華胥の幽夢 -4
(2011-05-15 14:41:32)
标签:
朱夏慎思本当主上胥萢文化 |
分类: 日文原片小说-十二国记 |
「……なぜ? 折れた枝を抜き取るか、それができないのなら、華胥華朶ごと放置していけばいいのじゃないの?」
「そうなんです。だから……太保の御遺体を隠したのは、華胥華朶がそこにあったことを知られたくなかったからだ、と思うんですけど……」
「どうして?」
青喜は、しゅんと首を垂(た)れた。
「華胥華朶はそもそも台輔(たいほ)のもの、それを馴行さまが砥尚(ししょう)さまに献じた。持っているのは、砥尚さまのはずです」
「……ええ」
「私はあの日、馴行さまにお会いしました。馴行さまはその時、華胥華朶を砥尚さまに差しあげたと言っておられたし、献上したあと、華胥華朶がどうなったのかをご存じないようでした。少なくともあの日まで、馴行さまは華胥華朶を御覧になってはいなかったんです。では、華胥華朶はいつ、砥尚さまの許(もと)から馴行さまの許へと運ばれたのでしょう?」
「あの夜、砥尚(ししょう)が持って東宮(とうぐう)を訪ねた……?」
「だと思うんです、確実じゃないですけど。砥尚(ししょう)さまが下官(げかん)に命じて届けさせた、ということだってあるわけですからね。ただ、あの日、砥尚さまが華胥華朶(かしょかだ)を持って東宮に向かわれたなら、砥尚さまは絶対に華胥華朶がそこにあることを知られたくなかっただろうと思うんです。砥尚さまだけは、他ならぬ自分が華胥華朶を運んだことを知っていらっしゃるわけですから」
「では……本当に砥尚なの?」
たぶん、と青喜(せいき)は悲しそうに答えた。
「なぜ、砥尚はそんなことを」
「なぜなんでしょうねえ。……もっと不思議なのは、砥尚さまはなぜ、胸を張って御自身がやられたのだと仰(おっしゃ)らなかったのか、ってことです」
え、と朱夏(しゅか)は顔を上げた。
「だって、砥尚さまはこの国の王なんですよ。仮に砥尚さまが太師(たいし)、太保(たいほ)を殺(あや)められたとしても、それで主上(しゅじょう)を裁くことのできる人間がどこにいるって言うんです?」
「それは……きっと砥尚が潔癖(けっぺき)だからだわ。砥尚は自分がそんな残虐(ざんぎゃく)を行なったことを、知られたくはなかった。それでなくても、朝(ちょう)の傾いているこの時期に」
「それでも隠す必要があるかな。馴行(じゅんこう)さまには謀反(むほん)の噂(うわさ)もあったわけでしょう。たとえそれがなくたって、馴行さまが反した、だから斬(き)り捨(す)てたと言えばそれですむのじゃ」
「謀反(むほん)があれば、民も官も、砥尚の王者としての資格を疑うわ」
「でも、主上は馴行さまが反意をもって太師を殺(あや)めた、姉上、兄上と共謀して謀反を企(たくら)んでいたと仰(おっしゃ)ったわけでしょう。そしてその罪によって私たちを裁くおつもりだった」
「……それは、そうだけど」
「謀反があったとは言えなかった――そういうことではないと思うんです。自分の犯した罪を恐れられ、なかったことにしたかったら、御遺体を隠すより、むしろ謀反だと仰いますよ。御遺体を隠したって、砥尚さまは自分の罪をご存じです。自分のせいじゃない、馴行さまが悪かったのだと言えば、自分の罪から目を逸(そ)らすことができるんですから」
確かにそうだ、と朱夏はうなずく。
「では……なぜ?」
「分かりません。でも、私は華胥華朶がとても気になります。砥尚さまは太師の御遺体は放置したけれども、華胥華朶は隠された。人を殺めたという罪よりも、華胥華朶のほうを恐れているみたいに。――そもそもなぜ、砥尚様は華胥華朶を東宮に持っていかれたんでしょう。いいえ、華胥華朶だけじゃない……」
朱夏は瞬(またた)く。
「だけじゃない?」
「もちろんです。砥尚(ししょう)さまは華胥華朶(かしょかだ)と剣を持って東宮(とうぐう)にいらしたんです。そもそも路寝(ろしん)、燕寝(えんしん)では、門卒(もんばん)と護衛の官以外、剣を携行しないのが慣例です。主上(しゅじょう)でさえ、剣を帯びていられるのはご自身の居宮である正寝(せいしん)だけ、仁重殿(じんじゅうでん)と東宮には、主上といえど護衛といえど、剣を携行していくことはできません」
朱夏(しゅか)ははっとした。
「砥尚(ししょう)さまは、そもそも東宮にいらしたとき、あえて剣を携(たずさ)えていかれたのです。最初から太師(たいし)、太保(たいほ)をお斬(き)りになるおつもりだったかはともかくも」
砥尚は東宮に行こうと思い立った。剣を掴(つか)み、華胥華朶を掴んで。それが殺意の発露だとは限らない。だが、少なくとも怒りの発露ではなかっただろうか。どこかに向かうに際して武器を携えていくとすれば、それは懼(おそ)れか怒りのせいだろう。懼れのあったはずがない。少なくともその夜、長明殿(ちょうめいでん)にいるのは、痩(や)せた老人と貧相(ひんそう)な小男でしかなかった。共に剣を持ったこともないような、砥尚にとっては脅威(きょうい)となるべくもない人物。
「砥尚は怒っていたのだわ……怒りにまかせて、剣を握(にぎ)り、華胥華朶を握って東宮へ向かった……」
「だと思うんです。問題は、なぜ華胥華朶が砥尚さまの怒りに関係していたのか、ということなんですよね」
「砥尚は馴行(じゅんこう)を怒ったのでしょう? 台輔(たいほ)のものを取り上げて恥をかかせた、と言って」
「それは、馴行さまが華胥華朶を献上したときの話でしょう。そのときならともかく、いまになってお怒りになりますかね?」
朱夏は考え、はたと思い至った。
「砥尚は華胥華朶を使ったのでは? そして、自分の理想とする才(さい)が、理想の国でなんかないと知った。だから――」
青喜(せいき)は溜息(ためいき)をつく。
「かもしれません。……よく分からない。理由は分からないのですけど、華胥華朶に何か関係があるんだと思うんです。馴行様が華胥華朶を献じたことが、始まりだったんじゃないかって」
そうかもしれない、と朱夏は胸を押さえた。
「……だったら、それは栄祝(えいしゅく)の罪でもあるのね……」
「兄上の? なぜです?」
「そもそもそれを勧(すす)めたのは栄祝なんですもの」
朱夏の言葉に、青喜はきょとんと目を丸くした。
「兄上が? 兄上が勧(すす)めたんですか?」
「ええ……だと思うわ。私はたまたま行き合って、栄祝(えいしゅく)と馴行(じゅんこう)が話をしているのを耳にしたのだけど。あの頃、馴行は砥尚(ししょう)に何も有益な助言をしてあげられないこと、何の助けもできないことをとても気に病んでいたのよ。頼りにならない弟だって、砥尚から見限られてしまうのじゃないかって。それで栄祝が勧めたのだと思うわ」
朱夏(しゅか)はたまたま園林(ていえん)の樹影越し、通りかかっただけなので、会話のすべてを聞いたわけではない。だが、栄祝が、華胥華朶(かしょかだ)を献じてみれば少しはお役に立てるかもしれない、このことは秘しておくから、馴行の発案だったということにすればいい、と勧めているのだけは耳にした。
「……そんな」
青喜(せいき)は顔を強張(こわば)らせた。朱夏は眉(まゆ)をひそめる。
「それが、どうかしたの?」
「あ……いや、何でもないです。ちょっと驚いただけで……」
「その顔は何でもないという顔じゃないわ。何なの、青喜」
青喜はひどく迷っている様子だった。何度も逃げ場を探すように堂室(へや)を見回し、朱夏の顔と見比べる。
「言ってちょうだい。いまは非常時なのよ」
「あのう……だから、馴行さまはすごくきっぱり否定されたんで……」
「何のこと?」
ですからね、と青喜は深く息を吐く。
「私がお会いしたときのことです。砥尚さまは華胥華朶を使われて、自分の理想が正しいことを確認なさったから確信がおありなんだろうか、というような話をしたんです。そしたら馴行さまはすごくきっぱり、それはあり得ない、って否定されたんですよ。私はそれがすごく奇妙な気がして」
「なぜ?」
「だって、馴行さまはいつだってお兄さまの意見大事だったじゃないですか。砥尚さまが白と言えば白、そういう方で、お兄さまと自分を引き比べて、いつだって自分のほうが劣っているんだって思っておられるような方で……その方が、ああもきっぱり言い切るなんて変な感じがしたんです」
「それは……そうかもしれないわね」
「それで――根拠は何もないんですけど、ひょっとしたら、馴行さまは、華胥華朶を使われたのかなって思ったんです」
朱夏(しゅか)は口を開いた。――それは、あり得る。馴行(じゅんこう)は助言のできない自分に気落ちしていた。采麟(さいりん)から下賜(かし)された華胥華朶(かしょかだ)を得て、砥尚(ししょう)に献じる前に、それを使ってみることは、いかにもありそうなことだ。華胥の国がどういうものだか知ることができれば、有効な助言もできるだろう。華胥華朶は采(さい)の国氏(こくし)を持つ者にしか使えないが、王弟であった馴行は、もちろん国氏を持っている。
「じゃあ……馴行は華胥の国を見て、それで、それが才(さい)とは――砥尚の目指している才とは別物だと確認したのね?」
「だと思うんですよ。だから、こうもきっぱり否定なさるのかな、と私は思ったんです。でも、だったらちょっと妙な気がして」
「妙?」
「ええ。馴行さまが華胥の国を見て、それは才とは別物だと思われたなら、砥尚さまが華胥華朶を使われて、満足なさることは絶対にあり得ないはずです。なんだけど、砥尚さまは本当に華胥華朶を使わないでいられたでしょうか?」
「それは……」
「砥尚さまは本当に迷っておられたんですよ。連日東宮(とうぐう)を訪ねられて、太師(たいし)や母上と話しこんでおられた。砥尚様だって、自分の座った椅子(いす)が壊(こわ)れそうだってことは分かっておられたはずです。今、道を正さなかったら、このまま終わってしまうんだってことは分かってらっしゃった。そこに、答えを教えてくれる宝重(ほうちょう)を差し出されて、それを使わないでいるなんてことができるのかな」
「……それは難しいかも……」
「でしょう? でも、華胥華朶を使えば、砥尚さまはすごく絶望するか、あるいは急に政(まつりごと)を方向転換なされるか、どちらかだったと思うんですよ。でも、そのどちらもなかった。砥尚さまは唐突に、とても確信的になられた。馴行さまの記憶によれば、ちょうど華胥華朶を砥尚さまに献じた頃からです」
「砥尚は華胥華朶を使ったの? それで確信を――いいえ、そんなはずはないわね」
「の、はずなんです。でも……台輔(たいほ)がおられる。台輔は何度も何度も仰(おっしゃ)ってました。一度だって夢の中の才と、現実の才が重なることはなかった、離れていくばかりだった、って。華胥華朶の夢で見た華胥の国と、才は少しも近づかなかった、ってことですよね、それ」
でしょうね、と朱夏は俯(うつむ)く。そこまで過(あやま)ちは深かったのかと思うと、ひどく情けなく、辛(つら)かった。
「でも、本当にただの一度も、なんてことがあるんでしょうか?」
朱夏(しゅか)は青喜(せいき)を振り仰ぐ。
「少なくとも登極(とうきょく)なさった当初、砥尚(ししょう)さまは天意を受けておられたんですよ? 王朝の最初の一歩から、まったく見当違いの方向に踏み出されたなんて――そこまで踏み違っておられて、二十余年とはいえ、玉座(ぎょくざ)が保(も)つんでしょうか。そもそも天命が下るでしょうか」
「……そこまで酷(ひど)くはなかったはずだわ。確かに、私たちはたくさんのことに失敗したけれども、巧(うま)くいっているように見えた時期もあったし、ほんの少しぐらいは、失敗せずにすんだこともあったと思うの。そう思いたいだけかもしれないけれど」
「でしょう? ……何か変なんです、華胥華朶(かしょかだ)は。華胥華朶は華胥の国を夢にして見せてくれると言われてますけど、そもそもそれが間違っているんじゃないでしょうか」
「分からないわ。それは、どういう」
「ひょっとしたら、華胥華朶は、使う者によって見せる夢が違っているんじゃ」
そんな、と朱夏は口を開けた。
「でも、そう考えると得心がいくんです。台輔(たいほ)は華胥華朶を使っておられた。けれども台輔の見た華胥の国は、台輔だけのもの。だから砥尚さまの目指していたものとは、重なることがなかった。馴行(じゅんこう)さまも使われた。そして馴行さまが見た華胥の国も、馴行さまだけのもの、台輔の見ておられた華胥の国とも違うし、才(さい)のありようとも違っていた」
「まさか……そして砥尚も使った、と? 砥尚は砥尚の華胥の国を見た。それは砥尚の目指したものと一致していた。だから砥尚は突然、確信的になった……と」
青喜(せいき)はうなずく。
「華胥華朶の見せる華胥の国は、理想郷の名ではないんだと思うんです。国のあるべき姿を見せてくれるんじゃない。砥尚さまが見る華胥の国は、砥尚さまが理想とする国なんだと思うんです。砥尚さまは、砥尚さまが理想とするところの国を夢で見たのだし、台輔は台輔の理想とするところの国を夢で見た。きっとそれは、慈悲(じひ)で埋め尽くされた国でしょう。麒麟(きりん)の見る夢なんですからね。一片の無慈悲も入り込む余地もない。だったらそれが現実の才と重なることなんてあり得ないです。――そういうことだと思うんです。華胥華朶は正道を示さない。使った者の理想を形にして夢として差し出すだけなんだって」
それで確かに形は合う。朱夏は認めねばならなかった。
「でも、そんな宝重(ほうちょう)に何の意味があるの?」
「意味ならありますとも。だって意外に人は、自分が何を望んでいるか、知らないものなんですから」
まさか、と朱夏は失笑した。青喜は困ったように眉尻(まゆじり)を下げる。
「姉上には迷う、ということがないんですか? 自分を掴(つか)みかねるということは?」
「それは……」
「たとえば姉上は、奏(そう)から才(さい)へと戻ってこられましたよね。けれども姉上は、奏の公主(こうしゅ)から奏で働いてくれないか、と言われたとき、とても嬉(うれ)しそうでした。あれは奏に残りたいということだったんじゃないんですか? けれどもこうして才(さい)に戻ってきた。それはなぜです?」
