梅花的气品 豊島与志雄
(2015-03-18 18:09:58)
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梅花丰岛与志雄日本散文 |
分类: 日本随笔 |
梅花の気品
豊島与志雄
梅花の感じは、気品の感じである。
気品は一の芳香である。眼にも見えず、耳にも聞えない、或る風格から発する香である。甘くも酸くも辛くもなく、それらのあらゆる刺戟を超越した、得も云えぬ香である。人をして思わず鼻孔をふくらませる、無味無臭の香である。それと明かに捉え得ないが、それと明かに感じ識らるる、一種独特の香である。何処からともなく、何故にともなく、何処へともなく、自からに発散して漂っている、浮遊の香である。
それはまた、梅花の香である、薄すらと霧こめた未明の微光に、或は淋しい冬日の明るみに、或は佗びしい夕の靄に、或は冷々とした夜気に、仄かに織り込まれて、捉え難く触れ難く、ただ脈々と漂ってる、一種独特の梅花の香は、俗塵を絶した気品の香である。その香を感じてその花を求むるは、俗であり愚である。花の在処を求めずに、漂い来る芳香に心を澄す時、人は気品の本体を識るであろう。
気品はまた、一の凛乎たる気魄である。衆に媚びず、孤独を恐れず、自己の力によって自ら立ち、驕らず卑下せず、霜雪の寒にも自若として、己自身に微笑みかくる、揺ぎなき気魄である。肥大ならず、矮小ならず、膨張せず、萎縮せず、賑かからず、淋しからず、ただあるがままに満ち足って、空疎を知らず、漲溢を知らず、恐るることなく、蔑むことなき、清爽たる気魄である。
それはまた、梅花の気魄である。霜雪の寒さを凌ぎ、自らの力で花を開き、春に魁けして微笑み、而も驕ることなく、卑下することなく、爛漫たる賑かさもなく、荒凉たる淋しさもなく、ただ静に己の分を守って、寒空に芳香を漂わしてる姿は、まさに気品そのものの気魄である。しみじみと梅花に見入る時、恐怖や蔑視や悲哀や歓喜など、凡て心を乱すが如き情は静まって、ただ気高き気品の気魄に、人は自ら打たるるであろう。
気品はそれ自身の性質からして、清浄なる白色たるべきである。赤や青や黄など、何等かの色に染められた気品は、世に存しない。固より、赤や青や黄や紫など、そういう色彩が持ち得る気品はあるけれども、気品そのものの色はどこまでも白色である。然し単に白色のみでは足りない。純白の気分を破らない程度に於て、何等かの点彩を要する。鮮かなる一点の色彩を包んだ純白、それが気品の色である。
この気品の色はまた、梅花の色に見らるる。黎明や薄暮の微光の中に浮出す、ほの赤きまでの白色、白昼の外光や深夜の闇の中に浮出す、ほの蒼きまでの白色、または月光に輝らし出さるる、薄紫にまがうまでの白色、その白色の花弁の中に、花粉の黄を小さく点出した色彩は、気品そのものの色彩である。それに眸を凝らす時、人は自ら心すがすがしくなって、気品の妙趣を悟るであろう。
気品には一の渋味があり、而も同時に一つの新鮮味がある。気品は旧守でもなく、また新奇でもない。純粋の気品は、骨董と新考案とを包含し、両者を調和したものである。老と若と旧と新とをよせ集めて、而もその何れでもなく、老と旧との渋味を取り、若と新との新鮮味を取り来った、一種恒久的なものである。古さから来る拮屈傲峨と、新しさから来る自由暢達と、両者を具有してしっくりと落付いたものである。
この落付きはまた、梅花の樹に見らるる。鋭角度をなしてぐいぐいと曲った古木から、すいすいと若芽を伸し、若きを育つる力を内に蔵した老幹と、老を生かす力で伸び上る若枝とが、しっくりと一つの気分にまとまって、苔生した古い樹皮と、艶々しい新たな樹皮とが、一様に花を出し開かせているのは、まさに気品そのものの姿である。老いたる枝と若き枝とを択ばずに、一様に咲き匂ってる梅花を眺むる時、軽佻と鈍重とを超越した気品の沈静に、人は自ら味到するであろう。
