横光利一专辑(六)北京和巴黎(转载)
(2016-04-19 09:56:15)
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北京与巴黎(节选)
芥川龙之介①曾对我抱怨说,他一去上海,脑子里就尽转着政治一类的事,觉得很困惑。那时候说的政治这个词,意思相当于现在我们所说的思想这个词,看来这十年间,词语的涵意正在发生相当大的变化。最近,法国又出现了精神政治学这一前所未见的新词汇,不过,就强调思想这个词里边包含有行为的性质而言,思想也不妨可以称作为精神政治学。我眼中的芥川,在当时是个比谁都偏爱将政治学置于自己精神思想之中的人。要是芥川今天还活着,他更感兴趣的,肯定不会是他所喜爱的北京,而是他所厌恶的上海。去上海,就需要那里有一种可以不断向我们提供精神调节功能的政治,并且其调节的方法和程度,还得是在二十世纪的调节方法中凝集进一定程度的东亚方法。这回去中国走了一遭后,我痛切地意识到,这种东亚方式业已成为我们最为迫切需要的一种政治学。我也很想在这方面作些适合于我自己的尝试,无奈面对超出两手能力范围之外的压力,我却无能为力。
①芥川龙之介(1892一1927),小说家,代表作有《罗生门》、《鼻子》等。
每次踏进中国,尽管我把这之前提到的东亚看做是一个远远超出我所能把握的范围之外的问题,但它还是压迫着我的大脑,挥之不去。这种情况我想并非只是我一个人遭遇到吧。一个人去到某地,如果意识到自己找不到合适的方法来处置所面临的处境,那肯定会感到恼火。我在中国遇到过不少在那儿有着相当长的生活经历,并且人品相当出众的人,屡屡听到他们这样叹息:中国到底怎么回事,实在弄不懂。每当遇到这种时候,我也身不由己地想依样画葫芦应和上一句,可这样的谈论,便表明了那里的政治对精神不具备调节的功能。“正因为弄不懂,我才……”,那个傍晚,我一边不断寻思着这个问题,一边湖中国海而上,前往北京。
看来,现在一扯起东亚,便会卷入一场是非之争之中。我也是作如是想中的一人。不过,推敲起来,东亚的静穆性格中所隐潜着的含蓄,说不定恰好是东亚提供给世界的一份报告。这份报告的结果,往好里说,是使人意识到,它在某种意义上为世界创造了良机,导入了有利于世界的东西。我并没有比别人更好标新立异的习惯,但又常常不免会顺从这种习惯。东亚的常识很大程度上具有生机勃勃的机能,譬如说,它就像电磁力,贯穿流通在人的沉默表情之中,是一种类似于韵律的东西。另外,把人的表情与思想、常识一视同仁地予以尊重的,将表情当做现实精神联系方面常常十分奏效的技能来加以培训,这种东亚式的神秘技能中,我以为也包含着利用皮肤的某一角去感触电磁作用的操作方式。事实上,一旦成为这种超越了物理学范围而又命数不佳的东亚世界,就跟将棋中桂马斜跳似的,成了迷点与迷点的关系,因而不得不赋予置身其间的头脑以高度的柔软性。这是怎样一种训练的赐与物呢?对日本人说来,这种柔软性就存留在传统之中,具有一种一旦遭遇危机,便能如同蝉蜕一般翻然转危为安的力量。这种力量如同一种神秘的数字,拥有它人就可以平安无事地与难境擦肩而过。
北京有消费城市一说。委实不假,在这座城市里,从来不曾从事过生产这类劳什子的人,却代复一代,历然显现出这么一副生存状态:绞尽全部的智慧,费尽心机琢磨着,人可以将消费完成到何种程度。颓废的极度积累,厚重得使人喘不过气来,不由分说地制服了步入此间的人们的反抗。被制服了的人们,则睁着一双丧失了感觉的迷迷瞪瞪的眼,嘟囔一声“那好吧”,随后倾尽其最后的力气,终于被带至最后的归宿。“就这样,不挺好!”懵懵懂懂地嗫嚅着“不挺好”的当儿,某种觉得是理所当然的东西,便像风一般从说话声中溜了进来,进来的究竟是什么则不得而知。由于大脑的麻木已具某种品格,被觉得理所当然,因而在大脑丧失了某种功能却又毫不在意的情形下,恶鬼已悄无声息地溜了进来。只要一个人不想与恶鬼抗争,那么一进到北京,他身上那些现实世界中的健康之物便会全部丧失殆尽。在这里,比起有精神质地的美来,虚诈的美更具有美的精神。一个人,如果因为疲劳和孤独,或很容易受到诸如此类情绪的侵袭,那么他也许会觉得北京是世界上最美最舒适的都会。这个就像一具被敷以色彩后置放在客厅里、使人嫣然而笑的尸体般的都会,它那女性气质的壮丽,委实是世界上独一无二的。