「それは……栄祝(えいしゅく)の言い分に一理があると思ったからだわ。確かに私は奏に残りたいと一瞬だけ思いました。けれど、栄祝の言うとおり、才がここまで傾いた責任の一端は、私にもあります。正道を掲(かか)げて扶王(ふおう)を糾弾(きゅうだん)し、砥尚(ししょう)と共に朝(ちょう)を築いた。それなのに、ここで正道を捨てることがどうしてできるでしょう」
「それは、捨ててはならない、と自分に課している、という意味ですか? それとも、捨てられない、という意味ですか?」
朱夏(しゅか)は困惑した。青喜(せいき)の問いかけはあまりに微妙だ。
「捨ててはならないと自分に課しているのだと言えばそうなのかもしれないわ。私は、ここで正道を投げ捨てるようなことはしたくないの。してはならない、と思うの」
「してはならない、は自分に対する禁止ですね? それは投げ捨てることに誘惑を感じるからこそ、禁じなければならないんじゃないんですか?」
「そうじゃないわ。捨てたりしない人間でありたいのよ。投げ捨てれば絶対に後悔するわ。とても自分が嫌(いや)になると思うの。そんな人間になってしまうことは嫌なの」
「それだって、やはり誘惑を感じている、ということですよね?」
朱夏は言葉を失った。なんだかひどく、自分が薄汚(うすぎたな)い生き物に思え、いたたまれなかった。青喜は微笑(ほほえ)む。
「ああ、そんな貌(かお)をなさらないでください。姉上のそれは、蔑(さげす)むようなことじゃないです。道なんて投げ捨てて、奏でやり直したいと思うのは、人として当然のことですよ。誘惑を感じないはずがない。それを抑えて、ちゃんと道を守っていられるから、姉上は立派だと思うんです。最初から誘惑を感じない人が道を守っていられるのは当然のことで、立派でも何でもないです。罪に誘惑を感じる人が、罪を断固(だんこ)として遠ざけていられる、そのことのほうが何十倍も立派なことなんですよ。――でしょう?」
「そうなのかしら……」
「そうですとも。――でもね、そんなふうに人は自分の本音に、疎(うと)いものなんですよ。私はそう思うんです。本当に望んでいるのはこれなのに、そうであってはならないと感じる、あるいはそれを望めばいっそう悪いことになるのじゃないかと不安に思う、不安に思っている自分が不快で、不安などないふりをすることもあるでしょうし、端(はな)から、これを望むのが当然だと信じて疑ってない、なのに心のずっと深いところで納得できてないってこともあるでしょう。人間なんて複雑なんです。いろんな想(おも)いが錯綜(さくそう)して、蓋(ふた)をしたり捻(ねじ)れたりして、本当に望んでいることを覆い隠してしまう」
「……そうかもしれないわ」
「だとしたら、華胥華朶(かしょかだ)があればとても助かるでしょうね。そういう迷いや縺(もつ)れを全部取り除いてくれて、自分が本当に望んでいる国の姿を見せてくれれば、妙なことで迷わないですむんですから。私は、華胥華朶とはそういうものなんだと思うんです。理想を濾(こ)して不純なものを取り除いてくれるものなんだって」
朱夏(しゅか)はうなずいた。青喜(せいき)は微笑(ほほえ)み、そして顔色を曇(くも)らせる。
「問題は、兄上はそれに気づいてらっしゃったのだろうか、ということです」
「栄祝(えいしゅく)が知っているはずなんかないわ。華胥華朶はずっと、国のあるべき姿を見せてくれるということになっていたんですもの」
「だったらいいんですけど……」
青喜は目を逸(そ)らした。
「もしも兄上が華胥華朶の本当の意味をご存じで、それであえて馴行(じゅんこう)さまにそれを勧(すす)めたのだとしたら、これは大変な罪です……」
罪、と呟(つぶや)き、朱夏もそれに気づいた。血の気の引いていくのが、自分でも分かった。
華胥華朶は国のあるべき姿を見せるわけではない、単に夢見る者の理想を明らかにするだけなのだと分かっていて、砥尚(ししょう)にそれを与えたのだとしたら。砥尚は何も知らず、華胥華朶を使い、自らの理想は正しかったのだと再確認してしまったのだとしたら、――それはみすみす、失道(しつどう)に向かって砥尚を押し出すことだ。砥尚は華胥華朶を使ったために、あたら自らの進むべき道を正す機会を失ってしまったことになる――。
7
朱夏はその日、眠れなかった。臥牀(ねどこ)の中で栄祝が戻ってきた物音を聞いたけれども、寝入ったふりをして出迎えることもしなかった。いまは栄祝の顔を見ることができない。
栄祝は華胥華朶がどういうものだか知っていただろうか? 知っているはずがないと思う一方で、知っていても不思議はない、と思う。采麟(さいりん)の見る華胥の国は、ただの一度も現実の才(さい)と重ならなかった。少しも近づいていない――それさえ耳にする機会があれば、華胥華朶に疑惑を抱くことは可能だし、疑ってみればその真の働きに気づくことも不可能ではない。
もしも知っていて、馴行(じゅんこう)にそれを勧(すす)めたのだとしたら。自分が馴行を介し、勧めたことを隠すために、それを秘しておいたのだとしたら。栄祝(えいしゅく)は、砥尚(ししょう)の見る夢が、砥尚の進む道を正すことなどあり得ない――確信をもって失道(しつどう)に向かうことになると承知で、それを勧めたことになる。つまりは、栄祝は砥尚に道を失わせたのだ。
そんなことがあり得るはずはない。栄祝は砥尚の朋友(ほうゆう)であり、兄弟にも等しい存在だったのだから。砥尚が道を失えば、それを支えていた栄祝にも罪は生じる。それを懼(おそ)れこそすれ、求める理由などあるだろうか?
そう思う一方で、だからこそ砥尚は怒ったのではないか、と感じた。馴行は華胥華朶(かしょかだ)を献じ、砥尚はそれを使った。そして自分の理想に確信を得て、誤った道を突き進んだ。自己を正す最後の機会を、砥尚は華胥華朶のせいで失った。もしも砥尚が華胥華朶の真の意味を知ってしまえば、――何もかも承知で馴行がそれを献じたのだと誤解すれば、剣と華胥華朶を握(にぎ)りしめて東宮(とうぐう)に向かうことは、極めて自然なことに思われた。
そう、そもそも馴行には反意(はんい)ありとの噂(うわさ)があったのだ。それと、華胥華朶の真の意味が結びつけば、砥尚が馴行に騙(だま)されたのだと思っても無理はない。
(でも……そんな噂がいつの間に)
少なくとも朱夏(しゅか)は、そんな噂(うわさ)を耳にしたことがなかった。それはいったい、どこから出た噂だったのだろう。あえて誰かが、その噂をばらまいたのだとしたら。そしてその誰かが、華胥華朶の真の意味を砥尚に耳打ちしたとしたら――。
(そんなことがあるはずはない……)
選(よ)りに選(よ)って栄祝が。朱夏が伴侶として選び、掛け値なしの敬愛を注いだ相手。その栄祝が、そんな、恐ろしい――。
(そんなはずはない)
栄祝が、砥尚を罪に陥(おとしい)れるなんて。そんな人柄ではない。現に栄祝は才(さい)に戻った。栄祝が砥尚から玉座(ぎょくざ)を取り上げ、そこに自分が座ろうと思うなら、なぜあえて大逆(たいぎゃく)によって殺されるかもしれない才へ戻るはずがあるだろうか?
(絶対に違うわ……)
朱夏は明け方、ようやく浅い眠りに落ち、そして堂室(へや)のほうが騒がしいのに気づいて目を覚ました。何かがあったのか、と身を起こしたところに、青喜(せいき)が入ってきた。
「ああ、お目覚めでしたか」
「何か……あったの?」
「主上(しゅじょう)のお姿が見えないそうです」
え、と朱夏(しゅか)は声を上げた。同時に足が震え始めた。
「どうして……どこに」
「分からないので、官がお捜ししています。砥尚(ししょう)様の騎獣(きじゅう)が見あたらないとかで、官はちょっと狼狽(う ろ
た)えているのですけどね。ひょっとしたら、台輔に会いにいかれたのかも、と」
「砥尚がなぜ、いまさら台輔に? ……ねえ、青喜(せいき)、砥尚は馴行(じゅんこう)のことを」
「結局、みなさんで御相談の上、お知らせしたそうです。砥尚様は真っ青になられて、座りこんでしまわれたとか。激しい勢いで人払いをなさって、それきりお姿が見えなくなったので、みなさん余計に心配しておられるんですよ」
そう、と朱夏は呟(つぶや)き、両手を握りしめる。
「……栄祝(えいしゅく)は?」
「昨夜遅くに戻ってらっしゃいました。例によって書房(しょさい)で沈没してらしたのですけど、今の知らせでお起きになって。とりあえず官を指揮(しき)するために朝堂へ向かわれました。姉上は起こさずともよいと言ってらっしゃいましたけど、お起きになりますか?」
ええ、と朱夏は答えた。起き出して堂室(へや)に入り、そこで何らかの知らせが届くのを待つ。だが、夜になっても何の知らせもなく、やがて官邸の外までもが騒(ざわ)めき始めた。
「いったい、外で何が起こっているの……?」
知りたいが、朱夏は外に出られない。本来なら、朱夏も栄祝も、そして青喜も官邸からは出てはならないのだ。門には門衛(もんばん)がついている。栄祝が再三出ていっている以上、出入りに目を瞑(つぶ)るよう言い含められてはいるのだろうが、だからといって、軽々しく表の様子を窺(うかが)いに出ていくようなことはできなかった。
青喜は心得たようにうなずき、堂室を出ていく。すぐに戻ってきて、何でもない、と伝えた。
「門衛にちょっと贈り物をして聞いてみたんですけど」
「まあ……青喜」
「非常時だから大目に見てください。主上がいないことが広まって、すっかり官が狼狽(ろうばい)しているようです。いまのうちに王宮を出ていこうとする連中がいたり、逆に金目のものを物色する連中がいたりで騒然としているようですけど、まだみんな右往左往しているだけのようですよ」
「そう……」
呟(つぶや)いて、朱夏はぐったりと椅子(いす)に身体(か ら だ)を沈めた。
「……青喜(せいき)、私は不安なの……そんなことはあり得ないと分かっているけど、砥尚(ししょう)は本当に出掛けたのかしら。まさか」
「その先は聞きませんよ」
青喜は、きっぱりと言った。
「何ひとつ確かじゃないんですからね」
その夜、栄祝(えいしゅく)は戻らないままだった。夜が明け、さらに翌日の夜が来ても、栄祝は戻らない。外の騒(ざわ)めきもやんで、辺りは張りつめたように静まり返っている。
明け方になって、朱夏(しゅか)は堪(たま)らず立ち上がった。
「……私は出掛けます」
栄祝に会わねばならない――朱夏は震えた。これ以上、不安だけを抱いていることには堪(た)えられない。砥尚はどこに行ったのか。本当にどこかへ消えたのならいい。だが、もしもそうでなかったら――。
青喜は溜息(ためいき)をつき、棚(たな)から衣類を取り出した。
「姉上は蟄居中(ちっきょちゅう)なのですから、できるだけ目立たないようにしてください。ここに奚(げじょ)の袍子(き も
の)を借りてきてあります」
朱夏はうなずき、それを受け取った。臥室(しんしつ)で着替えて堂室(へや)へ出ると、青喜も同じく袍子姿をしていた。
「青喜、それは」
「もちろん、姉上にお供するんです。蟄居中(ちっきょちゅう)の姉上が出掛けられたなんて、知れたら大事(おおごと)なんですからね。誰かに見咎(みとが)められたら、私がその場を何とかしますから、委細かまわずここに駆(か)け戻(もど)ってくるんですよ。門卒(もんばん)には鼻薬を嗅(か)がせていますから。――いいですね?」
「青喜、でも」
「問答無用です。さあ、急ぎましょう。夜が明けてからでは面倒です」
躊躇(た め
ら)いながらうなずいて、朱夏は目を逸らした門卒の間を通って官邸を出た。夜明け前、宮城(きゅうじょう)はしんと物音、気配が絶えている。万が一、顔見知りに会ったときのために俯(うつむ)き、青喜の選んだ裏道を急いで、朱夏は外殿にある朝堂へと向かった。
人目を憚(はばか)りながら基壇に登ると、戸口には兵卒が落ち着きなく控(ひか)えていた。彼らは朱夏の顔をよく見知ってはいるが、さすがに咎められるようなことはなかった。
「――朱夏」
朱夏が堂内に滑(すべ)りこむと、栄祝は驚いたように顔を上げた。そこには、小司寇(しょうしこう)をはじめとして夏官長大司馬(かかんちょうだいしば)、蟄居中(ちっきょちゅう)であるはずの太宰(たいさい)、小宰(しょうさい)、さらには更迭(こうてつ)されたはずの大司寇までが揃(そろ)っていた。
「……主上(しゅじょう)は」
「まだ見つからない」
言って栄祝(えいしゅく)は朱夏(しゅか)に歩み寄ってくる。
「勝手に邸(やしき)を出たりして。いくら何でもふたりとも抜け出しては……」
「栄祝、少し話をしたいの」
朱夏が告げると、栄祝はわずかに眉(まゆ)をひそめる。背後の官を見やり、そしてうなずいた。こちらへ、と栄祝が朱夏と青喜(せいき)を促(うなが)したのは、朝堂の左右に設けられた夾室(こ
べ や)だった。朱夏はそこに滑(すべ)りこみ、栄祝がそれに続き、そして青喜は外に残って扉(とびら)を閉めた。
「――どうした? 何かあったのか?」
訊(き)いた栄祝に対面し、朱夏は両手を握(にぎ)り合(あ)わせる。
「栄祝……砥尚(ししょう)はどこに行ったの?」
「分からない。騎獣(きじゅう)が消えていることから、台輔(たいほ)のところへ行かれたのではないかと言う者もいる。とりあえず沙明山(さめいざん)には青鳥(せいちょう)を出して、砥尚が現れたら返信してほしいと伝えたが、いまだに答えはない」
「貴方(あ な た)は本当に、砥尚の行く先を知らないのね?」
栄祝は驚いたように目を見開く。
「知っているはずがない」
そう、とうなずき、朱夏は改めて問う。
「ひとつ訊(き)きたいの。馴行(じゅんこう)に反意ありという噂(うわさ)は、どこから聞きました?」
栄祝はわずかに表情を固くした。
「……さあ。どこだったか。それがどうした?」
「とても大切なことなの。思い出してください」
栄祝は視線を逸(そ)らす。
「さて……誰かから耳打ちされたのだったか、あるいは、下官の話をたまたま小耳に挟(はさ)んだのだったか……」
嘘(うそ)だ、と朱夏は直感した。それは長い間、共に人生を歩んできた者の勘(かん)だった。
「噂の出所を調べてください。――いえ、調べたいの。私にさせてくださるわね?」
