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乌瓜花与蛾  寺田寅彦

(2016-09-19 10:07:18)
标签:

寺田寅彦

日本随笔

庭院

自然

分类: 寺田寅彦专辑

     乌瓜花与蛾

                 ——寺田寅彦

 

(乌瓜,又名王瓜,瓜科爬藤类多年生草本植物。生长在山野,夏夜开白色的花,秋天结红色圆形卵籽。蛾,属鳞目类,是蝶以外的昆虫。有覆盖着鳞粉的翅膀,休憩时翅膀多呈水平展开状。幼虫为毛虫,芋虫等。主要在夜间活动。——译者注)

今年,我家庭院的乌瓜繁殖势头强劲。它们缠绕着内院篱笆上的蔷薇,再从这里再伸出藤蔓,侵略到近旁的珊瑚树,不知不觉中渐渐占领了整个树冠。尽管如此它们还不满足,这次将触手伸到了篱笆对面的枫树那里,挣得了周围的空间。这样一来,它们的藤蔓穿梭在茂盛的枫树的大小树枝之间,像线一样长长地垂挂着,几乎要碰到下面红蜀葵的顶部了。其征服欲望使人惊讶,通过直径只有二,三毫米左右的细茎,向着任何空间扩展开来。

每天都有许许多多的花开了又谢了。这种花白天含苞欲放,很小,可爱极了,如果说它是夏夜的妖精握着的拳头,那是太合适了。傍晚太阳落山后,空中的光线还很强,此时,它牢牢握紧拳头,如果稍稍放眼望去,在即将变暗的时候,所有的花朵一齐开放了。就像打开开关,数十盏灯一齐同时放光。我寻思,这种植物是在哪里装了不可思议的开关,会根据光线的明暗自动发生作用,使花朵一齐开放?有一天傍晚,我手持钟表,等待着花朵的开放。在屋子的外廊,亮度为看得见、又似乎看不见报纸上的字的时候,那正是花开的时刻。从开始开花到花开完,时间长短为五到十分钟之间。也就是说,十分钟之前,一朵花也未开;十分钟后,花儿悉数盛开了。这实在是令人惊讶的现象。

乌瓜花据说有“花之骸骨”之称,为此感叹不已。从远处看,就好像吉野纸似的,又好像一抹烟似的。拿在手里一看,雪白柔软,带有少许粘液和香味的纤维,五叶星形的花瓣边缘,放射着分歧的细细的网状物,向四周扩散开来。如果用手指把含苞欲放的花蕾强行剥开,雪白的纤维卷毛似的蜷缩起来,又像在思考似的,不肯轻易绽开。如果强行将它展开,就弄碎了。这是因为,一旦达到了空中光线照明度的极限值,大多数细胞组织的水压就变高吧,将螺旋状紧缩物伸长,就看见了一齐绽开的花朵。乌瓜花据说有一种光度计之类的东西,比人类发明光度计也许要早好几万年,而这种东西都是天然的。

当乌瓜花大部分开放的时候,从四面八方,大量的蛾几乎一齐飞来,在花上走走啄啄。我想它们好像是用无线电话召集来的,顷刻之间,从这里那里都飞了过来。这也许是蛾有着一种光度计的缘故吧,以至于它们好像事先准确了解了在哪条街,什么地方,哪一家,哪个部位的乌瓜花正在开放着,还将到这里来的道路预先仔细研究过了,真好像是一直线地飞了过来。