一想到写北京,我就提不起笔来。再稍稍写点吧。延续了好几个世代的国都,却为异族所征服,而征服者一旦崩溃,马上又会出现另一个异族前来改朝换代,在这死灭的肉体的堆积中,残存下来的唯有这等令人发狂的东西吧。想到这些,我便感到十分茫然。确实曾经存在过的优秀的东西,除了戏剧还保存着,几乎已经灭绝,以致庞大的拙劣之作成了本尊,林海环围着一座孤单单的祭坛。这里最能打动人心的,现在只剩下一些哀婉小曲的抑扬顿挫,而大众所喜欢的则是拙劣之作。以拙劣之作充当杰作并使其长久流传的北京,不断地讲述着别的国家所根本无法与之攀比的罪孽深重的故事。起始是某个朝代犯下了罪孽,而随后起来将其埋葬的另一个民族又泛滥成灾,覆盖其上。在这无休止的循环往复中,如此巨大的装饰物便不经意地完成了,这恰好可以称作是自然的杰作。它并非文化之物,而是如同山川一样的自然之物。
在这奇特的情形面前,人类安之若素地穿行在现代之上,对于这一特殊的机能,我曾在冒雪环绕半岛漫游时思索过好几回。此时,在我的脑际,与北京一起不住浮现出来的都市,便是巴黎和佛罗伦萨。佛罗伦萨具有一种圆满精致之美。这种圆满的精致,是由远在电被发明之前的那个时代所拥有的纯粹而又严密的物理学设计而成的,当然,它的美与建立在解析几何上的巴黎是截然不同的。而解析几何与人类致力于电的发明这一智力活动是属于同一形态的。佛罗伦萨由此而具备了一种只有在它身上才被完成了的庄严性质,从而使人感受到了日本的镰仓所体现着的那种美感,即朴素单纯的端庄与精神的合而为一。然而,北京又显示着怎样的能耐呢?它那似乎要告知人们唯有政治才是万能的外交手腕,总让人产生出某种被愚弄的沉重感。中华民国因嫌厌北京而决意将科学之都迁建于南京,可以说是一种明智的决策。
中华民国以南京为中心,谋求一个科学的中国的复兴,本是一种贤明之举,然而遗憾的是,此时正是科学分析在欧洲丧失了控制发展方向能力的时候。在欧洲,人们随力不胜任的分析力一起闯入自己的头脑,从中攥住科学法则,结果导致了认识论法则与科学法则难以界分的混乱。这混乱现在更是越趋加剧。一般说来,分析力无疑是以直觉作为其思想方法的根源的,因而,与其去质疑将分析力用之于作为其自身根源的直觉的做法是否可能,还不如说,对人类生活说来,它是多余的。而终至分析这一禁令的界限一经打破,意识便会旋踵而至并持续不断地运作起来,由此看来,对使之中止的奇异自然力的渴望,正是出于这一道理。早在欧洲之前,中国便已在寻索意识的休上场所方面显得出类拔萃。而在中国,北京又要比其他所有城市更适合于安眠。北京这座都市就跟尸体似的,根本无从分析,即便作出分析,那也毫无意义,无异于让它死去。北京的美便是这样一种如同死亡一般展现在我们面前的美。这与巴黎那种上了年岁的静谧是绝然不同的。
一想到巴黎,就如同悬想北京时那样,我的头脑里便自然而然地浮现起两句话来。一句是从别人那里得知的,中国的江西派禅师马祖道一,一边爬着坡一边剥着指甲时这样寻思道:“吾身既非实在,此痛自何而来?”另一句话则为法国人笛卡尔所说,他当兵时,在努依布尔克战场见到士兵倒毙在地的情景不由得感慨道:“我思故我在”。对这两位分别来自东方和西方的人物的观点,人们曾提出过各种各样的解释。在我看来,说“吾身既非实在”的东方人马祖,是在消除去自己头脑中的观念,他只是把疼痛本身当做一种实在来加以朴素的直觉,这与笛卡尔一看到死,便把“我思”这一被大脑观念所思索到的东西当做唯一实在的西方人重分析的思路是不同的。这一不同便成了现代东西方致思方式差异的体现,而这一差异则至今仍持续着。正像北京确实是在“吾身既非实在”中不知不觉修建而成的那样,它是压根儿不重分析、在不断演变更迭的现实之上就这么堆积而成的一个都会,而巴黎则如同“我思”,是在头脑里被这么建构起来的都会。然而,巴黎因“我思”之故,以致如今烦恼丛生,北京则因“吾身既非实在”从而痛苦渐多,这一结果却并非单单是语言措辞所致。