気品はこの世に稀である。それは地上のものというよりも、寧ろ多く天上のものであり。この地上に在っては、その本来の面目を汚されるというのではないが、そこに在るにはあまりに清らかすぎる。然しながら、それを地上に引下して、己が所有とした所に、人の魂の朗かさがある。地上から天上へと人の魂がかけ渡した、多くの橋梁のうちの一つが、其処にあるとも云い得らるる。それ故に、気品は一の抽象であって、一の具象ではない。随って気品は、如何なる人にも親しまれ易い。
梅花の感じは気品の感じである。けれども梅花は、一の抽象ではなくて具象である。それ故に人に親しまれ難い。余りに芳ばしい香を漂わせ、余りに凛乎たる気魄を示し、余りに清らかな色彩に成り、余りに妙味ある樹に咲くが故に、人間離れのした感じを以て人を郤けがちである。然しながら、梅花に眸を定めその香に心を澄すことは、必ずしも詩人にとってばかりではなく、普通の吾々にとってもよい。なぜならばそれは、地上の息吹きに天上の息吹きを交えることだからである。新たな心を以て梅花に接し、新たな心を以て梅花に親しむことは、梅花に人間味が少いが故に益々、梅花が天上的であるが故に益々、人間にとってよいのである。
この意味に於て、真に梅花を観るには、雑沓の巷や、広い梅林や、人工的な盆栽や、または月明の夜、などよりも寧ろ、自由な清々とした境地に於てがよい。必ずしも美景を要しないが、ただ自然の風趣の害せられていない、のびやかな環境の中に、一本の老木が、自然のままの枝振に、ぽつりぽつりと花をつけ、仄かな香を漂わしてるのを、少し冷かな二月の夜明け、薄霧の晴れやらぬ頃、爽かな空気を吸い、小さな霜柱を踏みしだいて、ふと気付いたまま、何気なく足を止めて、しみじみと見入り嗅ぎ入る心持、それこそ真に梅花を観るの境地である。その一本の老樹のたたずまいと、その清らかな花の姿と、その脈々たる香と、その清冷な早朝の空気とは、ただ一つ梅花の気品となって、人の心にしみ通るであろう。それをも卑俗と云うものは、卑俗のみを知って高潔を知らぬ徒輩である。
对梅花的感觉,即对品格的感觉。
梅花的品格之一是芬香,虽然眼不见耳不闻,其香气发自某种风格。甜甜的酸酸的,却不辛辣,是超越所有刺激的妙不可言的芬香,是意想不到之扑鼻之香,是无臭无味之香。虽然不能明确扑捉到,却可以明显感觉到,它是一种独特的芳香。它无所不在;来之毫无缘故;它无处可寻,是自己发散、飘荡浮游的芳香。
这就是梅花之香,在薄雾笼罩、天色渐明的微光中,在孤寂冬日的亮光中,在冷清黄昏的雾霭中,在冷飕飕的夜雾中,隐约穿行,难以捕捉,难以触摸,只是连绵不断地漂浮着,它是一种独特的梅花之香,又是一种绝尘的品格之香。为了感受这种芳香而去寻找这种花,既俗套又愚蠢。花的所在无可寻觅,当飘荡而来的芬香浸入心扉时,人们不就认识了品格的本质了吗?
梅花的品格之一是凛冽的气魄。它不媚大众,不畏孤独,凭自身之力独自伫立,不骄不卑,傲雪凌霜,俨然自若,却隐藏起自己的微笑,有着不可动摇的气魄。它既不肥大,也不矮小;既不膨胀,也不萎缩:既不繁华,也不冷清;只是满足于自己的存在;它不知空寂,不知涨溢,无所畏惧,也不蔑视,只有一种清爽的气魄。
这就是梅花的气魄。它不畏霜雪,凭一己之力开花,春来率先含笑,却不骄不躁,亦无卑贱之感,花开烂漫时不喧哗,花谢荒凉时不寂寞,只是静静地安守本分,将那芳香飘洒到寒冷空气中的样子,正是梅花品格的气魄。每当感慨地望着梅花时,什么恐怖、蔑视、悲哀以及欢喜等搅乱凡心的情绪都平静下来,只有品格高尚的气魄,才能自然而然地打动人心吧?
