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维纳斯米洛 |
分类: 日本报刊杂志摘译 |
ミロのウイナス
ミロのウイナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには両腕を失っていなければならなかったのだと、僕は、ふと不思議な思いにとらわれたことがある。つまり、そこには、美術作品の運命という制作者のあずかり知らぬ何ものかも、微妙な協力をしているように思われてならなかったのである。
望着米洛的维纳斯,一个不可思议的念头突然占据了我的心一一为了具有迷惑人的魅力,她必须失去她的双臂。换而言之,我认为一定有着某种为制作者无法预先知道的所谓美术作品的命运在微妙地协力起着作用。
パロス産の大理石でできている彼女は、十九世紀の初めごろ、メロス島でそこの農民により思いがけなく発掘され、フランス人に買い取られて、パリのルーウル美術舘二運ばれたといわれている。その時彼女はその両腕を故郷であるギリシアの海か陸どこか、いわば生臭い秘密の場所にうまく忘れてきたのであった。いや、もっと的確に言うならば、彼女はその両腕を、自分の美しさのために、無意識的に隠してきたのであった。よりよく国境を渡って行くために、そしてまた、よりよく時代を超えていくために。このことは、僕には、特殊から普通へのたくまざる跳躍であるようにも思われるし、また部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉薄であるようにもおもわれる。
据说,用帕罗斯岛产的大理石雕刻而成的她,19世纪初被米洛斯岛的一个农民在无意中发掘出来后,被法国人买下,运到了巴黎的落浮宫博物馆。那时候,她就把她那双玉臂巧妙地遗忘在故乡希腊的大海或是陆地的某处,也就是所谓世俗的某个秘密场所了。不,说得更确切一些,她是为了自己的美丽,无意识地隐藏了那双玉臂,为了更好地跨越国界,为了更快地跨越时代。这既使我感到这是从特殊向普通的一次毫不矫揉造作的跳跃,这使我认识到这是一次通过舍弃部分具体形象来获取完整性的偶然的追求。
僕はここで逆説を弄しようとしているのではない。これは、僕の実感なのだ。ミロんウイナスは、言うまでもなく、高雅と豊満の驚くべき合致を示しているところの、いわば美というものの一つの典型であり、その顔にしろ、その胸から腹にかけてのうねりにしろ、あるいはその背中の広がりにしろ、どこを見つめていても、ほとんど飽きさせることのない均整の魅力がそこにはたたえられている。しかも、それらに比較して、ふと気づくならば、失われた両腕は、ある捉え難しい神秘的な雰囲気、いわば生命の多様性な可能性の夢を深々とたたえているのである。つまりそこでは、大理石でできた二本の美しい腕が失われた代わりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、不思議に心像的な表現が思いがけなくもたらされたのである。それは確かに半ばは偶然の生み出したものであろうが、なんという微妙な全体性への羽ばたきであることだろうか。その雰囲気に一度でも引きずり込まれたことがある人間は、そこに具体的な二本の腕が復活することをひそかに恐れるにちがいない。たとえ、それがどんなにみごとな二本の腕であるとしても。
我无意在此玩弄虚假悬念,因为这是我的真实感受。毋庸赘述,米洛斯的维纳斯显示出高雅与丰满的惊人的一致,简直是所谓美的一个典型。无论是她的脸庞,还是她那从乳胸至腹部的起伏曲线,或者是她那宽大的肩背,不论从哪里看过去,到处都焕发出使人百看不厌的匀称的魅力。而且,与此相比较,人们会突然发现,那失去了的双臂,那使人难以把握的神秘色彩,使她被生命的多样性可能之梦所浓郁地笼罩着。换言之,虽然失去了美丽的大理石双臂,却暗示着可能存在的无数美丽臂膀,由此给人带来一种意想不到的不可思议的心理启示。尽管这其中有一半是偶尔产生的,然而这是多么微妙的向着整体性的振臂跳跃啊!人们只要有一次陷入这种气氛,便无疑会对那实际中复活的双臂而暗暗感到恐惧,即使那是多么精美无比的两条玉臂。
したがって、僕のとっては、ミロのウイナスの失われた両腕の復元案というものが、すべて興ざめたもの、滑稽でゲロテスクものに思われてしかたがない。、もちろん、そこには失われた原形というものが客観的に推定されるはずであるから、死ねての復元のための試みは正当であり、僕の困惑は勝手なものであることだろう。しかし、失われている事に一たび心から感動した場合、もはやそれ以前の失われていない昔に感動することはほとんどできないのである。なぜなら、ここで問題となっっていることは、表現における量の変化ではなくて、質の変化であるからだ。表現の次元そのものが既に異なってしまっている時、対象への愛と呼んでもいい感動が、どうして他の対象へさかのぼったりすることができるだろうか?一方にあるのは、おびただし夢をはらんでいる無であり、もう一方にあるのは、例えそれがどんなにすばらしいものであろうとも、限定されてあるところのなんらかの有である。