「どうしたのだ、急に。……もちろん、知りたいと言うのなら、調べさせるが、とにかく砥尚が見つかって、我々の沙汰(さた)が決まるまでは」
「それとも、噂を流したのは……貴方?」
栄祝(えいしゅく)は一瞬怯(ひる)み、すぐにまさか、と答えた。平然としてはいたが、朱夏(しゅばい)には彼が狼狽(ろうばい)していることがよく分かった。――それだけの時間を寄り添ってきた。
「馴行(じゅんこう)に華胥華朶(かしょかだ)を献じてはどうかと勧(すす)めたのはなぜ?」
「何のことだ?」
「貴方(あ な た)が勧めたのでしょう? 私はあのとき、傍(そば)にいたのです」
栄祝は目を見開く。真実、狼狽(ろうばい)したように視線を泳がせた。
「……そう、確かにお勧めはしたが」
「華胥華朶がどういうものだか知りながら?」
「朱夏」
栄祝は朱夏を見る。その目は切羽(せっぱ)つまった色をしていた。
「お前は――何を言いたいのだ。さっきから、まるで私を責めるかのように」
「……どうしてなの?」
朱夏は涙が溢(あふ)れてくるのを感じた。やはり、すべては栄祝が。
「なぜ、砥尚(ししょう)を失道に追いこんだの? なぜ、罪を唆(そそのか)したの」
栄祝は顔を背(そむ)け、そして決然と朱夏を見返した。
「私が罪を勧めたわけではない。罪を犯すは余人にあらず、砥尚自身が選んだことだ」
「貴方(あ な た)がそう、仕向けたのよ!」
「そう思うのはお前の勝手だ。だが、お前はそれを証明できるのか」
「できません。したいとも思わない。私は貴方の罪を知ってます。それで充分です」
「私の罪ではない、砥尚の罪だ」
栄祝は吐き捨て、朱夏の肩を握(にぎ)る。
「いいか、すべては砥尚が王の器でなかった、ということなのだ」
「……栄祝」
「我々がどんな過(あやま)ちを犯した。いつ道に背(そむ)いた。にもかかわらず、粉骨砕身(ふんこつさいしん)してなお、国がいっかな治まらないのはなぜだ」
「それは……」
「私は何度も考えたが、党羽(な か
ま)に問題があるとは思えなかった。彼らは皆よく職分を守り、労を惜(お)しまず働いている。道に照らし、身を挺(てい)して国に尽くしているのだ。にもかかわらず才(さい)は倒れる。それはなぜなのだ」
「……それは砥尚も同じだわ。砥尚だって」
「砥尚は王だ。我々とは違う。我々が問われるのは、官吏(かんり)としての器量だが、砥尚が問われるのは王者としての器量なのだ。砥尚を天命を下すに値する器だと見込んだからこそ、天は砥尚(ししょう)を王にしたのではなかったのか。その天命が尽きようとしている。砥尚が王としての器ではなくなった――それ以外に理由があろうか」
現に、と栄祝(えいしゅく)は声を低めた。
「私が、馴行(じゅんこう)に反意があったのでは、と言えば、調べるまでもなく鵜呑(うの)みにした。いいか、私は決して、反意があったのだと断じたわけではない。ただそういう可能性もある、と提示しただけだ。だが、砥尚は一笑に付すことができなかったのはもちろん、馴行に問い質(ただ)すでなく、調べるでなくそれを信じた。馴行を信じず、疑ったのは砥尚だ。そればかりか、砥尚は我々まで疑ったろう。私が疑念を吹きこんだのではない、砥尚が自ら疑ったのだ」
「栄祝、それは言い訳にならないわ」
「なぜだ? 私は馴行に何をしたわけでもない。馴行に怒り、剣を取って凶行に及んだのは砥尚自身だ。夢ひとつで国の荒廃(こうはい)に目を瞑(つむ)り、己(おのれ)を確信できるほど、砥尚は傲慢(ごうまん)になっていた。猜疑(さいぎ)に満ち、感情を律することができず、激情に駆(か)られて最悪の罪を犯した――そういう者になってしまった。だからこそ、天は砥尚を見放したのだ」
朱夏(しゅか)は栄祝の手を振(ふ)り解(ほど)いた。
「貴方(あ な た)は、罪を擦(なす)りつけたかったのね」
「私が太師(たいし)や馴行に狼藉(ろうぜき)を働いたわけではない!」
「けれど貴方(あ な
た)は、国を傾けた罪を砥尚に擦りつけたのだわ。自分たちにも責任があるのだと言いながら、貴方は自分が誤っていたなどと、少しも思っていなかった。自分の過(あやま)ちではない、すべては砥尚のせいだったのだと言うために、貴方はあえて砥尚を罪に向かって押し出したのよ」
「私は――」
「貴方(あ な
た)は道を失ったのが自分でないのだったら、それでよかったのね? たとえ砥尚に大逆(たいぎゃく)の疑いをかけられ、それで刑場に引き出されて殺されることになっても、誰が道を失った砥尚の正義を信じるでしょう。罪は砥尚にだけあって、貴方は死んでも正義の者でいられる……そういうことだったのね」
「それが真実だ」
いいえ、と朱夏は首を振る。
「砥尚は貴方にとって、弟にも等しい者だったはずです。同時に朋友(ほうゆう)であり、主(あるじ)だった。その砥尚を貴方は裏切り、救うどころか罪に押しやり、自らが正義と呼ばれるためにすべての罪を負わせようとしたのだわ。それが罪悪でなくて何なのです!」
栄祝は顔色を変えた。
「貴方(あ な た)のその行ないの、どこに正義がありましょう。どこに道があるのです」
栄祝(えいしゅく)が絶句したとき、激しく扉(とびら)を打つ音がした。失礼を、と急(せ)きこむように言って、青喜(せいき)が扉を押し開ける。
「どうしたの?」
「――主上(しゅじょう)が」
見つかったの、と朱夏(しゅか)は走る。青喜の後ろには表情を歪(ゆが)めた官吏(かんり)たちが殺到していた。
「禅譲(ぜんじょう)でございます!」
朱夏は足を止めた。
「……いま、何と?」
「白雉(はくち)が末声(まっせい)を鳴きましてございます。主上は自ら位を降り、禅譲なさいました」
「……砥尚(ししょう)」
よろめいた朱夏を青喜が支える。知らせを持って駆(か)けつけてきたのだろう、衣も髪も取り乱した春官長大宗伯(しゅんかんちょうだいそうはく)が袖(そで)で顔を覆(おお)った。
「禅譲ゆえに、御遺言がございます」
白雉は王の即位と同時に一声(いっせい)を鳴き、退位と共に末声を鳴く。禅譲の場合に限り、位を降りた王の遺言を残すことがあった。
「遺言……?」
「――責難(せきなん)は成事(せいじ)にあらず、と」
大宗伯は、言ってその場に泣き崩(くず)れた。
8
その場にはしばらく号泣する声、嗚咽(おえつ)する声が満ちた。いまだ官は砥尚をこんなにも慕(した)っているのだと思うと、朱夏は胸の詰まる思いがした。
「……砥尚」
ごく微かな声は背後から、栄祝(えいしゅく)の半ば呆然(ぼうぜん)としたような呟(つぶや)きだった。
「砥尚は自身の罪から逃げなかったのだわ……過(あやま)ちを正すことを選んだ……」
朱夏が囁(ささや)くと、背後で小さく呻(うめ)き声(ごえ)がする。すぐに栄祝は朱夏の脇を通って、朝堂を退出していった。それを追うように、ぱらぱらと官は立ち上がり、朝堂を出ていく。おそらくはこの訃報(ふほう)を伝えにいくのだろう。朝堂の東に広がる府第(やくしょ)に向かい、出ていく官吏(かんり)たちをよそに、栄祝の後ろ姿だけが、まっすぐ南へと下っていった。
「……責難は成事にあらず、か」
切なげな色をした声に朱夏(しゅか)が振り返ると、青喜(せいき)はくしゃりと笑って、袖(そで)で顔を拭(ぬぐ)った。
「……やっぱり砥尚さまだなあ」
「砥尚は何を言いたかったのかしら……?」
「きっと、お言葉どおりの意味ですよ。――人を責め、非難することは、何かを成すことではない」
「どういう意味なの? 私は決して砥尚を責めたり非難したりしたことは」
いいえ、と青喜は首を横に振る。
「砥尚さまは、御自身のことを言われたんだと思いますよ。そして、たぶん、御自身の至った結論を、教訓として官吏(かんり)たちにも残そうとなさった」
「砥尚が? 何を? 分からないわ。何を責めるの?」
「扶王(ふおう)です」
え、と朱夏は呟(つぶや)く。
「きっと、そういうことなんだと思います。私は、母上にそう言われたことがあるのを思い出しました。ずっと昔――まだ高斗(こうと)の頃です。砥尚様が高斗を旗揚(はたあ)げなさって、兄上がそこに馳(は)せ参(さん)じられて、それで私も一緒に行きたかったんです。だから、母上にそう言ったことがある。母上も一緒に揖寧(ゆうねい)に行きましょう、高斗に参加しましょうって。そのとき、母上が、似たようなことを仰(おっしゃ)いました」
「慎思(しんし)さまが?」
「責難(せきなん)するは容易(た や す)い、けれどもそれは何かを正すことではない、って」
「私は砥尚を信頼しています」
――そう、慎思は言った。
「けれども、あの高斗とやらには賛同できません。砥尚にもそう言いました」
なぜです、と青喜は養母に訊(き)いた。
「自分でお考えなさい。私は人を非難することは嫌いです。砥尚には、言うべきことを言いました。後は砥尚が自ら考え、選ぶことです」
「そんなあ」
青喜が言うと、養母は微笑(ほほえ)む。
「考えることを惜しまないこと」
「ええと……じゃあ。これだけ教えてください。どうして母上は、非難するのが嫌いなんですか?」
「そんな資格はないと思うからですよ。それは、非難するだけなら、私にだっていくらでもできますけどね。私は砥尚(ししょう)のやっていることに疑問を感じます。それは違う、と言うことは容易(た
や す)いけれど、では何をすれば違わないのか、それを言ってあげることができないのです」
「……さっぱり分かりません」
「青喜(せいき)はこの国をどう思いますか? 王をどう思う?」
「主上(しゅじょう)は道を外(はず)れていると思います。だって本当に酷(ひど)いありさまなんですから」
「では、もしも主上と台輔(たいほ)が身罷(みまか)られたら、青喜は昇山(しょうざん)するのですね?」
は、と瞬(またた)いて、青喜は慌(あわ)てて手を振った。
「私が――ですか? とんでもない」
「なぜ?」
「だって、私になんて、国を治められるはずがないです。砥尚さまや兄上ならともかく」
「あら? 青喜は自分ができもしないことを、他人ができないからといって責めるの?」
慎思(しんし)はおどけて言う。青喜は狼狽(う ろ た)え、意味もなく左右を見渡した。
「ええと……いえ、そのう」
「主上を責める資格があるのは、主上よりも巧(うま)く国を治められる人だけではないのかしら」
「それは……そうかもしれませんけど」
「砥尚に対しても同じように思うのですよ。それは私も、いまの才(さい)のありさまは酷(ひど)いものだと思います。すべて主上のせいだと言えば、そうなのでしょうね。だから主上に対し、非難の声を上げる者がいることは当然のことなのでしょう。徒党を組んで大きな声を上げれば、主上の耳にも届くかもしれません。砥尚のやっていることは、そういうことね。けれども、私には何かが違うように思えます。それは違うのじゃないの、と砥尚を非難することは容易(た
や
す)いけれど、では、どうすればいいのかと言われると、それが私にも分からないのです。国を正し、主上を正す必要があることは確かです。そのために何をすればいいのかは分からない。ただ、砥尚のやっていることは違うと思う――それだけで、砥尚を責めることなど、してよいのでしょうか?」
「それは……そうですけど」
「正す、ということは、そういうことではないのかしら。そちらじゃない、こちらだと言ってあげて初めて、正すことになるのじゃない?」
「砥尚さまは、正しい道が見えておられるからこそ、声を上げてらっしゃるのでしょう?」
「なのでしょうね。私はとりあえず、違うと思う、とは伝えました。これが正しいと示すことはできないけれども、あなたのしていることに賛同はできない、と。それを聞いてもなお、自身の道に確信が持てるのであれば、砥尚(ししょう)の思うようにやってみればいいでしょう」
「やってみれば、って……母上は意外に冷たい方なんだなあ」
「そうですか? だって、私は正解を知らないのですから、砥尚が間違っているとは限らないでしょう?」
「もしも砥尚さまのほうが間違っていたら?」
「間違っていたと分かれば、砥尚はそれを受(う)け容(い)れて正すことのできる者です。私はそう信じていますよ」
慎思(しんし)は言って微笑(ほほえ)んだ。
「私は砥尚のやっていることが間違いだと知っているわけではありません。ただ、自分が違和感を覚えるだけなの。違和感がある以上、手を貸すことはできないけれども、こちらのほうが正しいのだと言ってあげることもできないのだから、砥尚を非難する資格などありませんし、そんなことをする気もありません。だから、青喜(せいき)も好きにしていいのですよ。砥尚のほうが正しいと思うのなら、行って手を貸しておあげなさい」
「でも……」
それでは慎思のほうが間違っている、と青喜は判じたことになる。困って慎思を見上げると、養母はくすりと笑った。
「私への気遣(きづか)いは無用ですよ。私が間違っていて砥尚が正しければ、それで国は良いほうに向かいます。肝要(かんよう)なのは、そこなのですからね」
「……私は、今になって、母上の仰(おっしゃ)っていたことが、ちょっぴりだけど分かるような気がします。責めるのは容易(た や
す)い。非難することは誰にでもできることです。でも、ただ責めるだけで正しい道を教えてあげられないのなら、それは何も生まない。正すことは、何かを成すことだけど、非難することは何かを成すことじゃないんだって」
「分からないわ、青喜」
青喜は寂(さび)しそうに微笑(ほほえ)む。
「あのね、姉上。――姉上は言っておられたでしょう? 結局、自分たちは何もできなかった、扶(ふ)王(おう)の時代から一歩も前に進まなかった、って」
「ええ……認めたくはないけれども、それが事実なんだもの」
「それはなぜでしょう?」
「それが分かれば」
「こういうふうに考えることはできませんか? 自分たちには国を前に進める能力がなかったんだ、って」
朱夏(しゅか)は蒼褪(あおざ)め、思わず声を荒(あら)らげた。
「それは……それは、私たちが無能だった、ということ? 私や砥尚(ししょう)が無能だったと」
青喜(せいき)は小さく溜息(ためいき)をつく。