这里,无非想把这两句在历史上显得很典型的话拈出来,用以说明现实与语言的性质是相对应的。同时,这件事还具有这么一种性质,那便是对巴黎是科学的、北京是自然的这样一种说法提出反证。只要科学是一种分析和研究自然的方法,那么一旦它侵入自然,便会产生科学的性质,换言之,西方对东方的侵入,也可以看做是一种科学的自然性。但令人困惑的是,其结果,作为分析材料,它把经济导管加了进来,却把吸取自然的滋养成分这件事全然忘在了脑后。既然已识破了这一吸收方法,要是东亚人对之一点方法也不讲的话,那么心里还是不明白。识破的一方也好,被识破的一方也罢,当此之时,就像静脉动脉都围绕着同一颗心脏在运作并彼此关联那样,一旦意识到这一点,同时也便是意识到了这一共有的心脏是缘何而发生变质之时。这便是二十世纪的混乱。这种混乱恰似不让动脉变成静脉,或不让静脉变成动脉,在这种情形下,“我思”因思虑过度而最终导致的虚无状态,在表现出与“吾身既非实在”同样无力的同时,却又摆出了对尖锐难忍的痛苦现实安之若命的姿态。这样,西方或许正在向北京渐渐靠拢。
近来越来越多地听到去北京游玩的文化人谈起,他们觉得北京正在变得跟巴黎一样。从前则不大听见有人这么说。据说有位法国人讲,北京比巴黎更胜一筹。我在巴黎漫不经心地走在街头时,常会意识到自己正在动用着某种适合于我的分析能力。据说巴黎起初是由类似于构筑珊瑚礁的微生物般的细小虫于构筑起来的,无怪乎它像是一座由石灰岩所构成的城市。尽管这样尽可能漫不经心地游逛,但一旦寻思起它何以会成为一座唤起我分析能力的城市,便马上会意识到,那是因为巴黎城的形状本身具有一个坐标原点,这个原点很明显地成了精神的中心。在街上行走或拐弯时,不断出现的便是交叉成X线状的坐标原点。坐标原点本是无,除了点,在几何学上便是具有线的性质的有。我对数学是外行,可在巴黎存在着把外行的无之头脑自然而然地当做有之线条这样一种明快率直的东西,这便是精神。即使我们是无意识地行走在这座城市里,头脑却不知不觉地走进了笛卡尔的头脑,这里边有着某种十分聪明的东西,那是无须任何人解释就能使人明白的东西:解析几何就是从坐标原点产生的线条,还有,这原点的抽象物便是称作代数的图式。也就是说,没有比巴黎更能让人意识到“我思故我在”这一精神上的坐标原点的地方了。
可是,去北京,街区的原点在哪里最初是不知道的。可以说,在北京所见到的,尽是些丧失了自我的东西。一走进这座城市,我们便会产生出一种仿佛回到了出生之前的故乡的感觉。在这里,人们对什么都不会很介意。若要说分析力的驱遣运作,那只有修筑城墙这一桩。仅仅修造一道城墙,从远古起,便已经耗费了几亿万人的无价劳作。连梦中也想象不到的一轮巨大的明月正升起在城墙之上,像北京这样大得令人惊诧的月亮,我在别的地方还从来没有见到过。以前,听说有不少西洋女子因为见了北京的秋月而发了疯的,确实如此,这月亮已大得无法再称其为月亮了。若一直这样又红又大地显现在虚空之中,那人的精神便会从现实逃逸而去。中国那些卓越之士的分析能力都集中在天文上,这一方面是思想逃离自我,为天空所吸引的结果,或者很可能中国人的精神原点就潜藏在这月亮之中。如果真是那样,那么天子向上苍祈求五谷丰穰,这一修筑天坛的构思也便不难理解了。开阔的宫殿广场,宽大的屋顶,都可以看做是对支撑日月星辰的大地之力的依恃。
人是栖居在大地上的,因而人的文化构想力中,一定得有某种支撑生命力的原点。日本的原点大致建立在太阳光线之中。不过,许多数不胜数的东西如今正在进入日本,一方面是放它们进来入居,一方面又不失去日本人的本来习性,可以将此视作一个小小的世界。这里边既有创造了分析能力之中心的法国的原点,那种呈X形的交错点,也有源于古希腊欧几里德的德国式的综合能力,还有发源于中国和印度、如今已寿终正寝的认识论。但自从在大地上的某一角落发现了电之后,即使凡庸如吾辈者也都能意识到,过去的一切都不过是一堆褪了色的物理学形骸而已。那么到底是什么东西在这里边起著作用呢?电灯灿烂辉煌,去巴黎也好,去佛罗伦萨也好,也就不过如此,这都已是在日本见过了的。