说到品格自身的性质,应该是清净的白色。而红、蓝、黄等色,被任何色彩浸染过的品格,在世上不存在。比起固定的红、黄、蓝、紫等色彩,那样的色彩虽然有耐久的品格,但其品格的色彩中毕竟有白色。不过单纯的白色看来有所不足,由于不破坏纯白气氛的程度,需要任何的一点彩。隐没在鲜艳一点色彩中的纯白,这就是品格的色彩。
从这种品格的色彩,可以看出梅花的本色。在黎明和黄昏的微光之中浮现出来的微红的白色;在白天的光亮和深夜的黑暗中浮现出来的微蓝的白色,从月光的辉映中发出的宛如淡紫色的白色;在那白色的花瓣中,从花粉的黄色小点发出的色彩,这就是品格的色彩。当对其注目凝视时,人们的心情会自然而然变得爽快,也许是领悟到了品格的妙趣吧。
品格之一为涩味,而且同时又有一种新鲜感。其品格既不守旧,也不新奇。纯粹的品格,包含了对古董的新的规划,是两者调和的结果。既汇集了幼老新旧、然而又不是任何一个;既吸取了老旧的涩味,又吸取了新幼的新鲜感,是一种恒久的东西。由守旧而来的拮屈傲峨,从时髦而来的自由畅达,具有两者相互融洽的安定感。
这种安定感,在梅花树上可以见到。枝条弯曲遒劲的老梅树,轻快地冒出了嫩芽,内藏着抚育新芽的生命力的老树干也好,用养活老树的力量向上伸展的新树枝也好,以融洽一致的心情,与长着鲜苔的老树皮一起,与有光泽的新树皮一起,一样开出花来,这正是其品格的姿态。当我们眺望着不经选择的新老树干,一样开出芬香的梅花时,那超越了轻佻和庄重的品格的沉静感,人们也许自然而然地品味到了吧?
品格乃稀世珍宝。比起地上的东西,毋宁说多为天上的东西。它在地上的存在,因未玷污其本来的面目,从而过于纯洁。然而将其引到地上,自己在所有的地方都使人精神愉快。从地上到天上,为人的精神架设的众多桥梁之中的一座,据说就在于此。由于这个缘故,品格之一是抽象的,品格之一也是无具象的。因此,无论什么样的人都能与之亲近。
对梅花的印象,即对品格的印象。虽然梅花给人的印象之一并不是抽象的而是有具象的,因此难以使人与之亲近。由于过于芬香飘逸,过于显示其凛冽的气魄,过于纯洁的色彩,其树上开的梅花又有着过多的妙趣,给人以脱离人间而居于坑洼之地的感觉。然而,定眸梅花,花香使人清净,这样的事不一定发生在诗人身上,对我们普通人来说也是一样的。以迎新之心迎接梅花,以迎新之心亲近梅花,梅花缺少人味儿也好,梅花是天上之物也好,对人类来说总是多多益善。
从这个意义上来说,真正的赏梅,与其在杂乱的小巷,广阔的梅林,人工的盆栽,明月的夜晚,不如在自由而清爽的心境为好。不一定要有美景,不过自然的风趣没有害处,在悠然自得的环境中,一棵老树自然地展开枝叶,断断续续地开出花来,飘逸着少许清香,在稍觉寒冷的二月的黎明,薄雾尚未散去的时候,吸入清爽的空气,用力踏着小小的霜粒,突然振作起来,无意中停止了脚步,仔细地看看嗅嗅,那种心情才是真正的观赏梅花的心境啊。那一棵老树的样子,与那纯洁的花的样子,那袅袅的清香,那早上清冷的空气,仅仅变成了一朵梅花的品格,也许渗透人心了吧。如果说这是鄙俗的话,那么只知鄙俗而不懂高洁的人辈出不穷。
(译于2010年6月)