「能力がないことは悪いことじゃないでしょう? 私にもできないことは、いっぱいあります。例えば、剣を使うことなんて全然できません。できないのは悪だ、なんて言われると困ってしまいます。人には向き不向きがあるんですから」
「向いてなかったと言いたいの? 朝(ちょう)を治めることに向いてなかった、それだけの能力がなかったんだって」
だったら、と朱夏は吐き出す。
「どうして天は、そんな砥尚に天命を下されたの」
「私は天帝じゃないですから、分からないです。でも、天帝は砥尚さまの理想高く真摯(しんし)なところを買われたんじゃないのかなあ」
「つまり……理想は高いけれども、それを実現する能力がなかったと言いたいのね」
「向いてなかった、というだけのことですよ」
「向いていない者が国権を握(にぎ)ることは悪だわ。確かに人が無能なのは悪いことじゃない。でも王や政(まつりごと)だけはそうではないわ。無能な王など、いてはならないのよ!」
だから、と言いかけ、青喜は口を噤(つぐ)んで俯(うつむ)いた。そして朱夏も気づいた。――そう、王だけは無能であってはならないのだ。政に向いていないなど許されない。
「だから……それで砥尚は、天命を失ったのね……」
朱夏は呆然(ぼうぜん)とその場にうずくまった。あのね、と青喜の柔らかな声が降る。
「これは砥尚さまの御遺言があったから、そう思うってだけのことなんですけど。……ひょっとしたら、砥尚さまは根本的に何かを誤解しておられたんじゃないかな」
「根本的に……?」
「責難(せきなん)することは、何かを成すことではないんです。砥尚さまはそもそもの最初から、そこを誤解していて、それに気づかれたから、わざわざ遺言を残されたんだと思うんです」
分からない、と朱夏が首を振ると、青喜は朱夏の前に座りこんで微笑(ほほえ)む。
「国を治めるということは、政(まつりごと)を成す、ということですよね。砥尚さまは、いかに成すべきかを考えなければなりませんでした。どんな政を布(し)けばいいのか、国をどう治めるべきなのかを考えて、国のあるべき姿を求めなければならなかったんです。……でも、砥尚さまは、本当にそれを考えたことがあったのかな」
「まさか! 砥尚(ししょう)は高斗(こうと)の時代から」
青喜(せいき)はうなずいた。
「国はこうあるべきだ、と謳(うた)っていましたよね。私も聞くたびにうっとりしたものです。でも、いまになって思うんですよ。それは本当に砥尚さまの理想だったのかな、って。……いいえ、きっと理想ではあったんでしょうね。けれどもその理想って、ひょっとしたら、ただひたすら扶王(ふおう)のようではない、ということでできてたんじゃないかなって思うんです」
朱夏(しゅか)はぽかんとした。
「扶王の課した税は重かった。だから軽くすべきだと砥尚さまは考えたわけですよね。すると国庫は困窮(こんきゅう)し、堤(つつみ)ひとつ満足に造ることができなくなりました。飢饉(ききん)が起こっても蓄(たくわ)えがなく、民に施(ほどこ)してやることもできなかった。――そうでしょう?」
「……ええ」
「砥尚さまは、税とは何で、何のためにあり、重くすることはどうして罪で、軽くすることがどうして良いことなのか、本当に考えたことがあったのかな。ただひたすら、扶王のようではないために、軽減したのじゃないでしょうか。税を軽くすることで何が起こるのか、そこまで考え抜いて出した結論だったのかな……」
朱夏は返答すべき言葉を失くした。
「母上の仰(おっしゃ)るとおりだなあ、って思うんです。人を責めることは容易(た や
す)いことなんですよね。特に私たちみたいに、高い理想を掲(かか)げて人を責めることは、本当に簡単なことです。でも私たちは、その理想が本当に実現可能なのか、真にあるべき姿なのかをゆっくり腰を据えて考えてみたことがなかった気がするんです。扶王が重くしているのを見て、軽いほうがいいのにって、すごく単純にそう思っていたような感じがする……」
言って青喜は溜息(ためいき)をついた。
「税は軽いほうがいい、それはきっと間違いなく理想なんでしょう。でも、本当に税を軽くすれば、民を潤(うるお)すこともできなくなります。重ければ民は苦しい、軽くても民は苦しい。それを弁(わきま)えて充分に吟味(ぎんみ)したうえでの結論こそが、答えでないといけなかったんじゃないかな。私たちはそういう意味で、答えを探したことがなかったと思うんです」
朱夏はようやく、青喜の言わんとすることを悟(さと)った。だから、慎思(しんし)は何度も砥尚に言っていたのだ、税を決めるなら民の現状を見て、適正な値にすることが正道なのではないか、と。それはいかほどだと問われ、慎思は黙りこんだ。そう――きっと慎思にも、これが正しい値だと指し示すことはできなかったのだろう。試しにこのくらいにしてみては、と慎思は提言したが、砥尚はそれを拒(こば)んだ。重税に喘(あえ)いでいた民に、これ以上の税を課すことはできない、と言った。
「砥尚(ししょう)さまにとって、国のあるべき姿っていうのは、唯一にして絶対のものだったと思うんです。道に沿った理想の先に答えはあって、それ以外の答えはあり得なかった。試しに、とか、今のところは、なんてことさえ、砥尚さまにはなかったような気がします。妥協を一切受けつけないほど、砥尚さまは自分の抱いた華胥(かしょ)の夢に絶対の確信を持ってました。けれどもその確信は、扶王(ふおう)を責めることで培(つちか)われた夢だったんです」
そのとおりだ、と朱夏(しゅか)は呟(つぶや)いた。
朱夏らの眼前には傾いた王朝があった。朱夏らはただ、扶王を非難すればよかったのだ。朱夏は扶王の重税に非難の声を上げたが、それは熟考の末のことなどではなかった。ただ単純に目の前の民が重税に喘(あえ)いでいたことに義憤を感じたからにすぎない。なぜ重くする、軽くしない、と声を上げ、軽くすべきだと確信したが、朱夏らは税が軽すぎても民が困ることなど、想像すらしていなかった。
そう――正道は自明のことに見えた。なぜなら、扶王が道を失っていたから、扶王の行ないは即(すなわ)ち悪だと明らかだったからだ。朱夏らは夜を徹して扶王を責め、国のあるべき姿を語り、華胥(かしょ)の夢を育(はぐく)んだ。確かに、扶王を責めることで、その夢は培われたのだ。最初は曖昧(あいまい)でしかなかったものが、扶王の施政にひとつ粗(あら)を見つけるたびに、具体的なものになっていった。扶王が行なったことなら、行なわなければよいのだ。――そう短絡すれば、確かに正道を見出(みいだ)すことは容易(た
や す)い。
安直な確信に基づく二十余年、砥尚と共に築いてきた王朝は、扶王の王朝よりも脆(もろ)かった。
「……私たちは、確かに無能だった……」
国の何たるかなど、少しも分かっていなかった。国を治めるに足るだけの、知識も考えも指針も持たなかった。
「そう……本当に素人(しろうと)だったんだわ。政(まつりごと)のことなんて、何も分かってない。分かっていないのに、分かった気になっていた。扶王を責めることができたから、自分たちは扶王よりも政の何たるかを分かっていると思っていた……」
朱夏が胸を押さえてその場に突っ伏したとき、軽い足音が聞こえた。堂室(へや)に駆(か)けこんできたのは、蒼白になった慎思(しんし)だった。
「朱夏――青喜(せいき)――、砥尚が身罷(みまか)ったと」
朱夏はうなずいた。
「……白雉(はくち)が末声(まっせい)を鳴いたそうです。禅譲(ぜんじょう)ゆえに遺言がありました。……責難(せきなん)は成事(せいじ)にあらず、と」
慎思(しんし)は目を見開き、そして俯(うつむ)き、顔を覆(おお)った。
「そう……では、砥尚(ししょう)は自らを正したのね……」
呟(つぶや)いて、慎思は顔を上げる。
「立派な子です。本当に、なんて立派な」
慎思の表情、声音(こわね)には、何もかもを見通している響きがあった。そう――青喜に責難は正すことではない、と教えることができた慎思なら、砥尚の犯した過(あやま)ちなど、最初から分かりきったことだったのだろう。そもそも、だからこそ慎思は高斗(こうと)に参加しなかった。
「……慎思さまはお分かりだったのですね。私たちが、朝(ちょう)を預かる資格もないほど無能だったということを。容易(た や
す)く扶王(ふおう)を非難してそれで何もかもを分かった気になっていた……」
朱夏(しゅか)が言うと、慎思は驚いたように朱夏を見た。
「さぞ私たちの姿が愚(おろ)かに見え、苛立(いらだ)たしかったことでしょう」
まあ、と呟いて、慎思は朱夏の前に膝(ひざ)をついた。
「そんなことが、あるはずはないでしょう」
けれど、と朱夏は込み上げてくる嗚咽(おえつ)を呑(の)みこんだ。今になって自分が恥ずかしく、腹立たしい。無能だったのみならず、朱夏はそんな自分に呆(あき)れ果てるほど無自覚だった。
「そういう責め方をしてはいけませんよ。では朱夏は、どうするべきだったのか、いまは分かるというのですか?」
「朝(ちょう)を預かるべきではなかったのです。その資格のある人に任せるべきでした」
「それは誰? 空位の才(さい)には王と官吏(かんり)が必要だったのですよ? それも、できるだけ早く」
「それは……」
慎思は朱夏の手を握(にぎ)る。
「そういう責め方をしてはいけません。人も自分も。砥尚が遺(のこ)してくれた言葉のとおりなのですよ。答えを知らずにただ責めることは、何も生まないのです」
でも、と朱夏は泣き崩れる。自分の無能が悔(くや)しく、それに気づかなかった不明がいっそう悔しかった。身の置き所がないほど辛(つら)く――民にすまない。
「私だって朝に参画しておりましたよ。そして正しいことが何なのか、とうとう分からないままでした。税ひとつ、官吏の整理ひとつを取っても、どうすればいいのか、さっぱり分からなかった。それほどに、政(まつりごと)に対して無知で無能だと分かっていて、太傅(たいふ)の席をいただいていたのです。けれども――どんな王だって、最初はそうでしょう?」
朱夏は顔を上げ、瞬(またた)く。
「宗王(そうおう)だって、かつては市井(しせい)の舎館(や ど
や)のご亭主だったと聞きますよ。その宗王に、政(まつりごと)の何たるかが分かるはずがありましょうか。朱夏(しゅか)にせよ、砥尚(ししょう)にせよ――私にせよ、分かっていなかったことを恥じる必要はないのだと思うのです。貴女(あ
な た)に恥ずべきこと――後悔すべきことがあるとすればただひとつ、それは確信を疑わなかった、ということです」
「私たちは……」
「けれどもう、疑いを抱きましたね? 自分たちが無知なのではないか、過(あやま)つのではないかと分かりましたね? ならば、それを正すことができます――砥尚のように」
「慎思(しんし)さま……」
「砥尚は王でした。この過(あやま)ちを正す方法はふたつしかなかった。ここから自身の不足と不明を踏まえて改めていくのか、それとも、自らその器にあらずと断じて位を退(しりぞ)くか。砥尚は後者を選びました。……情としては出直せばよかったのに、と言ってやりたい。けれども、砥尚は後者を選ぶことで、正道にあろうとする自分を貫きました。砥尚は自らが玉座(ぎょくざ)にあることを許さなかった」
「無能だから……?」
「父と弟を手にかけたからです」
ああ、と朱夏は呻(うめ)いて顔を覆(おお)った。
「……ご存じだったのですか」
「少し考えれば、分かることです。……そして、砥尚にそれを唆(そそのか)したのが誰かも」
朱夏は、はたと慎思を見返した。慎思は顔を歪(ゆが)めた。
「……それほど追いつめられていたのでしょうが、栄祝(えいしゅく)のやったことは許されないことです。母として不憫(ふびん)には思います。そこに至る前に正してやれなかった自分が憎(にく)く、栄祝にすまない……」
「お義母(かあ)さま」
「だから、せめて私たちはあの子が、自らを正すことができるように祈っていましょう。これ以上罪を重ね、恥を重ねて、あれほどまでに堅持しようとした正道から永遠に逸(そ)れてしまうことがないよう」
慎思が何を言っているのかを悟(さと)って、朱夏は悲鳴を上げた。
「そんな、でも……!」
栄祝は朝堂を出て、まっすぐ南へと下っていった。――ただひとり。
狼狽(う ろ た)えて立ち上がろうとした朱夏の腕を、慎思は掴(つか)む。
「しっかりなさい。いまここで、本当に憐(あわ)れまねばならないものを見失ってはいけませんよ。私たちの肩には依然として民が載(の)っているのです。王を失ったばかりの民が」
慎思(しんし)の目には涙が浮かんでいたが、それよりも決然とした気配のほうが強かった。
「砥尚(ししょう)は台輔(たいほ)を才(さい)に残してくれました。空位(くうい)は長くは続かないでしょう。砥尚は最後まで自分の肩に載(の)ったものを忘れなかったのです。砥尚を憐(あわ)れむなら、私たちがそれを忘れることは許されません。砥尚を惜(お)しみ、栄祝(えいしゅく)を惜しむなら、私たちは二人の罪を背負ってその償(つぐな)いをしていかねばならないのです」
言って慎思は青喜(せいき)を振り返る。
「お前もです、青喜。今は朱夏(しゅか)の従者でいたい、位も責任もない小物でいたいなどという我(わ)が儘(まま)は許しませんよ」
はい、と青喜は神妙にうなずいた。
「仰(おお)せのままに――黄姑(こうこ)」
青喜は養母にきちんと礼を取った。王の姑(おば)、飄風(ひょうふう)の王となった砥尚を薫陶(くんとう)し、多大な影響を与えたその人柄を麒麟(きりん)の貴色(きしょく)、黄色になぞらえ、一部の臣下は慎思をそう呼ぶ。
慎思は毅然(きぜん)としてうなずき、そして朱夏の顔を見つめ、ついに折れたように朱夏に縋(すが)って泣き崩(くず)れた。朱夏はその背をしっかりと抱き留める。慎思の衿(えり)を噛(か)んで嗚咽(おえつ)を怺(こら)える耳に、慌(あわ)ただしい足音が近づいてくるのが聞こえた。朱夏を呼び、慎思を呼ぶ声は小宰(しょうさい)のもので、しかもひどく上擦(うわず)っていた。
それが、どんな知らせを運んできたのかは分かっていた。きっと訃報(ふほう)のはずだ。――朱夏は夫を信じている。
