述说着他的想法,一边观察着他的对手戏角色的反应,一边发动攻势紧抓住他的心,最终达到使对方激动起来的所谓高潮。然后,是给人深刻印象的闭幕台词。

 

こういうドラマの構成は、そのまま文章にもあてはまる。「聞き手」という相手役を設定し、彼らの考え方を具体的にイメージとして捕らえることができれば、文章は生き生きと精彩を放つはずだ。

 

这样的戏剧的结构,也可以照搬到文章中去。设定了所谓的“倾听者”的对手戏角色,如果能将他们的思考方法具体化形象化,文章理应会熠熠生辉,大放异彩。

 

そんな時、台詞にはリズムが生まれる。文章にもまた、リズムがなくてはならない。センテンスの長短は、そのまま書き手自身の息づかいを感じさせなくてはならない。――いやにだらだらち、何処までも続くセンテンスは鈍重で切れ味が悪い。といって、やたらにぶつぶつと、センテンスをこま切れにすればよいというのでもない。センテンスは短いほどよい、という法則が影響力を持った時期もあったが、その主張は極端すぎて妙味がない。やはり、ものにはほどがある。

 

这样的时候,台词会产生节奏。文章也必须要有节奏。句子的长短,必须让人感觉到作者自身的呼吸节奏。——如果一味令人讨厌地唠唠叨叨,过于冗长的句子会使人感到迟钝而毫无快感。但话又要说回来了,如果过分简短,将句子切成一段段碎块也不好。曾经有个时期盛行这样一种有影响力的法则,那就是句子越短越好,这种主张由于过于极端而趣味全无。还是万事要有限度为好。

 

短いセンテンスを積み重ねて、たたみかけていく呼吸。そして、長いセンテンスで、じっくりと説いていく呼吸。そんな長短の配合よろしきを得て、初めて文章のリズムが生まれてくるものだ。

 

将短句子堆积起来,接二连三地继续的节拍。然后是长句子,慢慢地继续说教的节拍。有了这样长短结合,相得益彰,文章的节奏才会产生出来。

 

 

それを会得するために、自分の文書を朗読してみることを勧めしたい。声に出して読んでみると、リズムのあるないが実に明快にわかってくる。そして、快いリズムのある文章には、退屈させずに引っ張っていく力があり、読み手の心に食い込む説得力があるものだということが悟れるだろう。

 

为了掌握这一点,建议将自己的文章朗读一下看看。试着读出声来,有无节奏就很快会知道了。而且你将领悟到,在有节奏的令人愉快的文章里,应该有不会令人厌倦的吸引力,以及深入读者内心的说服力。

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