因为总是让这一心理纠缠着,以致羽左卫门在他的巴黎纪行里突然想说,拿破仑与耶稣也就一回事吧?威尼斯、拜占庭,这些由大理石直接筑成的城市,兀然耸立在海中,即便观赏如此壮丽和举世无双的城市,由于有了电灯,羽左卫门也一点都感觉不出有什么可惊奇的。一到夜晚,在巴黎埃菲尔铁塔一侧,每当雪铁龙汽车广告的霓虹灯一次次闪亮,便会让人一次次意识到,巴黎和笛卡尔那昔日的尊严,如今正从人们头脑中消逝而去、和大伙一样,我的脑盘也已进到了这样一个现代社会,对我而言,面对突然出现的现代社会,与其把它撵走,更要紧的是将它纳入思考之中,设想出一种对策。二十世纪的混乱,对东亚人说来,实际上很可能并不是混乱。
我们的头脑确实已属于二十世纪,而被称作混乱的那种混乱状态也确实存在着。然而,要将世界看成是混乱的,就势必得在某处存在着一种这样看的原点。因此,成为我们东亚人内心原点的,也即是可以称作为西方原点、即“我思故我在”式的内在批评图式。其好坏姑且不论,如果当做文学来看的话,那么如同道元所言:“飞动着的鸟才像鸟”,以及如同马祖所言:“吾身既非实在,此痛自何而来”,就像电流一样,在可以称作某种时间单位的、呈时空一如流动状态的零点之上,则可看到,作为一种涵养万物的自由奔放的原点,东亚人已经把它设定好了。我突然意识到,只要整个东亚所共通的逻辑也置于这种自由之上,便能使西方的原点也得以复活,然后保持着各自的独特性,并使生活的设计成为一种可能。我对电学一无所知,但是,揣想东亚人的这样一种心态,即,不是把文学的根据置于人的直接接触之中,而是置于经由意志沟通的人的眼光之中,便会由此强烈意识到,东亚的天才是一些如同电磁场核的人物。我每次去镰仓,便会感觉到,这里坐成一排的,是早在古昔便已意识到了电的禅宗僧侣。
北京と巴里(覚書)
横光利一
芥川龍之介氏は上海へ行くと政治のことばかりに頭が廻って困ると私にこぼしたことがある。そのころの政治という言葉の意味は今の思想という言葉に当るが、言葉も十年の間にかなりな意味の変化をしているものだと思う。このごろは精神の政治学という斬新な言葉もフランスから出て来たが、思想という言葉の含んでいる行為の部分を強めて言えば、思想は精神の政治学と言っても良い。芥川氏は私の見たところでは当時の誰よりも、自分の精神に政治学を与えていた人のようであったが、もし今も氏が生きていたなら、必ず氏の好んだ北京よりも嫌った上海の方に興味を感じたにちがいあるまい。上海を歩いていれば、ここでは絶えず自分の精神に調節をほどこす政治が必要である。またその調節の方法や度合も二十世紀の調節の仕方に、ある程度の東洋の工夫をこらさねばならぬ。この東洋の工夫がわれわれに最も必要緊急な政治学となって来たことは、支那をこの度廻って来て私の痛切に感じたことであった。私も私なりにこの工夫をしてみたいと思ったが、両手からはみ出して来る圧力には何とも致し方がなかった。
私は支那に足を踏み込む度に、前から東洋ということを、あまりに大きな手にあまった問題だと思っても、それが頭にのしかかって来て取り去ることが出来なかった。これは単に私のみではなかろうと思う。人は見て来たところは何らかの方法で自分で処置をつけておかないといつか必ずまた自分の中で膨れ出す。私は支那で会った人々で長くこの地にいる優れた人物ほど、どうも支那というところは分らないと嘆息するのを一度ならず聞いたことがある。その都度思わず私もそのまま真似したくなったが、これをそのように言っては心に政治もほどこせない。どこか分らぬもののあればこそと思いつつ私はこの暮に北京の方へ支那海をのぼっていった。