起初,来寻找我家的人,哪怕是在大白天,要在派出所,店铺等地方问了又问,经历了几次不知所措之后,才好不容易找对了地方。

在屋外完全变黑了之后,这蛾子就来袭击客厅的电灯,也许它们以为那是晚霞中的乌瓜花吧。偶尔接待来访的客人,在说知心话的过程中,它们丝毫不留情面,不管三七二十一,冷不防地飞来,并马上开始忙着作盘旋运动,甚至不时撞在来客的头上脸上,像雪片一样落在特意拿出来招待客人的茶和点心上。宾客只好一齐起立,以奇妙的手法,一手一把团扇挥舞起来,却不能将它们轻易打落。连擅长于打网球的客人,似乎也稍稍将这个生翅膀的球打偏。女人中间,对蛾讨厌害怕的似乎也很多。这是距今三十五年以前的事了,在某位农村的退役军人家里发生了一件大事,他的一个儿子要嫁给一位才貌具全的新娘。他们家的庭院里盛开着值得夸耀的月光花,前来叼啄的蛾群,不时飞来戏弄年方二八的新娘,这时候,新娘被吓得魂不守舍,害怕地大声惊叫起来。因此,就有了这样的实际例子:从第二年起,思念儿子的父亲中止了月光花的栽培。这位新娘实际上是像月光花那样伤感的女子,仅仅几年之后,就亡故了。在新娘的新郎那里的一位老学者的记忆中,一直残留着与月光花和蛾子缠绕在一起的美丽而悲壮的梦幻世界。他对着我的耳朵这样轻轻说,我想,那位女子不用说就像这乌瓜花一样虚幻地存在着。


 
 见到了大蛾子的复眼在适当角度对准了光,常常令人不快,容易发火。

它发出类似磷光的光线,不由得使人有一种凄凉的感觉。过去在西洋的杂志小说里,读到过关于蛾子孵化出来的故事,这个眼球中的光线确实多少带有妖魔鬼怪的味道。也就是说,总觉得里面有非现实的色彩和光线。我想,这是在多重复眼的多重焦点作用下,与在光合作用的场合下同样的反射作用的缘故。

在为蛾子袭击所困扰时,将家里的猫带来了,马上有了结果。两只住家的黄色雄猫,瘦骨嶙峋的,它们没啥本事,只是在捕捉蛾子上独有妙计。正估计它们要跳起来,已经同时将蛾子扑了下来,然后狠狠地将它们当作玩具来耍,最后,空腹吧叽吧叽地将它们都吃了。猫的神经灵活,动作迅速,狙击准确,我们人类到底做不到。看了猫的动作,觉得人类在网球和垒球中的规定动作真是磨磨蹭蹭,滑稽透顶。因此,猫的十分之一秒相当于人类的一秒,据测定,猫的寿命是八年的话,相当于人类的八十年。谁更长寿,还真不好判断。

 

 

烏瓜の花と蛾

 

寺田寅彦

  

 今年は庭の烏瓜からすうりがずいぶん勢いよく繁殖した。中庭の四よツ目垣めがきの薔薇ばらにからみ、それから更に蔓つるを延ばして手近なさんごの樹を侵略し、いつの間にかとうとう樹冠の全部を占領した。それでも飽き足らずに今度は垣の反対側の楓樹かえでのきまでも触手をのばしてわたりを付けた。そうしてその蔓の端は茂った楓の大小の枝の間から糸のように長く垂れさがって、もう少しでその下の紅蜀葵こうしょっきの頭に届きそうである。この驚くべき征服慾は直径わずかに二、三ミリメートルくらいの細い茎を通じてどこまでもと空中に流れ出すのである。

 毎日夥おびただしい花が咲いては落ちる。この花は昼間はみんな莟つぼんでいる。それが小さな、可愛らしい、夏夜の妖精フェアリーの握にぎり拳こぶしとでも云った恰好をしている。夕方太陽が没してもまだ空のあかりが強い間はこの拳は堅くしっかりと握りしめられているが、ちょっと眼を放していてやや薄暗くなりかけた頃に見ると、もうすべての花は一遍に開き切っているのである。スウィッチを入れると数十の電燈が一度に灯ともると同じように、この植物のどこかに不思議なスウィッチがあって、それが光の加減で自働的に作用して一度に花を開かせるのではないかと思われるようである。ある日の暮方くれがた、時計を手にして花の咲くのを待っていた。縁側で新聞が読めるか読めないかというくらいの明るさの時刻が開花時で、開き始めから開き終りまでの時間の長さは五分と十分の間にある。つまり、十分前には一つも開いていなかったのが十分後にはことごとく満開しているのである。実に驚くべき現象である。