青喜が黙って立ち上がり、素早く堂を出ていって扉(とびら)を閉めた。
十二国記シリーズ 華胥の幽夢 帰山
帰(き) 山(ざん)
街は碧(へき)を湛(たた)える湖の畔(ほとり)に広がっている。小波(さざなみ)ひとつない湖面には、白い石で造られた街と、その背後に聳(そび)える灰白色の凌雲山(りょううんざん)が映(うつ)っていた。
ひたすらに街道の坂を登ってきた旅人は、峠(とうげ)を越えた瞬間、その光景を見ることになる。山々に取り囲まれた広大な緑野と、輝く湖面、雲を突く山と、その麓(ふもと)に造られた白い街を。
「……こりゃあ見事だ」
言った男は、額(ひたい)に浮かんだ汗を拭(ぬぐ)って、傍(かたわ)らで足を止めていた旅人を振り返った。
「芝草(しそう)ってのは、ずいぶんと綺麗(きれい)なところなんだねえ」
峠の頂上、小広くなった崖(がけ)の上からその景色に見入っていた旅人は、驚いたように声をかけてきた男を振り返った。その視線を受け、男はくしゃりと笑った。
「ずっと俺(おれ)の前を歩いていたろう。立派な騎獣(きじゅう)を連れていながら律儀(りちぎ)に山道を登るなんて、物好きな話だと思って見ていたんだが、わざわざ登ってきて正解だよ、あんた」
そうですね、と明るく笑って、その旅人は虎(とら)に似た獣(けもの)を撫(な)でた。見える歳(とし)の頃は二十代の初め、いかにも高価そうな騎獣(きじゅう)を連れているだけあって、身なりも良かった。
「それともあんたは、芝草の人かい?」
「いいえ」
そうか、と男はうなずき、また額(ひたい)の汗を拭(ぬぐ)った。登る一方の道のりに、男は顔を上気させ、珠(たま)のような汗を浮かべていた。降り注ぐ陽脚(ひ
ざ
し)も初夏にふさわしく晴れやかに強かったが、峠(とうげ)には清々(すがすが)しい風が通っている。くつろげた襟(えり)を摘(つま)んで袍子(う
わ
ぎ)の中に涼気を通していた男は、一息をついてから改めて、良いところだ、と呟(つぶや)き、峠を下り始めた。騎獣を連れた旅人のほうは、足を止めたまま男を見送り、しばらく峠からの景色を眺(なが)めていた。やがて自身も騎獣の手綱(たづな)を取り、峠を下り始める。眼下に見えている白い街が柳国(りゅうこく)の王都、そして白い山の頂(いただき)に、雲に霞(かす)んで淡(あわ)く森のように見えているのが、劉(りゅうおう)王の居所、芬華宮(ふんかきゅう)だった。
街道は緩(ゆる)やかに折れながら山を下り、緑野を横切る。点在する廬(むら)を左右の遠近に見ながら、やがて白い隔壁(かくへき)へと辿(たど)り着(つ)いた。隔壁の中は白い街路だった。わずかに灰を帯びた白い石を切り出し、積み上げることで、街は形成されている。芝草の周囲には樹木が乏しい。遠方から材木を運ぶよりも、天を支える柱のような凌雲山(りょううんざん)を切り取っていったほうが話は早い。山腹を抉(えぐ)り、山を切り欠いて現れた白い街は、だから山の一部のようにも見える。屋根ばかりは木材で支えるが、その材木は柳(りゅう)の中央部産に特有の墨色(すみいろ)、瓦(かわら)は同じく濃い墨色をしている。白と黒を基調とした端正な街だ。街路に敷(し)きつめられた石畳(いしだたみ)も白、そこに鮮(あざ)やかに多彩に、人々が行き交う。
彼は午門(ごもん)を抜けて街に踏みこみ、しばらく門前の雑踏を眺めていた。街路を行き交う人々の歩調は軽快で、顔色は明るい。――何の不安も問題もないかのように。
彼は軽く眉根(まゆね)を寄(よ)せた。
「……良くないな」
「――何がだ?」
唐突に声をかけられ、彼は弾(はじ)かれたように振り返った。間近にあった人影を認めて瞬(またた)き、すぐに破顔する。
「こんなところで会うかなあ」
「こんなところだから会ったのだろう。――久しいな、利広(りこう)」
利広は思わず笑った。以前会ってから「久しい」のは確かだ。何しろ三十年ばかり経(た)っている。
「まったくね。風漢(ふうかん)も相変わらず、ほっつき歩いているんだな」
「お前同様な」
「いつからここに?」
ほんの二日前だ、と風漢は言って、街路の東を示す。
「宿はあっちだ。飯は酷(ひど)いが、厩(うまや)はいい」
「じゃあ、私もそこに世話になろう」
稀(まれ)な騎獣(きじゅう)を連れていれば、舎館(や ど
や)は選ばざるを得ない。厩と厩番のしっかりした宿を探すのは、結構な手間になる。利広はありがたく雑踏の中、風漢についていった。
この男と最初に会ったのはいつだっただろう。なにしろ古い話になるのは確かだ。場所がどこだったかも混沌(こんとん)としている。どういう経緯で出会い、別れたのかも覚えていない。たぶん最初は妙な男だとしか思わなかったのだと思う。別れれば二度と会うはずもなかったが、時を措(お)いて別の国で再び出会った。それで相手が、本人が自称するような風来坊(ふうらいぼう)などでは、あり得ないことが分かった。なにしろ、その間に六十年ばかりが経(た)っていたからだ。単なる「人」なら死んでいる。さもなければ会っても分からないほど老いているはず。
以来、様々な場所で出会った。やがて彼が何者なのかは分かった――正面から問い質(ただ)したことはないものの。確認してみなくても分かる。利広(りこう)に匹敵(ひってき)するほど永い時間を旅している者など限られる。
会うのはいつも「こんなところ」だ。つまりは、軋(きし)み始めた国の都――それに類するような場所。利広は柳(りゅう)が危ういという噂(うわさ)を耳にした。現劉王(りゅうおう)の治世百二十年を経て、この国は傾き始めている。それを確かめようとやってきたら、また会ってしまった。
「ところで、何が良くないのだ?」
先を行く風漢(ふうかん)が振り向きながら問う。
「……街の様子」
国が傾きつつあるというのに、住人たちの様子が明るい。これは国が危険な状態にある証拠だと、利広は長年の経験から心得ていた。民はいつも、自国が傾き始めると笑う。どこか不安そうにしていながら、話をすれば笑いながら王や施政の悪口を言う。傾斜が深刻化してくると、民は不安げになり、憂鬱(ゆううつ)そうになる。――そして、それがさらに深刻化して破綻(はたん)が近づくと、浮き足立って妙に明るくなってしまうのだ。刹那的(せつなてき)になり、享楽的(きょうらくてき)になる。情緒に流れ、地に足がつかない。このどこか病んだ明るさに亀裂(きれつ)が入ると、同時に国は一気に崩壊を始める。
その国の内実を他国の者が知ることは難しい。実際に国が荒れ始めれば、他国の者にも一目瞭然(いちもくりょうぜん)だが、王朝が傾き始め、歪(ひず)みが蓄積されている間は、ほとんどその歪みが他国の者の目に触れることはないのだ。だが、民は歪みを分かっている。目に見えなくとも肌で感じる。だから民の様子を見ていると、国がどの状態にあるのか分かる。――分かるものだ、と利広はこれまでに学んでいた。危ないという噂(うわさ)が他国にまで広がっているのに当の王都の住人は明るい。これはすでに危険域に入った兆候(ちょうこう)だった。
「……憂鬱(ゆううつ)そうにしている間は、まだ持ち直すことがあるんだけどな」
利広が溜息混(ためいきま)じりに言うと、風漢も低く答えた。
「その段階は過ぎたようだ。――どうやらもう、止まらないらしい」
そう言って、風漢(ふうかん)はここだ、と舎館(や ど
や)を示す。構えだけは派手な舎館だった。白い石の壁、そこに彫(ほ)りこまれ、彩色された無数の装飾、建物を囲む墻壁(へい)の奥からは、昼日中(ひるひなか)であるにもかかわらず、酔漢たちの上げる浮ついた歓声が響いてきていた。
「柳はそんなに酷(ひど)いのかい?」
利広は借り受けた房室(へや)に荷物を放(ほう)り出(だ)して、背後に問うた。特にすることもないのか、ついてきた風漢が窓を開ける。賑(にぎ)わう雑踏の騒(ざわ)めきが流れこんできた。
「分からぬ。――特に国が民を虐(しいた)げているという話は聞かない。極端に朝(ちょう)が奢侈(しゃし)や放埒(ほうらつ)に傾いているという噂も聞かないな。ただし、地方官はかなり箍(たが)が緩(ゆる)んでいるようだ。中央から遠いところほど、誰それはろくでもない、という噂(うわさ)をよく聞く」
「それだけ?」
「いまのところはな」
そう、と利広(りこう)は椅子(いす)に身体(か ら
だ)を投げ出して呟(つぶや)いた。――そういうこともある。表面上は何の問題もないふう、しかしその奥底には無数の亀裂(きれつ)が入っている。民は自分の目の前に細かな亀裂が無数にあるのを感じ取る。だから不安を覚えるし、その不安が「危ない」という噂(うわさ)になって現れるのだが、余所者(よそもの)にはどこに問題があるのか分からない。そういう場合、目に見える崩壊が始まればあとは一気に終末にまで辿(たど)り着(つ)く。
「……意外に早かったな」
利広がひとりごちると、風漢(ふうかん)は榻(ながいす)にふんぞり返って笑った。
「さすがに奏(そう)の御仁(ごじん)は言うことが違う。百と二十年を、早いと言うか」
そうだけどね、と利広も笑った。利広は世界南方、奏国の住人だった。その主(あるじ)、宗王(そうおう)の治世は実に六百年、あと八十年ばかり頑張れば、史上最も長い王朝ということになるらしい。現在ある十二国の中では最も長い。これに百年ばかり遅れて北東の大国、雁(えん)が続く。
「ただ、何となく柳(りゅう)は、もっと保ちそうな気がしてたんで」
「……ほう?」
現在、柳(りゅう)を統(す)べている劉王(りゅうおう)は、助露峰(じょろほう)といったと思う。どういういきさつで登極(とうきょく)したかは利広(りこう)も知らない。南の奏(そう)と北の柳では、ちょうど世界の端(はし)と端にあたる。柳の事情がそれほど詳細に漏(も)れ聞こえてくることはないからだ。こうして国を訪ねてきたところで、王宮の内部事情など聞こえてくるはずもない。本来なら、王の氏字(しじ)すら伝わらないことが多い。利広がそれを知っているのは、知り得る立場にいればこそだ。
それはともかく、露峰は少なくとももともと柳の高官であったわけではなく、しかも自ら王たらんとして世界中央にある蓬山(ほうざん)に麒麟(きりん)を訪ねた昇山者(しょうざんしゃ)でもなかったようだ。かといって、平凡な農民や商人から抜擢(ばってき)されたわけでもないらしい。つまりは、人の口に上るほど劇的な登極(とうきょく)をしたわけではない、ということだ。しかも、先王の時代から露峰の登極までは二十数年の時間が経過しているから、劉麒(りゅうき)が新王を選ぶのに手間取ったことは間違いない。普通、麒麟は先の麒麟が斃(たお)れて、即座に実り、一年を待たずに生まれる。天命を聴(き)いて王を選定できるようになるまで数年、早ければ次の王はそれだけの期間で立つ。
登極までにかかった年数と、王としての力量には直接的な関係などないものの、その前身がはっきりしないことといい、露峰にはどことなく冴(さ)えない印象がつきまとう。だからだろう、登極の当初は風聞(ふうぶん)などもおよそ聞こえてこなかったが、時とともに露峰の名声は高まっていった。今では、柳といえば類のない法治国家として名高い。にもかかわらず、その柳が沈む――利広には、意外としか言いようがなかった。
利広がそう言うと、風漢(ふうかん)は軽く首をかしげた。
「俺は、利広とは逆に、意外にも保(も)ったという気がしているがな。露峰は登極(とうきょく)した当時、ぱっとしない王だった。もともとは地方の県正(けんせい)だか郷長(ごうちょう)だかで、地元での評判は良かったようだが、中央にまで名が通っている、というほどのこともなかったようだ――まあ、あまり傑物(けつぶつ)という印象ではなかったな」
風漢もまた、露峰の氏字(しじ)を知っている。利広と似たような立場にいる証拠だ。
「さすがに雁(えん)の者は詳しいな。隣だから?」
「まあな。登極してしばらくの頃に来たことがあるが、可もなく不可もない、という印象だったぞ。最初の一山を越せずに倒れそうな具合に見えたが」
一山か、と利広は呟く。国を統(す)べる王には寿命がない。天の意に適(かな)っているかぎり、王朝は続く。だが、王朝を維持(いじ)し続けていくことは意外に難しい。「意外に」と感じてしまうのは、そもそも天は国を統べる器を持つ者――名君たる資質を持った者に天命を下すとされているからだ。天命を聴(き)いて、麒麟(きりん)は自らの主(あるじ)となる王を選ぶ。にもかかわらず、王朝の寿命は短い。奏(そう)の六百年、雁の五百年は破格だ。これに次ぐのは西の大国の範(はん)、氾王(はんおう)の治世は三百年に達しようとしているが、さらにそれに次ぐ王朝となると、九十年に達する恭(きょう)になる。
不思議なことに、王朝の存続には、ある種の節目(ふしめ)がある。ある――と、六百年にわたって王朝の興亡を見てきた利広(りこう)は思っている。最初の節目は十年、これを越えると三十年から五十年は保つ。これが第二の節目で、ここにひとつ、大きな山があるらしい。不思議なことに、これはその王の「死にごろ」にやってくる。
王は登極(とうきょく)すると神籍(しんせき)に入り、老いることも死ぬこともなくなるが、三十で登極した者は、その三十年後以降――もしもその者が神籍に入ることがなければ、そろそろ寿命が見えてきたであろうあたりが危ない。実際、この頃まで、王にせよ王に従う高官にせよ、寿命のない者は必要もないのに歳(とし)を数える。自身の実年齢を律儀(りちぎ)に了解しているものだ。そして自分が、本来ならばいつ死んでも可怪(おか)しくない年頃になったことに気づく。神籍仙籍(せんせき)に入らなければ、そろそろ「一生」を使い果たす頃合いなのだと強く意識するようになるのだ。同時に、自身の下界における知り合いが、ぽろぽろと欠けていく。