見たところいま東洋はあげて騒擾に入ったと見える。私もまたそのように思った一人であるが、しかし、考えようによってはこれは東洋の静々とした性格の内容が、どのような含蓄を中に潜めていたかという報告を世界に向ってしているようなものかもしれない。この報告の結果の良い部分は、何らかの意味で世界に有利なものを導き入れる好機を造りつつあるような気持ちもされる。私は人より異説を立てることを好まないが、いつもそれに従うこともまた常識として赦されない。東洋の常識は多くは生き生きとした生理であるということを考えると、それは譬えて云えば電磁力のように、沈黙の表情の中を貫き走る格律のごときものにも見える。また私は人の表情というものをも思想や常識と等しく尊重し、これを世の中の精神の関聯に常に役立てる術として育てて来た東洋の神秘の中には、電磁の作用を皮膚の一角で感じとっていた操作も含まれているように思われる。実にこのような物理学の範囲を越えた東洋の数奇な世界となると、桂馬の斜めの飛び足のような迷点の連係となるから、その中に入るには頭に極度の柔軟性を与えねばならない。どのような訓練の賜物か日本人にはこの柔軟性が伝統の中に残っていて、さて危機だと見ると蝉脱するがごとく翻然と転質する気力がある。この気力こそ難境を擦りぬける数字のごときものであろう。
北京は消費の街だという。なるほどこの街では生産というものをかつてしたことのない人物が、代々かかってどれほど人間が消費を出来るものかと、あらゆる智慧を絞って工夫に工夫をこらせた有様が歴然と現れている。頽廃の極が積み重なり一種の胸苦しい厚みを泛べ、その間を歩く人間の抵抗力を文句なく撥ね返す。撥ね返された人間は、一種知覚の無くなったぼんやりした眼を開け、「いいなア。」と言う。それからがこの人間に最後の力を奮わせつつ、いよいよ最後の場所へと連れてゆく。
「これだよ。ね、いいだろう。」
とまた呟く。何か分らぬままにもいいだろうと囁かれると、声から風のように何とも知れず良さそうなものが這入って来る。それが何かと探したとて分るものではない。頭の痺れがすでに風格をもって良いのであるから、何ものか頭の中から失われたものが良くなるという風な具合で、悪霊がもう忍び込んでいる。北京へ行くものは悪徳と戦うつもりで行かない限り、身につけた現世の健康なものはすべて無くなってしまうかもしれぬ。ここには精神のある美よりも詐術の美を美とする精神がある。もし疲労と孤独のために難なくこれに襲われたら、恐らく北京ほど美しく見える都会はないだろう。死体に色づけ客間に置き放したまま嫣然と笑わせたようなこの都会の女性的な壮麗さは、たしかにどこの国にも類例はあるまい。
私は北京のことを書こうと思って筆をとっているのではないが、もう少し書こう。数世代も続いた都を他民族に征服され、またそれが崩れると次の民族が交代するという肉体の死滅して来た累積層の中には、残るものはこのように頓狂なものばかりかと思って私は茫然とした。かつて有ったに相違ない良いものは、殆ど演劇だけを残して死んでしまっていて、尨大な駄作ばかりが本尊となりすまし、樹の海がひとり祭壇をめぐっている。ここで一番人心に感動を与えているものは、今は小唄のような哀れな歌調をもった節廻しだけである。しかし、大衆というものは駄作ほど喜ぶ。駄作が傑作となって永久に残るというこの地の特種な機構は、何かこの北京に限り他国とは比較にならぬ犯罪の深さを物語ってやまぬものがある。しかも、その犯罪が露出し始める年代となるや、さらにそれを埋め尽す次の民族の大氾濫となってその上を蔽ってしまう。この繰り返しを行っているうちに、かくのごとき巨大な装飾物が偶然に出来上ってしまったのであろう。まさにそれは自然の傑作とも云うべきものであろうか。これは文化というべき物ではなく、山川のごとき自然物なのである。
私は人間のこの暗怪そのもののような形状に対してより感動しない、現代というものの上を通過しつつある特別な生理について、雪の降る半島を廻りながら幾度も考えた。このとき私の頭の中に、北京と並んでしきりに泛んで来た都会は、パリとフロウレンスであった。フロウレンスにはまだ電気の発見のない時代の純粋物理学の厳密さをもって設計された円満な精緻さがあった。勿論、この美しさは、人智が、電気の発明をしかかる能力を内に秘め包んでいるがごときが形態をもった解析幾何のパリとは違っているが、それはそれのみとして完成された一つの厳粛さであった。それは日本では鎌倉の素朴単純な端正さと精神を一つにしたがごとき美しさに感じられたが、しかし、この北京は何という能力を示しているのであろうか。どことなく人間を愚弄しているがごときこの鈍重さは、政治が人間の万能であることのみを人に教える外交となるのかもしれぬ。新支那がここを嫌って南京に科学の都を造ろうとしたことは賢明な策だったというべきであろう。