因此对我而言,任何使维纳斯的双臂复原的方案,都会使我感到扫兴,使我觉得是一些滑稽的奇谈怪论。当然,那些方案对失去部分的原形都作了客观的推断,对恢复原状所作的所有尝试都是正当有理的,我的困惑只是庸人自扰吧。然而,人们一旦对失去了的东西曾有过一次发自内心的感动之后,就已经再也不会为从未失去的往昔而感动了。为什么会这样呢?这是因为这个问题已不再表现为量的变化,而是质的变化了。当表现的着眼点这样的东西已变得不同的时,真可谓已经为对象的爱所感动,又怎能回溯到另一个不同的对象上去呢?一边是包含着无限梦幻的“无”,而另一边,哪怕它是多么出类拔萃的东西,也只是范围有限的某种概念的“有”。
例えば、彼女の左手はりんごを掌の上にのせていたかもしれない。そして、人柱像に支えられていたかもしれない。それとも、しゃくを?いや、そうした場合とは全く異なって、入浴前か入浴後のなんらかの羞恥の姿も考えられる。実は彼女は単身像ではなくて、群像のひとつであり、その左手は恋人の肩の上にでもおかれていたのではないか、と。――復元案は、実証的にまた想像的にさまざなに試みられているようである。僕は、そうした関係の書物を読み、その中の説明図を眺めたりしながら、恐ろしくむなしい気持ちにおそわれるのだ。選ばれたどんなイメージも、既に述べたように、失われていること以上の美しさを生み出すことができないのである。もし真の原形が発見され、そのことが疑いようもなく僕に納得されたとしたら、僕は一種の怒りをもって、その真の原形を否認したいと思うだろう、まさに、芸術問い言うものの名において。
比如说,她的左手掌上也许正托着一只苹果。而且,她也许正搀扶着某一个牺牲者。或许她正擎着一面盾牌?或者是一支玉笏?不,也许全然不是这样,而只是显示了一位入浴前或入浴后的女子的羞涩之情。更有甚者,也许可以这样来考虑:实际上这并不是一尊单身的塑像,而是群像中的一尊,她的左手不会正放在恋人的肩上吧?复原方案从实证或是想象的角度作了各种各样的尝试。我读了与此有关的书籍,凝视着书中的说明图,一种惊恐空虚之情占据了我的心头,使我不颤而栗。选定的任何一种形象,正如我如上所述,都不能产生比已失去的更多的美感。即便找到了真正的原形,使我不得不承认这事已不再有任何疑问,那么我将以满腔的怒火,去否定那个真正的原形,理所应当以艺术的名义。
ここで、別の意味で吟味があるいことは、失われているものが両腕以外の何ものかであってはならないということである。両腕でなく他の肉体の部分が失われたいたとしたら、僕がここで述べている感動は、おそらく生じなかったにちがいない。たとえば眼がつぶれていたりら、鼻が欠けていたり、あるいは乳房がもぎとられていたりして、しかも両腕が損な割れずにきちんとついていたとしたら、それには、生命の変幻自在な輝きなど、たぶんありえなかったのである。
在这里,如果以其他的意义来考虑,失去的只能是双臂,而不能是其他的任何部分。假如失去的不是双臂而是其他肉体的某个部分,恐怕就未必会产生我在此叙述的感动了。譬如说眼睛被戳坏了,鼻子残缺了,或者乳房被拧了下来,而双臂却完好无损,那么,她那生命中变幻无常的光辉,恐怕就不复存在了。
なぜ、失わらたものが両腕でなければならないのか?僕はここで、彫刻におけるトルソの美学などに近づこうとしているのではない。井出というもの、もっと切り詰めて言えば、テというものの人間存在における象徴的な意味について、注目しておきたいのである。それが最も深く、最も根源的に暗示しているものはなんだろうか?ここには実体と象徴のある程度の合致がもちろんあるわけであるが、それは世界との、他人との、あるいは自己との、千変万化する交渉の手段なのである。言い換えるなら、そうした関係を媒介するもの、あるいはその原則的な方式そのものなのである。だから、機械とは手の延長であるという、ある哲学者が用いた比喻は、まことに美しく聞こえるし、また恋人の手を初めて握る幸福をこよなく讃えた、ある文学者の述懐は、不思議に厳粛な響きを持っているにである。どちらの場合も、決めて自然で、人間的である。そして、例えばこれらの言葉に対して、美術品であるという運命を担ったミロのウイナスの失割れた両腕は、不思議なアイロニーを呈示するのだ。ほかならぬその欠落によって、逆に、可能なあらゆる手への夢を奏でるのである。

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