いや、実際にそれを目にするわけではないのだが。――そもそも神籍仙籍に入った時点で、下界における知り合いとは縁が切れてしまうのだ。雲海の上に昇ってしまえば、出身地などは国の中にある一都市にすぎない。風評も耳には入ってこないし、そうそう訪ねることもない。だが、あの人はもういないだろう、この人ももう危ない、と欠けていくさまは想像できてしまう。自分だけがいつ終わるとも分からない生に取り残されているのだと、身に迫って意識する。「一生」分の歳月を費やしてやってきたこと、やれなかったこと。中には過去を振り返って強い虚無感に襲(おそ)われる者もあり、中には将来を透(す)かし見て恐怖感を抱く者もいる。仙籍(せんせき)に入る官吏(かんり)にも、やはりここに節目があって、突然のように辞職する者が多いのがこの頃だ。だが、王は自ら辞(や)めることが難しい。それは自身の死に直結している。漠然(ばくぜん)とした虚(むな)しさや恐れでは、とても自ら位を降りて、自身の生に決着をつけることなどできない。だからだろう、まるで天にその決着を押しつけるかのように荒れ始める。消極的な辞任だ、と利広などは理解している。
そして、どうあっても自身が生き残っているはずもないほどの時間が過ぎると、どうやら居直る。この山を越えると、王朝の寿命は格段に長くなる。次の山は三百年のあたり。なぜここに危険な節目がくるのか、利広には分からない。だが、ここで王朝が倒壊するときには、悲惨な倒れ方をすることが多い。それまで賢君として崇(あが)められてきた王が、いきなり暴君に豹変(ひょうへん)する。民は虐殺(ぎゃくさつ)され、国土は荒れ果てる。
「一山越えて百二十年……なんだか半端(はんぱ)だな」
半端か、と風漢(ふうかん)は笑った。
「なるほど、一山を越えた王は、三百年程度は居座ることが多い。だが、そうでない例だって多いだろう」
「うん、まあ、そうなんだけどね」
ただ、利広はその「一山」の頃合いに柳(りゅう)に来たことがある。柳のあちこちをさまよって、どんな具合だろうと――要するに、この山を越えられそうかどうかを検分してみたのだが、そのときに得た感触はひどく良いものだった。
そう、確かに一山を越え、しかも三百年には遠く及ばず倒れる王朝は多い。そうでない王朝のほうが少ないくらいだが、その場合は一山を越えた時点で、すでに予感があるものだ。なんとか越えたが、問題は多い。いずれはこれが積もりに積もって破綻(はたん)すると予測できる。だが、柳にはそれがなかった。柳は問題なく前進しているように見えた。
利広がそう言うと、風漢(ふうかん)は軽く眉(まゆ)を顰(ひそ)める。
「そう――俺(おれ)もそう思った。なので、柳は得体が知れんぞ、と思った覚えがある」
「得体が知れない?」
「見たことのない形だと思ったのだろう。一山、と俺は言ったが、実のところ最大の山は王朝の始まりにある。新王が登極(とうきょく)して十年前後まで、そこまでで朝(ちょう)としての形が整うかどうかが最大の関門だ。だが、俺が見た限りでは、露峰(ろほう)はそれに失敗しているように思えた」
「最初に、そこそこにせよ良い形ができないと、長い王朝にはならないんだけどな」
言ってから、利広は風漢の顔を見て、思わず笑った。
「まあ、稀(まれ)に、良い形どころか支離滅裂(しりめつれつ)で、そのくせ五百年ばかり生き延びた化け物じみた例もあるけどね」
風漢はただ、大きく笑った。利広も軽く笑い、
「でも、普通は最初に形を作り損(そこ)ねたら、百二十年も保たないだろう?」
「そのはずだ。だが、露峰は保った。というよりも、ちょうど一山にあたる頃に来てみたら柳はまったく変わっていた。特に顕著だったのは法の整備だ。王が玉座(ぎょくざ)で寝ていても、国はまっすぐ勝手に進む――そのようにできているとしか思えなかった」
「そう……そうなんだよね。これは出来物(できぶつ)だ、と私も思った。あの段階であそこまで国の基礎が整っていれば、ゆうに三百年は保つ」
「俺にはその豹変(ひょうへん)が、薄気味悪く見えたな。上手(うま)く軌道(きどう)に乗せていながら、王が豹変して斃(たお)れる例は多い。だが、その逆というのは初めてだ」
「雁(えん)ぐらいかな。雁は十年保たないように見えたけど、一山のあたりで豹変した」
利広は言って、腕を組んだ。
「でも、露峰がその型(かた)を踏襲(とうしゅう)するなら、この程度で倒れるはずがない。確かに見たことのない形だ……」
三百年を過ぎた王朝は、奏(そう)と雁(えん)、その二つ。つまりはそれだけ、他国は脆(もろ)い。七割方の王朝は、ひとつ目の山を越えられない。王朝は数十年で生まれては死ぬ。だから利広(りこう)は、あまりに多くの王朝が生まれ、そして死滅(しめつ)していくのを見てきた。
「倒れ方もどこか見慣れない」
風漢(ふうかん)が呟(つぶや)くように言って、利広は首を傾けた。
「見慣れない?」
「確かに俺にも、柳がなぜいまごろになって傾き始めたのか、分からんのだ。いや、実際に何が起こっているのかは分からないでもないが。――端的に言えば、露峰は再び豹変(ひょうへん)しようとしている」
「この時期に?」
「この時期に、だ。露峰は自ら布(し)いた法が、端々(はしばし)で無視され踏みにじられていることに無頓着(むとんちゃく)になったように見える。それどころか、このところ、自らが築いた堅牢(けんろう)な城に、みすみす穴を開けるような振る舞いをしている」
「……穴を開ける?」
風漢はうなずいた。
「法というものは、三つのものが合わさって、それで初めて動くと俺は思う。法によって何かを禁じれば、それだけで上手(うま)く動くというものではない」
「禁令が行き届き、誠実に運用されているかを監視する組織が必要だね。これがないと法は飾り物になる。――もうひとつは?」
「逆の肯定(こうてい)だ。猾吏(かつり)の専横(せんおう)を禁じる法は、そうでない能吏を褒(ほ)め、重く用いる制令と縒(よ)り合(あ)わされていなければならない。どのひとつが欠けても、上手くはいかない」
「なるほど……」
「柳はこれがおそろしく良くできていた。だが、露峰はそれを壊(こわ)し始めた。無頓着(むとんちゃく)にひとつだけを変えて、他を放置する。やろうとしていることが、首尾一貫していないのだ。それで端々(はしばし)に齟齬(そご)が生まれている」
「……それは妙だな」
利広は考えこみ、ふと、
「ひょっとしたら、露峰はもう玉座(ぎょくざ)にはいないのかもしれないな……」
「いない?」
利広はうなずく。
「露峰は玉座にいることに倦(う)んでしまったのかもしれない。実権を放(ほう)り出(だ)してしまった」
「大いにあり得るな」
風漢(ふうかん)は言って立ち上がり、窓辺へと寄る。初夏の陽脚(ひざし)は傾き始め、街路から漂(ただよ)ってくる喧噪(けんそう)は、いっそう賑(にぎ)やかになっている。箍(たが)が外(はず)れたように舞い上がった酔漢(すいかん)の声、調律(ちょうりつ)の狂った楽器のような嬌声(きょうせい)、街全体が宴(うたげ)のさなかにあるようだ。
「――露峰(ろほう)が作った体制は強固だった。だから奴(やつ)が実権を放り出しても、これまで持ちこたえてきた。国が本格的に荒れるのは、これからだが、実はとうに露峰は荒れていたのかもしれない。天意が去るほどに」
利広(りこう)は眉(まゆ)を顰(ひそ)めた。
「それは、どういう意味だ?」
「……柳(りゅう)の虚海(きょかい)沿岸には妖魔(ようま)が出るそうだぞ」
利広は驚いた。それはもはや王朝の崩壊が末期にさしかかったことを意味している。まだ本格的に――利広のような余所者(よそもの)にも明らかに見えるほど、荒れてもいないのに。
「雪の少ない地方に大雪が降ったとか。天の運気が狂っている。政(まつりごと)が荒れる前に、国が荒れて沈もうとしているのだ。普通ならば逆だが」
「表には顕(あらわ)れないまま、そこまで進行している?」
「のように見える。雁(えん)は国境に掌固(け い び)を置き始めたようだ」
他人事のように言う風漢を見て、利広はうなずいた。
「……どうやら、柳の余命はいくらも残ってないようだね」
利広は呟(つぶや)く。――かくも王朝は脆(もろ)い。
窓から入ってくる喧噪(けんそう)が耳に痛かった。彼らの足許(あしもと)には深刻な亀裂(きれつ)が生じている。いずれ宴席の底が抜けて、奈落の蓋(ふた)が開く。これを止めることは誰にもできない。――王が道を失えば彼を選んだ麒麟(きりん)が病む。麒麟が病めば己(おのれ)が道を失ったことは、どの王にとっても明らかなことだ。ならば行ないを改めさえすれば麒麟は快癒(かいゆ)し、国は息を吹き返すはず。にもかかわらず、利広はそういう例をほとんど見たことがなかった。自らの落ち度に気づいた王はいる。だが、王がそこから悔(く)い改め、国を立て直そうとして成功した例は極端に少ない。国は、いったん傾き始めると止まらない。王の悲壮な努力など、ものの数には入らない。
思いに沈みこんでいると、どうした、と窓辺から風漢が振り返った。
「予想が外(はず)れたのが、それほど気落ちすることか?」
「私の予想の当たり外れは、どうでもいいんだけどね……」
利広は溜息(ためいき)をついた。
「そう――気落ちはするな。大王朝になりそうな気がしていたから」
柳(りゅう)にはそう思わせるだけの光輝(こうき)があった。にもかかわらず、わずか――利広(りこう)にとっては、わずか百二十年で沈む。
「ああいう王朝でも、いきなり沈むことがあるんだな、と思うと」
「いまさらそれを言うか? 奏(そう)の御仁(ごじん)が。沈んだ例など腐(くさ)るほど見てきたろう」
利広は失笑した。
「奏の人間だから思うんだよ。たぶん風漢(ふうかん)には分からない。――まだ雛(ひよこ)だから」
風漢は心外そうに眉(まゆ)を軽く上げた。
「奏は十二国の中で最も永く生きた」
そういうことか、と苦笑して、風漢は窓の外を見る。
「そういうことだね。――雁(えん)の者には、この息苦しさは分からない。少なくとももう百年、生き延びた実例があるんだから」
だが、奏の前には実例などない。さらに八十年もすれば、伝聞の上でさえ実例を失う。こんなに永く生きた王朝はない。
「王朝がひとつ死ぬたびに思うんだよ。看取(みと)っていると、否応(いやおう)なく思う。――死なない王朝はないんだ、と」
たぶん、奏も雁も例外ではないはずだ。
「それを考えると、息がつまる。死なない王朝はないと、私は知ってる。永遠の王朝などあり得ない。死なない王朝がないなら、必ずいつか奏も沈むはずだ」
風漢は窓の外に目をやったまま言う。
「永遠のものなどなかろう」
そうなんだよ、と利広は失笑した。
「そういうものだ、何もかも。そう分かっているのに、どういうわけか私は奏の終焉(しゅうえん)を想像できないんだ」
「当然だ。己(おのれ)の死(し)に際(ぎわ)を想像できる奴などいない」
「そうかな? 私は自分の死に際なら想像できるけどね。つまらない小競(こぜ)り合(あ)いに巻きこまれて命を落とすとか、あちこちを放浪しているうちに妖魔(ようま)に食われてしまうとか」
風漢は笑って振り返る。
「可能性を想像できることと、それそのものを想像できることとは別物だろう」
「……ああ。そうかも」
利広は言って、しばらくの間、想像を巡(めぐ)らせていた。
「でも――やっぱりだめだな。可能性にしろ、どうも思い浮かばない」
利広にとって、宗王(そうおう)その人が道を踏み外す――という事態は、ひどく想像しにくいことだった。臣下(しんか)の謀反(むほん)なら宗王(そうおう)の在り方に関係なく起こり得るが、それを想像すれば即座に臣下の顔が浮かぶ。宗王の統(す)べる百官諸侯(しょこう)、誰に思いを馳(は)せても、およそ謀反などには無縁だとしか思えない。
「……雁(えん)なら想像できるんだけどなあ」
利広(りこう)が呟(つぶや)くと、風漢(ふうかん)は面白(おもしろ)そうな表情をした。
「――ほう?」
利広は笑う。
「確信をもって想像できるね。――ま、延王(えんおう)の気性からいって、道を踏み誤って終わるということはないと思うね。本人が道を心得てるかどうか疑問だけど、はっきりと敷(し)かれた道があって、それをうっかり踏み誤るような可愛(か
わ
い)気(げ)なんてないだろう。そのへんの小悪党が討(う)とうとして、おとなしく討たれるような御仁(ごじん)でもない。雁が沈むのは、延王がその気になったときだよ」
「……なるほど」
「しかも何気なくやるね、絶対に。これという理由もないまま、ある日唐突に、それも悪くないと思い立つんだ。けれども、あの人はねちこいから、思い立ってすぐに即断即決ということはない。――そうだな、たぶん博打(ばくち)を打つな」
風漢は怪訝(けげん)そうな貌(かお)をした。
「博打(ばくち)というのは何だ」
「言葉の通(とお)り。天を相手に賭(かけ)をするんだ。たとえばね、滅多(めった)に会わない人間に百度会ったらやるんだよ。巡り合わせが悪くて会えない間は、天の勝ち。会ってしまったら天の負けだ」
そういうことか、と風漢は声を上げて笑った。
「やるとなったら徹底的にやるね。たぶん雁(えん)には何ひとつ残らない。民も官も、台輔(たいほ)もね。王宮も都市もだ。雁は綺麗(きれい)さっぱり更地(さらち)になる」
「台輔を殺せば王も寿命が尽きるだろう」
「即座に尽きることはないよ。台輔を殺して、そこからは天と競争だ。天の決済が早いか、延王(えんおう)が雁を更地に戻すほうが早いか。あの人は、絶対にそういうの、好きだからな」
「それで、どっちが早いんだ?」
「やるとなったら、やってのけそうだなあ。……でも、それじゃあ悔(くや)しいから、最後の最後にほんの少し里(まち)が残って、自嘲(じちょう)しながら死ぬっていうのはどうかな?」
悪くない、と風漢は笑う。
「俺も奏(そう)なら想像がつかないでもない」
「へえ?」
「風来坊(ふうらいぼう)の太子(たいし)が、この世に繋(つな)ぎ止(と)められるのに飽(あ)いて、宗王(そうおう)を討(う)つ」
利広(りこう)は瞬(またた)き、そして失笑した。
「まずいなあ。……あり得るような気がしてしまった」
風漢(ふうかん)は大いに笑い、そして窓の外に目をやる。
「……想像の範疇(はんちゅう)のことは起こらぬ」
だといいけど、と利広も夕闇(ゆうやみ)が降(お)り始めた芝草(しそう)の空を見やった。