新支那が南京を中心として科学の支那の再興を計ろうとしたことは賢明であったが、しかし、惜しくもそのときには早や科学という分析力の方向が、欧洲ではその向くべき意志の力の統制を失っていたときであった。欧洲では力あまった分析力に随って自身の頭の中にまで踏み込みつつ、ここからも科学的法則を掴もうとした結果、認識論的法則と科学的法則との識別作用の混乱が、ますます増大して来た悪時期にさしかかっていたのである。いったい、分析力というものは直感をもって発想方法の根源とすることに間違いのない以上、その根源である直感にまで分析力を働かすということは、可能か不可能かということよりも、人間生活にとって不必要なことである。しかも、その不必要な作用に停止を命じる限界の突破はすでに演じられ、熄みまもなく意識の進行がつづけられたのであってみれば、何かこれに一時停止を命じる暗怪な自然力を渇望するのは道理であろう。この意識の休止所を模索する手先にひっかかって来た場所として、ヨーロッパ人の前に濃厚に現れて来たのは支那である。支那の中でも北京は他のいかなる都市よりも安眠に適している。この都会は死体と同様分析不可能な場所であり、たとえ分析したところでそれは死をするに等しい無意味である。北京の美しさの意義はこうしてわれわれの前に死のごとく現れたのだ。それは全くパリの老齢の静けさとは違っている。
私はパリを思い泛べ、北京を思うごとに二つの言葉がまた自然に私の頭の中に浮んで来る。一つは人から聞いた話であるが、支那の江西派の禅師馬祖道一が坂を歩いていて生爪を剥がしたとき「われ在るに非らざれどこの痛み何処より来る。」と言ったのと、他の一つはフランス人であるデカルトが、兵隊となりノイブルグの戦場で兵士の斃れたのを見たときに、「われ想う故にわれ在り」と感じた言葉である。この東洋人と西洋人の観じ方の解釈は人さまざまであろうが、私には、「われ在るにあらざれど」と、自分の脳中の観念を殺し、痛みそのもののみを現実として素直に感じた東洋人の馬祖と、死を見て、「われ想う」と脳中の観念に思わせることのみを現実とする西洋人のデカルトの分析力との相違が、現代という東西の力の現れとなって、今もなお進行しつつあるように思われる。北京はたしかに、「われあるに非ざれど」いつの間にか建ってしまったごとき、分析力の少しもない、移り行く現実のままに積み上った都会である。パリは「われ想う」が如く脳中のままに建てられた都会であるが、しかし、パリは「われ想うが故に」今は悩み多く、北京はわれ在るに非ざれど痛みの多くなっているのは、ただ単に言葉の綾のみではない。現実は言葉の質に応じるものだという歴史の二典型を、ここに持ち出して来たまでにすぎない。また同時にこのことは、パリは科学であり、北京は自然だということの反証ともなり変る性質をも持っている。科学というものは自然を分析研究する方法である限りは、自然の中に喰い入ってこそ科学の性質を生かすことが出来る。これを言い換えると、西洋が東洋の中に喰い入ることは、科学の自然性とも言うべきであるが、困ったことにはその結果分析料として経済の樋をもこの中にかけ渡し、自然の滋養分を吸収してゆく仕掛けを忘れなかったことである。この吸収方法を見破った以上は、東洋人もこれに対し何らかの方法を講じなければ、心理が承知しなくなって来た。しかし、見破られた方も見破った方も、そのときには、静脈と動脈とが一つの心臓を中心にして聯係していることと同じ状態であることに気附くと同時に、その共同の心臓が何ごとかのために変質しつつあることにも気附き始めたときであった。これが二十世紀の混乱である。この混乱はあたかも動脈が静脈になり、静脈が動脈になり変らんとするがごとき状態で、「われ想う」が思い過ぎた結果の無の有様となり、「われ在るに非らざれど」と等しい無力を示しながら、痛みのみ激しい現実そのままの相貌を態するようになって来たのであろう。それなら西洋も次第に北京に近づいて来たのかもしれぬ。