 烏瓜の花は「花の骸骨がいこつ」とでも云った感じのするものである。遠くから見ると吉野紙よしのがみのようでもありまた一抹の煙のようでもある。手に取って見ると、白く柔らかく、少しの粘りと臭気のある繊維が、五葉の星形の弁の縁辺から放射し分岐して細かい網のように拡がっている。莟んでいるのを無理に指先でほごして開かせようとしても、この白い繊維は縮れ毛のように捲き縮んでいてなかなか思うようには延ばされない。強しいて延ばそうとすると千切ちぎれがちである。それが、空の光の照明度がある限界値に達すると、多分細胞組織内の水圧の高くなるためであろう、螺旋らせん状の縮みが伸びて、するすると一度にほごれ拡がるものと見える。それで烏瓜の花は、云わば一種の光度計フォトメーターのようなものである。人間が光度計を発明するよりもおそらく何万年前からこんなものが天然にあったのである。

 烏瓜の花が大方開き切ってしまう頃になると、どこからともなく、ほとんど一斉に沢山の蛾がが飛んで来てこの花をせせって歩く。無線電話で召集でもされたかと思うように一時にあちらからもこちらからも飛んで来るのである。これもおそらく蛾が一種の光度計を所有しているためであろうが、それにしても何町何番地のどの家のどの部分に烏瓜の花が咲いているということを、前からちゃんと承知しており、またそこまでの通路をあらかじめすっかり研究しておいたかのように真一文字に飛んで来るのである。

 初めて私の住居を尋ねて来る人は、たとえ真昼間でも、交番やら店屋などを聞き聞き何度もまごついて後にやっと尋ねあてるくらいなものである。

 この蛾は、戸外がすっかり暗くなって後は座敷の電燈を狙いに来る。大きな烏瓜か夕顔の花とでも思うのかもしれない。たまたま来客でもあって応接していると、肝心な話の途中でもなんでも一向会釈えしゃくなしにいきなり飛込んで来て直ちに忙せわしく旋回運動を始めるのであるが、時には失礼にも来客の頭に顔に衝突し、そうしてせっかく接待のために出してある茶や菓子の上に箔はくの雪を降らせる。主客総立ちになって奇妙な手付をして手に手に団扇うちわを振廻わしてみてもなかなかこれが打落されない。テニスの上手な来客でもこの羽根の生えたボールでは少し見当が違うらしい。婦人の中には特にこの蛾をいやがりこわがる人が多いようである。今から三十五年の昔のことであるが或る田舎の退役軍人の家で大事の一人息子に才色兼備の嫁を貰った。ところが、その家の庭に咲き誇った夕顔をせせりに来る蛾の群が時々この芳紀二八にはちの花嫁をからかいに来る、その度たびに花嫁がたまぎるような悲鳴を上げてこわがるので、息子思いの父親はその次の年から断然夕顔の裁培を中止したという実例があるくらいである。この花嫁は実際夕顔の花のような感じのする女であったが、それからわずか数年の後亡くなった。この花嫁の花婿であったところの老学者の記憶には夕顔の花と蛾とにまつわる美しくも悲しい夢幻の世界が残っている。そう云って彼は私に囁ささやくのである。私には彼女がむしろ烏瓜の花のように果敢はかない存在であったように思われるのである。

 大きな蛾の複眼に或る適当な角度で光を当てて見ると気味の悪いように赤い、燐光りんこうに類した光を発するのがある。何となく物凄い感じのするものである。昔西洋の雑誌小説で蛾のお化けの出るのを読んだことがあるが、この眼玉の光には実際多少の妖怪味と云ったようなものを帯びている。つまり、何となく非現実的な色と光があるのである。これは多分複眼の多数のレンズの作用で丁度光ひかり苔ごけの場合と同じような反射をするせいと思われる。

蛾の襲撃で困った時には宅うちの猫を連れて来ると、すぐに始末が着く。二匹居るうちの黄色い方の痩せっぽちの男猫が、他には何の能もない代りに蛾をつかまえることだけに妙を得ている。飛上がったと思うと、もう一遍にはたき落す。それから散々さんざん玩具にした揚句あげくに、空腹だとむしゃむしゃと喰ってしまうのである。猫の神経の働きの速さと狙いの正確さには吾々人間は到底叶かなわない。猫が見たら人間のテニスやベースボールは定めて間だるっこくて滑稽なものだろうという気がするのである。それで、仮りに猫の十分の一秒が人間の一秒に相当すると、猫の寿命が八年ならば人間にとっては八十年に相当する勘定になる。どちらが長生きだかちょっと判らない。

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