「そんなものは、たいがい回避済みだ」
かもね、とだけ返して利広は口を閉ざした。夜陰(やいん)の漂(ただよ)い始めた起居(いま)に、喧噪(けんそう)が滲(し)み入(い)る。
想像できる範疇のことは、すでに多くの王朝で起こってきたことだ。そんなもので潰(つぶ)れるくらいなら、破格(はかく)と呼ばれるほど生き永らえることなどできない。ありがちな危機は乗り越えてきた。だから余計に先が見えない。
――なぜ王朝は死ぬのか、と利広は思う。天意を得て立った王が、道を失うのはなぜなのだろう。王は本当に自身が道を踏み誤ったことに気づかないものなのだろうか。気づきもしないのだとしたら、最初から道の何たるかが分かっていなかったということなのでは。そんな者が天意を得ることなどあるのだろうか。ないとすれば、王は必ず道を知っているのだ。にもかかわらず踏み誤る。違うと分かっている道に踏みこんでしまう瞬間がある。
過去の事例から、どういうときに過(あやま)ちに踏みこむのかは分かる。だが、自分の死の瞬間を想像できないように、違うと分かっている道に歩を踏み出す瞬間の心は想像できない。何がそうさせてしまうのだろう。どうすればそれを止められるのだろう。
思っていると、唐突に風漢が明朗な声を上げた。
「お前はしばらく芝草にいるのか?」
「そのつもりだったけど、そういうわけにもいかないかな」
単なる噂(うわさ)でなく、本当に柳(りゅう)が危(あやう)ういなら、利広はこれを知らせなくてはならない。
「でもまあ、二、三日はいるよ。自分の目で確認だけはしておきたいから。風漢は?」
「俺は明日発(た)つ。雁(えん)の国境から芝草まで、軽く一巡りしてきたからな」
「相変わらず好き勝手に生きてるなあ」
「お前に言われたくはないな」
私と風漢では立場が違う――利広はそう揶揄(やゆ)してやろうと思ってやめた。互いに物好きな風来坊(ふうらいぼう)だ。いずれ正面切って会うことになるまでは、それでいいと思う。もっとも、これだけの間、世界の端々(はしばし)で奇遇にも出会うことはあっても、会って当然の場で対面したことがない。だからこの先も、そうなのかもしれないが。
「じゃあ、その一巡りの話を聞かせてもらおうかな。夕飯ぐらいは奢(おご)ってもいいよ」
笑って言って、風漢(ふうかん)の言どおり、不味(まず)い料理を肴(さかな)に酒を飲んだ。引き上げたのは夜半過ぎ、風漢とは階段を上ったところで左右に分かれた。早朝に発(た)つという風漢を見送る気など、さらさらない。明日は昼まで寝ているつもりだ。奏(そう)と雁(えん)と、二国に運があれば、忘れた頃にまた会うこともあるだろう。
「とりあえず、気をつけて、と言っておくよ」
利広(りこう)は言って房室(へや)に足を向けた。その背に、そうだ、と声が掛(か)かる。
「ひとつ、面白(おもしろ)いことを教えてやろうか」
利広が振り返ると、階段の手摺(てすり)に凭(もた)れ、風漢は笑う。
「俺は碁(ご)が弱くてな。だが、たまに勝つこともある。勝つと必ず碁石をひとつ掠(かす)め取っておくんだ。それを溜(た)めこんだのが八十と少しある」
利広はその場で立ち竦(すく)んだ。
「……それで?」
「それだけだ。確か八十三まで数えたのだったか。それで――阿呆(あほ)らしくなった」
利広は噴(ふ)き出した。
「それは、いま?」
「さあ。捨てた覚えはないから、誰ぞが始末していなければ、塒(ねぐら)のどこかにあるだろう」
「いつの話だい、それは」
「二百年ほど前だ」
笑って言って、風漢は手を振って踵(きびす)を返す。その肩越しに、ではな、と暢気(のんき)な声が聞こえてきたので、さっさとくたばれ、と利広は笑って応じておいた。
南の大国、奏(そう)の首都は隆洽(りゅうこう)という。隆洽山の頂(いただき)に広がるのは清漢宮(せいかんきゅう)、これが六百余年の大王朝を築いた宗王(そうおう)の居宮だった。
王宮は通常、王の居所となる正寝(せいしん)を頂点に編成されるが、奏国の場合は、いささかその頂点がずれている。奏の中心は後宮(こうきゅう)にある典章殿(てんしょうでん)、これは即位直後から六百年、ついに一度も動いていない。
清漢宮は山の頂上というよりも雲海に浮かぶ大小の島で成り立っているように見える。建物の多くは島から溢(あふ)れ、澄んだ海上に張り出し、そこに無数の橋が架(か)かってそれぞれを繋(つな)ぎ留(と)めている。正寝(せいしん)それ自体がひとつの島なら、後宮(こうきゅう)もひとつの島、後宮の正殿になる典章殿(てんしょうでん)は正寝から橋を渡って楼門(ろうかく)を潜(くぐ)り、その先を塞(ふさ)ぐ小峰の裾(すそ)を穿(うが)った隧道(すいどう)を抜け、峰の裏に沿って石段を少しばかり登った高台の上にある。典章殿からは、小さな入り江が一望できる。入り江を囲む断崖(だんがい)の左右から空中に架(か)けた閣道(かくどう)が延びて、後宮のさらに奥、北宮(ほくぐう)へ、東宮(とうぐう)へと続いていた。
透明に凪(な)いだ雲海の上に、騎獣(きじゅう)の姿が現れたのは夜の帳(とばり)が降りてからだった。半分欠けた月の光を浴び、影のように飛来した騎獣は入り江を横切り、まっすぐに典章殿を目指す。崖(がけ)にしがみつき、二折れ三折れしながら海面へと下る露台を飛び越し、裏窓の外に張り出した手狭(てぜま)な岩場の上に降り立った。
窓には灯(あかり)が点(とも)っている。玻璃(はり)越しに広い堂内を見渡すことができる。堂の中央を占めた大きな円卓、食事を終えたばかりなのだろう、卓の上には大小の食器が積み重ねられ、その周囲に茶杯(ゆ
の み)を抱(かか)えた人影が五つ、散っていた。
「――毎度のことながら、みんな揃(そろ)ってるなあ」
笑い混じりに言って、利広(りこう)が窓から入り込むと、円卓を囲んでいた人々が一斉に振り向き、てんでに驚いたような呆(あき)れたような声を漏らした。ふっくらと年嵩(としかさ)の女が手を止めて、深々と溜息(ためいき)をつく。
「……お前って子は、どこが出入り口なんだか、てんで覚える気がないとみえるね」
言った彼女が宗后妃明嬉(そうこうひめいき)だった。本来ならば王后(おうこう)は北宮(ほくぐう)に住まう。その后妃が後宮にいるのみならず、さも高級そうな襦裙(き
も
の)の袖(そで)を襷(たすき)をかけて捲(まく)りあげ、小山に盛った桃(もも)の皮を剥(む)いているというのは、おそらく奏(そう)でしか見られない光景だろう。
「しかも、王宮で騎獣(きじゅう)を乗り回すんじゃないっていつも言ってるだろう。何度言ったら覚えてくれるのかね、うちの放蕩(ほうとう)息子は」
「覚えた端(はし)から忘れるんだ、なにしろ年寄りだから」
利広はあっけらかんと笑う。明嬉は再び溜息(ためいき)をついて小さく頭を振った。
「惚(ぼ)けかけた頭でやっと家を思い出したってわけだね。今度はどこまでお行きだえ」
ああ、と利広は笑いながら、円卓の周囲、たったひとつ空(あ)いていた席に陣取る。
「あちこち」
「ということは、また一周してたんだね。まったく、お前には呆(あき)れ果(は)ててものも言えない」
「すると、今、母さんが口にしてるのは何かな?」
「これは小言(こごと)というんだ、よーく覚えておおき」
「覚えられるかなあ」
お母さん、と明嬉(めいき)以上に深い溜息(ためいき)をついたのは利広の兄――英清君利達(えいせいくんりたつ)だった。
「莫迦者(ばかもの)は放っておきなさい。そうやってかまうとつけあがる」
「酷(ひど)いなあ」
くすくすと笑ったのは利広(りこう)の妹の文姫(ぶんき)、その称号を文公主(ぶんこうしゅ)という。
「兄様は母様(かあさま)の小言が聞きたくて帰ってくるのよ。甘えん坊だから」
「おいおい」
「だって兄様、いますごく嬉(うれ)しそうよ。いつもそうだもの。一度鏡を見てみれば?」
そうかな、と利広が顔を撫(な)でると、金の髪の女が柔らかく微笑(ほほえ)む。
「なんにせよ、御無事でようございました。お帰りなさいませ」
これが宗麟(そうりん)――昭彰(しょうしょう)だった。利広は大仰(おおぎょう)に頷(うなず)いてみせる。
「昭彰だけだなあ。私の身を案じてくれるのは」
「そりゃあ昭彰は、麒麟(きりん)だもの」
文姫(ぶんき)が言うと、利達もうなずく。
「慈悲(じひ)のかたまりだからな、麒麟というのは」
「昭彰は、世界一の悪党の身の上だって心配するんだからねえ」
明嬉(めいき)からも畳(たた)みかけられ、さすがに利広は苦笑して椅子(いす)に背中を預ける。
それで、と鷹揚(おうよう)に利広を促(うなが)したのは、一家の要(かなめ)、宗王先新(そうおうせんしん)だった。小卓に食器を下げていた手を止めて、手ずから茶を汲(く)んで息子の前に差し出した。これまた、奏(そう)以外ではあまり見られない光景かもしれない。
「どうだったね、あちこちは」
「……柳(りゅう)がまずそうな感じですね」
かたん、と先新(せんしん)の置いた茶杯(ゆ の み)が鳴った。
「――柳」
利達は眉(まゆ)をひそめて筆を置き、書面を脇(わき)に避(よ)ける。
「またか。……このところ、続くな」
「それは確かなのか」
先新の問いに、利広はうなずいた。
「おそらくは。私の見た限りでは確定でしょう。柳の沿岸――虚海(きょかい)側には妖魔(ようま)が出るそうですよ。戴(たい)に面したほうに限られるので、戴から流れてきているのだと、民は考えているようですが、天意が目減(めべ)りしていなければ近づいてくることなどないでしょうし。雁(えん)は掌固(け
い び)を編成して柳との国境に派遣(はけん)したようです」
ふむ、と利達(りたつ)が小さく呻(うな)った。
「あの知恵者が夏官(かかん)を動かしたというのなら間違いないだろうな」
文姫(ぶんき)は溜息(ためいき)をついた。
「延王(えんおう)も大変でいらっしゃるわね。妖魔(ようま)が徘徊(はいかい)するほど戴(たい)が不穏(ふおん)で、しかもお隣(となり)の慶(けい)は常に不安定だし。そのうえ柳まで」
「巧(こう)もだよ。青海(せいかい)を渡って、かなりの数の荒民(なんみん)が雁(えん)に流れ込んでいるからね」
「巧はどうだった?」
「相変わらず酷(ひど)い。赤海(せっかい)から青海へ抜ける航路は完全に閉じてしまった。間の巽海門(そんかいもん)を抜けられないんだ、妖魔が多くて。いったい、塙王(こうおう)は何をしたんだろうね。白雉(はくち)が落ちてまだ間がないというのに、あれほどの妖魔が徘徊するなんて」
おかげで、と利達は恨(うら)めしげに傍(かたわ)らに追いやった書面を見た。
「こちらも押し寄せた荒民で目眩(めまい)がするようなありさまだ。お前、しばらく身勝手を慎(つつし)んで、荒民救済の采配(さいはい)をしないか」
「文姫のほうが適任じゃないかな」
「あたしは保翠院(ほすいいん)のお世話があるの」
奏(そう)には全土に荒民、浮民(ふみん)のための救済施設がある。それが保翠院だった。その首長である大翠(たいすい)として文姫が立って久しい。
国を挙げて太綱(たいこう)にない特別の事業を興(おこ)す際には、必ず一家の誰かを首長として据(す)える。単に官吏(かんり)を首長として立てるよりも、名目だけでも太子(たいし)、公主(こうしゅ)の誰かを首長として立てておいたほうが、編成された官吏たちはよく働くし、民も安堵(あんど)して信頼するからだ。
文姫はただ大翠としてそこにいるだけ、名目だけの首長だと知ってはいても、公主を首長に立てるということは、王直々(じきじき)に気にかけて、その事業を完遂(かんすい)しようという決意の表れだと民は思う。だからこそ信頼を寄せるわけだが、実際には気にかけるも何もない、文姫が大翠として立つということは、事実上、宗王(そうおう)自らが采配(さいはい)をすることに等しい。形だけは文姫が官吏の意見をとりまとめて先新(せんしん)に上奏し、先新が処断を下しているという体裁(ていさい)を取っているものの、文姫が先新にいちいち指示を仰(あお)ぐことなどない。そんなことをしなくても文姫は御璽(ぎょじ)を捺した白紙を山ほど持っている。――ちなみに一家は、全員が同じ筆跡で文字を書く、という特技を持っている。六百年の間に磨(みが)かれた技だ。
「保翠院だけでは賄(まかな)いきれない」
利達は言って溜息(ためいき)をついた。
「荒民(なんみん)は取る物も取りあえず逃げてくるから、国境を越えればそこで精根(せいこん)尽きてしまう。国の様子も心配だろうし、国が少しでも落ち着けば戻りたい肚(はら)もあるから国境を離れたがらないものだからな。そうやって集まった荒民(なんみん)で、高岫山(こうしゅうざん)の近辺には集落ができているが、事実上、放置されているに等しい」
「保翠院(ほすいいん)から迎(むか)えは」
「やってるわよ。でも、とてもじゃないけど追いつかない」
文姫(ぶんき)の言葉に、明嬉(めいき)もうなずく。
「とにかく荒民たちを何とか編成して、うちの客分として組みこまないとね。最低限、集落を街としての体裁が整うよう、なんとかしてやらないと」
「いまのところ、大きな看板を背負ってないのはお前だけだ。諦(あきら)めて手を貸せ」
利達(りたつ)の言に、利広(りこう)は息を吐いた。
「……断るわけにはいかないようだなあ」
「御託(ごたく)をぬかしたら叩(たた)き出(だ)してやる。お前に一任する」
「私が手を出すと、国庫を湯水のように使うよ」
「そんなことは、言われなくても知っている」
「物資の調達と輸送は」
「とりあえず、県城の義倉(び ち く)までは空にしても何とかなるだろう、と結論が出たところだ」
「じゃあ、やってみるか」
「叩(たた)き台でいいから方針を出せ。早急に、だ」
「……謹(つつし)んで承りましょう」
やれやれ、と息を吐いたのは先新(せんしん)だった。
「延王(えんおう)はこれをひとりでやっておるのかね。正直言って、頭が下がる」
「雁(えん)の官吏(かんり)は切れ者が多くて、しかも機動力が高いですからね」
利達は言って、顔をしかめた。
「――その点、うちの官吏はどこか暢気(のんき)だからなあ」