北京に遊ぶ知識人はよく前から、ここは全くパリに似ているというのを私は聞いた。あるフランス人は北京はパリ以上だとも言ったという。私はパリにいるとき、ただぼんやりと街区を歩いているときでも、分相応の分析力をつねに働かせている自分を感じた。珊瑚礁を造った微生物と同じ微細な虫が、最初にパリを造ったと言われているだけに、このパリの街は石灰岩の塊から成り立ったような街である。しかし、このようにぼんやりと放心することに努めていても、どうしてこちらの分析力を呼び起す街なのであろうかと考えると、街の形状そのものが明瞭に精神の中心となる原点を持っているからだと気が附いた。通りを歩くとき曲るとき、また建築物を仰ぎ樹を眺めるそのときどき、絶えず現れて来るものはX線の打ち合った原点なのである。原点は本来が無であるけれども、点である以上幾何学に於ては線を持つ有である。私は数学のことは素人だが、素人の無の頭をそのまま自然に有の線としてゆく明快率直なものが、この街にはあるのである。つまりそれが精神というものだ。われわれが識らずに街を歩いていても、頭はデカルトの頭の中をいつのまにか歩いていて、解析幾何が原点から起る線だということや、またこの原点の抽象物が代数という図式だということをも、誰から説明を受けずとも自ら人に分らせていく聡明なものがここにある。すなわち、我想うが故にわれ在りという精神上の原点を、ここほど感じさすところはない。
しかし、北京へ来ると、街区の原点は初めはどこにあるのか分らない。ここでは見るもの尽く自分を無くしてしまうものばかりと言っても良く、この街に這入るがいなや、われわれは生れる前の故郷へ帰った気がする。そこでは何がごろごろしていようと意に介しない。もし分析力を強いて動かそうと努めれば、これだけの街を造るには昔から幾億万人の人間が、無価働きをさせられたことだろうと思う壁ばかりである。そこへ夢にも思うことの出来ない大きな月が上って来る。私はここの月ほど驚くべき大きな月を見たことはない。前から西洋の婦人は北京の秋の月を見ると狂人になるものが多いと聞いていたが、なるほどここの月の大きさは月というべきものではない。虚空に現れるものが絶えずこのように大きくて赤ければ、人間の精神は現実から放れてしまう。支那の優れた人間の分析力が天文に集ったことも、一つは思いが我を放れて空へと集った結果であろう。或いは支那人の精神の原点はこの月に潜んでいるのかもしれぬ。それなら五穀豊穣を天子が空に祈った天壇の構想力も分って来る。宮殿の広場も屋根の甍の圧力も、月や星を支える地上の力と頼んだ現れと見ても良い。
人間が地上に棲んでいるからは、文化の構想力の中の必ずどこかに生命力を支える原点がなければならぬ。日本では見る物ことごとくを原点としているかのごとき太陽の光線にあるのではなかろうか。しかし、今は日本に数え切れぬほど種々さまざまなものが這入っている。それをそのまま入れしめてそれぞれの本質を失わしめぬ日本人の自然さは、これを小なる世界と見ても良い。この中には分析力の中心を造ったフランスの原点であるX線の交錯点もあり、ギリシャのユウクリットから流れを引いたと云われるドイツ流の綜合力もあり、支那や印度に源を発する死の認識論もある。しかし、電気が一度び地上の一角に発見されてからは、われわれのごとき凡人にも過去の一切が色褪せた物理学の形骸にすぎぬと見えて来たのは、どういう作用によるものであろう。電気の輝くところ、パリへ行ってもフロウレンスへ行っても、ああこれなら日本で見たと思う心理ばかりが五月蠅うるさくつきまとって、羽左衛門のパリ見物そのままにナポレオンも耶蘇かと突然言いたくなるのである。氏は大理石の石そのままを街としたがごときベニスが、ビザンチンの姿を泛べて海中に突き立っている壮麗な、世界に恐らく類のない街区を見ても、電気のために何の不思議とも感じることが出来なかった。パリのエッフェル塔の横腹で、夜になるとシトロエンの自動車の広告塔の電気が輝く度に、もうパリもデカルトも人の頭の中では、むかしの尊厳さを失っていると思ったことが度々であった。私の頭にも人々と同じくすでにそれほどの近代が来ているのである。私にも近代が襲っているなら払おうとするよりこれを取り込み、一応は考慮の中に入れ包んで策戦を考えねばならぬ。しかしこの二十世紀の混乱というのも、実は東洋人にとっては混乱ではないのかもしれぬ。
われわれの頭の中はたしかに二十世紀である。そして、混乱と言われるごとき混乱の状態もたしかにある。しかし、物を混乱と見るためにはどこかにそのように見た原点がなければならぬ。ところで、われわれ東洋人の心の原点となって来たものは、西洋の原点とも言うべき、「われ想う故にわれ在る」心のような批評的な図式があったのだろうか。これの善悪はともかくとして、文学の問題として見れば、道元の「鳥飛んで鳥に似たり。」というがごとき、また馬祖の、「われ在るにあらざれど、この痛みいずこより来る。」というがごときは、電流のように時間の単位ともいうべき時空一如の流れる零点の上に、すべて在る物をあらしめようとした自由奔放な原点として、東洋人はすでにこれを設定していたように見える。東亜の共同の論理というのも、この自由さの上に置かれてこそ、西洋の原点をさえ生かし得られ、それぞれの独自性をも保たしめつつ、生活の設計を可能にせられるような気もふと感じる。私は電気学については知らないが、人間が触りもせずして意志の通じる眼の光りに、文学の根拠を置いて来た東洋人の心理を想像すると、初めから東洋の天才は、この電気の電磁核と同様なものを感覚していた人物のごとくに思われてならぬ。私は鎌倉へ行く度に、ここには昔すでに電気を感じていた禅宗の僧侶が居並んでいたように感じられるが、しかし二十世紀の日本は鎌倉よりも東京の郊外に最もよく現れていると思う。
二十世紀の混乱は西洋の混乱であるが、それが東洋にも質を違えて這入って来たのは事実である。これを言い換えると、われわれはそれならどのように自分の頭を変え、また整えるべきかという問題になって来る。十九世紀と二十世紀との違いは現実上には明らかに見えているごとく、われわれの頭の中にも見えて来た。これを短縮して十九世紀を昨日とし、今日を二十世紀に譬えるなら、昨日の視点はたしかに今日の視点ではない。しかし、自分の頭の中が変らなければ昨日も今日も視点は同じというべきである。ところが、混乱の理由は、頭を変えるべき必要のあるものと、その要のないものとの混同が、今日の混乱の有様をも形造っていることを見逃がすことは出来ない。多くの東洋の知識人が知識というものは変らぬものだと確信を抱いてから、日本では三十年ほどの歳月がたっているが、われわれもそれらの人々から教えを受け、知識は変らぬものだと信じさせられた。また私は今もそのように思うことに変りはなくとも、しかし、知識というものは変らぬものだと説く人間に親和することは、知識を変える必要のあるものにまで、そのものの知識を固定せしめる観念の不実さをも多分に造る。つまり、この不実さが美しく見えるという感傷に応じて、現代の幸福までをさえ不幸にしようとする一群の知性への信仰は、東洋に侵入して来た二十世紀の混乱の姿だと思う。しかも、この信仰を明らかに美挙だと思いつつ、なおこれを撃ち砕かねばならぬと観念する精神の作用もある。この一層の美挙の上にまだ何の美挙があるかと探索する行為が、自ら生じ始めているのが近ごろの文学の認識の線ではなかろうか。
(附記――北京と巴里とへはもう一度行きたく思っているので、これらの地に関する私の感想はただ第一印象にすぎない。恐らくこの二つの場所は行く度に変るところと思う。)