「そのぶん、良からぬことを考えるのにも暢気だから帳尻(ちょうじり)が合うんだよ」
明嬉が苦笑して、一家は揃(そろ)って溜息(ためいき)混じりの笑いを零(こぼ)した。
まあ、と先新は笑う。
「うちにはうちの流儀があるか。――それで、その他のあちこちはどういう様子だ」
利広は肩を竦(すく)める。
「戴(たい)も酷(ひど)いね。何とか近づけないかと近辺までは行ってみたけれど、あれは駄目だ。とにかく虚海(きょかい)側に妖魔(ようま)が多くて」
文姫(ぶんき)が首をかしげる。
「でも、白雉(はくち)は落ちてないんでしょう? ということは、泰王(たいおう)に何かあったというわけではないのよね?」
「さっぱり事情が分からない。あちこちで聞いた話を総合すると、どうやら偽王(ぎおう)が立った、ということらしいんだけど」
「泰王(たいおう)が御健在なのに?」
「妙な話だけどね。泰麒失道(たいきしつどう)という話も聞いてないし。泰王崩御(ほうぎょ)でもない、泰麒失道でもない、すると内乱だとしか考えられないんだが、たかが内乱で妖魔(ようま)があれだけ跋扈(ばっこ)するというのも妙な話だし」
「……似ておりますね」
口を挟(はさ)んだのは昭彰(しょうしょう)だった。
「似てる?」
「ええ。巧国(こうこく)と。――塙麟(こうりん)失道に続く塙王(こうおう)崩御、珍しくないこととはいえ、これほど短期間にあそこまで荒れた例はあまり覚えがございません」
確かにねえ、と明嬉(めいき)は剥(む)いて切り分けた桃の実を人数ぶんの皿に盛る。
「妖魔のほうに何かが起こってるんでなきゃ、いいけどね」
「妖魔のほう、でございますか?」
「だって妙なことになってるわけだろ? 戴(たい)と巧が妙なのか、それともそこに出没している妖魔(ようま)のほうが妙なのか、よくよく見定めてみないと分かりゃしないでしょう」
「だめですよ、お母さん」
利達(りたつ)はぴしゃりと言って利広(りこう)をねめつける。
「そういうことを言うと、誰かが調べに行きたがりますよ。――利広、お前もそわそわしてるんじゃない」
「大役をひとつ引き受けたからね。そわそわするだけでやめておくよ」
「その言葉、忘れるなよ」
信用がないなあ、と苦笑する利広に、先新(せんしん)は問う。
「もうひとつ危うい国があるだろう。芳(ほう)はどうだ」
「あそこは格別の異常もなく、じりじりと沈んでいるようですよ。どちらかと言えば、うまく踏みとどまっているようです。あの仮朝(かちょう)は見所がある」
「――他は?」
「他はたぶん、つつがなく。舜(しゅん)が少しばかり安定を欠いているようですが、あそこはちょうど新王登極(とうきょく)から四十年ばかりになるので、あんなものでしょう。どう転ぶかは分かりませんが、今のところは踏みとどまる方向に向かっている感じです。範(はん)がちょうど大きな節目(ふしめ)にさしかかる頃合いですが、行ってみた感じでは問題なくその先に進みそうだな」
「慶(けい)はどうだ。落ち着いたのか?」
ああ、と利広(りこう)は笑った。
「そう――慶。あそこはね、ちょっと面白(おもしろ)い具合になってきました」
「ほう?」
文姫(ぶんき)は首を傾ける。
「女王でいらしたわよね?」
「そうなんだけどね。――うん。慶と女王は反(そ)りが良くないのだけど。今度は少し違う目が出るかもしれない。この間、初勅(しょちょく)が出てね。それが、伏礼(ふくれい)を廃(はい)すって」
え、とその場の誰もが目を見開いた。明嬉(めいき)はきょとんとしている。
「伏礼を廃して――それでどうするんだい」
「まさか、全員が跪礼(きれい)だけ? 麒麟(きりん)みたいに?」
言った文姫に向かって、利広はうなずく。
「そのようだね」
「でも、伏礼を廃して、それがどうだっていうの?」
「実益があるとは思えないけど。でも、なんとなく――意気を感じたな。民に向かって平伏(へいふく)するな、と命じた王は初めてだろう」
「そういえばそうねえ……」
「初勅(しょちょく)が出る前に、慶の中央部で乱がひとつあったんだけど、なんと景王(けいおう)が直接お出ましになって、平定されてしまわれたそうだよ」
まあ、と文姫(ぶんき)は口元を押さえる。
「長い間、朝廷を牛耳(ぎゅうじ)っていた連中を締(し)めあげて、官吏(かんり)の整理も行なったようだし。なかなか行動力があるね。景王にしては珍しく」
「へえ……」
「初勅以来、改革も進んでいるようだし。半獣(はんじゅう)、海客(かいきゃく)に関する規制が撤廃されたよ。それも勅令(ちょくれい)で断行だってさ。なんでも禁軍の左軍将軍が半獣のお方だとかで」
「あら、すごい」
「やっと、と言うべきじゃないかな」
「景王が勅令でそれをやった、というのがすごいじゃない。あそこって、そういう勢いのあることが、本当になかったんだもの」
「そう――勢いがあるね、今度の慶は。いい感じだ」
利広は微笑(ほほえ)む。慶の端々(はしばし)には、いまだに強い王に対する不信感が残っている。だが、王都に近づけば近づくほど、民の顔は生彩(せいさい)を帯びてくる。王の膝元(ひざもと)から希望が広がり始めている証拠だ。なにしろこれまで波乱を繰り返してきた国だから、臣下の硬直は岩のように堅固だが、それを吹き飛ばすだけの勢いを感じる。たぶん慶は最初の十年を乗り越えるだろう。それもかなり良い形で。
利達(りたつ)が息を吐いた。
「慶(けい)が落ち着いてくれるとありがたい。こうもあちこち騒然としていると、寝覚(ねざ)めが悪いからな。なんとかうちも慶を見習って、いい感じに持ち直したいところだな」
「それは私に念押しをしてるのかな?」
「本人の申告によれば、惚(ぼ)け始めているようだからな」
はいはい、と利広(りこう)が苦笑混じりに答えると、円卓の周囲にはそれぞれが考えこんでいるかのような沈黙が流れた。それを最初に割って口を開いたのは先新(せんしん)だった。
「実際のところ、柳(りゅう)はどれくらい保(も)ちそうだ?」
利広は少しの間、首を傾けて考えこんだ。
「分からない。いったん事が起これば決着は早そうだけど。妖魔(ようま)が出ているというくらいだから、相当に天意は傾いているでしょう。ひょっとしたら近日中に台輔失道(たいほしつどう)もあり得るんじゃないかな」
「相手が柳では、うちは荒民には関係ないか。頼るなら雁(えん)か恭(きょう)だろうな」
「雁はすでに状況を把握(はあく)しているようだから問題ないでしょう」
「しかし、戴(たい)や慶、巧(こう)の荒民まで背負っているわけだろう。どうやら慶は持ち直しそうだがまだ援助がいるに違いない。戴は完全に負(お)ぶさる形で、しかもこれに巧の北方の民が乗る。その者たちにすれば当然の選択だろう。妖魔(ようま)の跋扈(ばっこ)する土地を縦断して奏(そう)まで逃げてくる気にはなれんだろうしな。だが、巧(こう)までも抱(かか)えこんで、このうえ柳(りゅう)が荒れると、さしもの雁も荷が重いだろう。援助を申し入れては失礼だろうかね」
どうでしょう、と利広(りこう)は笑った。
「むしろ、巧の荒民(なんみん)をできるだけ引き受ける方向で考えたほうがいいかもしれません。このぶんだと、慶にまで流れこみそうな勢いですが、今の慶には、巧の民まで支える体力はないでしょう」
ふうむ、と先新(せんしん)は呻(うな)る。
「問題は、巧の民をどうやって奏に誘うか、だな」
「船を出せばいいでしょう」
言って、書面に心覚えを書きつけていた利達が、筆を走らせながら空いた手を挙げた。
「赤海(せっかい)から青海(せいかい)に入るのは難しいようですが、とりあえず赤海沿岸の港への船便をできるだけ増やす。あとは虚海(きょかい)側ですね。巧の沿岸を北上する荒民専用の船便を出せば」
「虚海(きょかい)側にはろくな港がないという話だろう?」
先新が問うように見るので、利広はうなずいた。
「大きな船が入れるほどの港は二箇所ですね。漁港なら大小いくつかありますが」
「じゃあ、小型船にすればいい。それなら漁港でも入れるから。第一、そうしないと大型船じゃあ間に合いません。数を揃(そろ)えるためには建造しなきゃなりませんから。漁船程度の船というと、乗れる人の数だってたかが知れていますが、そこは船団を組むなり、便数を増やすなりして」
「ふむ……その手があるか」
同意したのは明嬉(めいき)だった。
「そうおしよ。大型船を慌(あわ)てて造ったところで、用が済んだら使い道もありゃしない。小型の船なら、漁民に払い下げてやればいいわけだからね。それで巧(こう)の虚海側、北のほうの民を奏(そう)に誘えたら、慶(けい)への負担はかなり減るんじゃないかい」
「そうですね。――すると問題はむしろ恭(きょう)か」
利達(りたつ)は言って顔を上げ、利広を見た。
「恭には帰り道に寄って、心づもりが必要だと言っておいたよ」
「恭に物資は?」
「芳(ほう)を援助するために義倉(び ち
く)を割(さ)いて用意をしていたようだから、当面はそれを柳(りゅう)の荒民(なんみん)に流用できると思う。逆に、芳がよく踏みとどまっているから。ただ、いずれ芳も物資の支援が必要になるし、長期化すると厳しいかな」
文姫(ぶんき)が溜息(ためいき)をついた。
「芳と柳とふたつ抱えじゃあねえ。特に芳は、地理的にも恭(きょう)が頼りでしょうし。恭は隣(となり)の範(はん)と国交があったかしら?」
「ないと思うな」
「じゃあ、少しこちらも恭に援助をする用意をしておいたほうがいいかもね。最低限の食糧だけでも確保しておかないと」
「そりゃあ駄目だよ、文姫」
明嬉が軽く笑った。
「運ぶ手間と賃金を考えてごらんよ。うちで用意するより、恭の国庫を援助したほうが話は早いさ。それに、巧の荒民(なんみん)が入ってきて、うちも義倉(び
ち く)を開けてしまうだろう。このうえ恭のために米を買い漁(あさ)ったら莫迦(ばか)みたいな値になるよ」
「それは……そうかもしれないけど」
「供王(きょうおう)に穀物の値を監視するよう、忠告しといたほうがいいかもしれないね。それと材木。北のほうじゃあ材木は、恭(きょう)、芳(ほう)、柳(りゅう)の三国が主だろう? そのうちの二国が傾けば、きっと高騰(こうとう)するだろうさ。穀物にせよ木材にせよ、こちらの値を緩(ゆる)めて北に流れていけるようにしたほうがいいだろうねえ」
「でも――」
言いかけた文姫(ぶんき)を、先新(せんしん)が制す。
「母さんの言うのが正解だろう。物を送りつけるのはよくない。独立不羈(どくりつふき)の心を挫(くじ)いてしまうからな。荒民(なんみん)にとって一番必要なものは、辛抱(しんぼう)することと希望を失わないことだ。我々が援助してやるのはそこだよ」
「……ああ、うん」
「助け起こしてやることは必要だが、相手が立ったら手は放してやらないとな。恭を援助するのはいいだろう。国庫を助けて恭が荒民の救済をしやすいようにしてやるのには賛成だ。だが、施(ほどこ)すのは恭でないといかんよ。隣国が助けてくれれば、柳の民も心強かろうし、この先恩義にも感じるだろう。それは奏(そう)が助けた場合も同じだが、恭ならばいずれその恩義を返すことができる。なにしろ隣(となり)だからね。奏が施しても恩義の返しようがない。返しようのないものは、天から降ってきたのと同じだよ。それに慣れさせてしまえば荒民にとって一番大切なものを挫くことになる」
はい、とうなずいた文姫を微笑(ほほえ)んで見やって、先新は利広(りこう)を振り返る。
「お前もだ。巧の民のために国庫を散財するのは構(かま)わないが、施しすぎないようにな」
「――心得ておくよ」
うなずいて、先新は軽く息を吐く。
「まあ、お前が方々から事情を持ち帰ってくれるので助かる」
「褒(ほ)めるんじゃありません、お父さん」
利達(りたつ)が口を挟(はさ)む。
「利広には、少し自覚を持ってもらわないと」
「そう何度も釘(くぎ)を刺(さ)さなくても、荒民(なんみん)に関しては引き受けるよ」
「よく言った。言質(げんち)を取ったぞ。もたもたしていると、酷(ひど)いからな」
「分かってるよ」
「ついでに」
利達は利広をねめつける。
「さっさと騎獣(きじゅう)を厩(うまや)に戻してこい。いつまで外で待たせているんだ」
首を竦(すく)めた利広を微笑(わら)って、昭彰(しょうしょう)が立ち上がった。
「わたくしが」
「およし、昭彰(しょうしょう)」
明嬉(めいき)はぴしゃりと言う。
「出したものは片づける。そのくらいのことはできるようにならなきゃ。なにしろもう子供じゃないんだから」
これには全員が噴き出した。
「たしかになあ」
「そうねえ。兄様も、いい加減で大人にならなきゃ」
「六百を過ぎた子供なんて洒落(しゃれ)にもならん」
利広(りこう)は自らも笑いつつ、はいはい、と立ち上がった。
ここは、いっかな変わらない――利広は窓から岩棚(いわだな)に抜け出しながらそう思う。居場所も変わらなければ、その顔ぶれが変わることもない。いつでも窓には灯(あかり)が点(とも)っていて、そこには明るい顔をした人々が和(なご)やかに集(つど)っている。
旅から戻り、この光景を見ると心の底から安堵(あんど)する。幸か不幸か、まだこの安逸(あんいつ)に飽(あ)いたことはない。いや、あるいは利広がこうも頻繁(ひんぱん)に王宮を抜け出し、危険を承知で諸国を放浪してしまうのは、実は飽いているからなのかもしれなかった。そういえば、出るときはいつも、戻るときのことなど考えていない。行く手のことしか念頭にはなく、奏(そう)も清漢宮(せいかんきゅう)も、そこにいる家族も意識の外だ。利広自身にも届かない心の奥底で、実は二度と戻るまいと思っているのかもしれなかった。
だが、それでも結局のところ、いつだって利広はここに戻ってくる。
他国を見れば寒々しい。国は脆(もろ)く、民はいつでも薄氷の上に立っている。死なない王朝はない。あまりにも自明のことでありすぎる。――けれどもここはだいじょうぶだ。少なくとも、互いが支え合っている限りは。
利広は窓の中を振り返った。
――ひょっとしたら自分は、これを確認するために、戻ってくるのかもしれない。

加载中…