日语诵读文选 日本人的季节感
(2012-02-01 17:12:15)
标签:
季节感清少纳言万叶集情感 |
分类: 日语诵读文选及高级日语 |
第7篇 日本人の季節感
【作者介绍】
石森延男(1897-1987),国语教育家,儿童文学家,出生在日本北海道。主要著作有「コタンの口笛」、「バンのみやけ話」、「梨の花」、「作文二十話」等。
【通读选篇】
少年のころ、わたしの住んでいた家には、から松の生け垣がありました。から松は四メートルばかりの高さで、二十メートルも横隊になって茂っていました。
雪がやっと消えて、春が訪れると、いろいろな木がしっぺんに芽を吹き出します。生け垣のから松も、小さな丸い芽を出します。そのそばに近づいていくと、ぷうんと芽の香がするのです。思わず、から松の芽をつまんでかいでみるときついにおいが発散して、鼻の穴の奥をくすぐります。わたしは、春を確かめるような気持ちで、幾つも芽を摘み取ったり、手のひらにこすり付けたりしました。そして、木の芽のにおいをかいで季節を感じるなんて、わたし一人だろうと思っていました。
ところが、ある日、わたしが父と野原一を散歩したときのことです。野原には、芝草やあかざやえのころぐさ?ひめじょおんなど?さまざまな雑草が生えていました。
「これ、なんだか知っているか。」
父は、一本の野草を取って、わたしの目の前に突き出しました。
「知っているとも。」
「なんだ。」
「よもぎだよ。」
父は、ちょっと笑ってうなずき、それからこんな話をしてくれたのです。
「草のにおいをかいで、その季節を楽しむのは、昔も今も変わらんな。」
「昔って、いつごろ。」
「大昔からさ。千年も前に清少納言が書いた『枕草子』という本にも出ている。」
「どんなことが。」
「牛車に乗って山里を行く途中、車の輸にふみつぷされたよもぎのにおいがただよってきたというんだよ。」
この話を聞いて、わたしは、清少納言という人が、千年もの歳月を飛び越えて、いっぺんに身近にやってきたように感じました。
それから数年たって、十四、五のころ、父について「枕草子」やまんようしゆう「万葉集」を読むようになりました。そうして、これらの中にほ、季節感が至る所にもりこまれているのに驚きました。父は、もし日本人の心に、季節感というものが流れていなかったら、日本の文学は味わいのとぼしいものになったろう、特に、短歌や俳句などは生まれてこなかったかもしれない、と言いました。
そんなことで、わたしはいつの間にか国文学に取りつかれ、日本の古典といわれるものに触れるようになりました。そうして、触れれば触れるほど、日本人の季節に対する感じ方のこまやかさや鋭さなどに心を引かれるようになったのです。
最近は、ビニルハウスがたくさん作られて、花でも野莱でも果物でも、年がら年じゅう栽培され、収穫されて、いつでも目に触れるようになりました。わたしたちの少年時代は、菊といえば秋の花であり、トマトといえば夏のものと思っていたものですが、栽培法が進むとともに、花や野茶の季節感もいくらか違ってきたように思われます。そのうえ、道路を造るために、川や畑がうめられ、団地建設のために、山野や森林がけずられてしまい、野鳥の声も遠くなり、木々の緑もまばらになって、四季おりおりの趣も消えていく感じです。
しかし、わたしは、必ずしも悲観はしません。というのは、次々に近代化されていく都市や農村の風景にも、また流行の移り変わりの激レい風俗にも、新しい年中行事の雰囲気にも、今までになかったういういしい季節感を発見するに違いないと思うからです。大昔から養い育てられ、日本人の心に生まれている季節感の根は、そうやすやすと枯れてしまうものではないと信じていますから。
「石森延男編?中等新国語」による
【选文注释】
①生垣(いけがき)(名詞)种植丝柏、刺叶桂花、光叶石楠、茶树等常青树,形成围绕住家的绿叶篱笆。但也有用落叶松、木槿、石榴等落叶树种植的树篱。
②横隊(おうたい)(名詞)本文指横排的落叶松。
③なんて(副助词)由などとは变化而来。彼が病気だなんてうそだ。
④とも(终助词)表示“断然肯定”之意。もちろん、行きますとも。
⑤清少納言(せいしょうなごん)(人名)日本平安时代的女流作家,是歌人清原元辅的女儿,著有随笔集《枕草子》。
⑥枕草子(まくらのそうし)(名詞)日本平安时代具有代表性的随笔文学作品。
⑦牛車(ぎっしゃ)(名詞)日本平安时代贵人坐的牛拉轿车。
⑧万葉集(まんようしゅう)(名詞)日本最古老的诗歌集,主要收录四世纪至奈良时代约四百年间的诗歌,共约四千五百首。
⑨年がら年じゅう(副词)终年,一年到头。
⑩芝草(しばくさ):结缕草
⑪藜(あかざ):草
⑫えのころぐさ:尾草
⑬ひめじょおん:一年蓬,姬女草
【参考译文】
日本人的季节感
少年时代,我居住的家中栽有落叶松树篱,落叶松高约四米,横向排开竟达二十米之长,长得十分茂盛。
积雪刚刚融化,春天就要来临了,一夜之间各种树木都吐出了叶芽。树篱的落叶松也冒出一个个小小的圆芽,刚一凑近,嫩芽的清香便扑鼻而来。情不自禁捏住落叶松的嫩芽来闻闻,,那散发出的浓浓香味使我的鼻孔深处感到痒痒的。怀着探春的心情,摘了几颗嫩芽在手心中搓揉,然后闻着那嫩芽的香味感受季节的气息,过去我一直认为这样做的只是我一个人呢。
然而有一天,我和父亲一起在原野中散步时,看到原野中长满了结缕草、藜草、狗尾巴草、姬女菀等各种杂草。
“你知道这是什么?”
父亲拔了一棵野草递到我的面前问道。
“当然知道。”
“叫什么?”
“叫艾嵩。”
父亲微笑着点点头,然后跟我讲述了这样一件事。
“通过闻草的香味来感受季节,这在过去、现在都是相同的呀!”
“你说过去,指什么时期?”
“很早以前。约一千年前,在清少纳言写的《枕草子》中就有记载。”
“什么事啊?”
“据说坐牛车在山村中行驶时,会飘来被车轮轧碎的艾嵩香味。”
听了这番话,我突然感到清少纳言这个人物仿佛已飞越了一千多年的岁月,一下子来到了我的身边。
打那以后,又过了几年,在十四五岁时,我便开始跟着父亲读《枕草子》、《万叶集》了。读着读着,使我感到惊讶的是,书中到处都交织着季节感。父亲说,若是日本人的内心深处没有季节情感的涌动,那么日本的文学就会变得平淡无味,更不可能有短歌和俳句之类问世了。
由于这一原因,我不知不觉地迷上了国文学,开始接触被称之为日本古典的作品。而且,我觉得日本人对季节的感受是那么的细腻、明锐,越读越令人着迷。
近期,搭建了不少暖棚,无论花卉还是蔬菜和水果,四季都能栽培、收获,所以任何时候都能上市。在我们的少年时代,提起菊花,便知道是秋天的花卉;说到西红柿,就会想到是夏天的蔬菜。如今在栽培法得到发展的同时,人们对有关花卉或是蔬菜的季节感也多少产生了一些错觉。为了修路,填埋了河流与田地;为了建设高楼大厦,开山伐木,所以,我们感到鸟啼声已在远离,树木的绿叶正在日益稀疏,四季应时的情趣也在逐渐消失。
但是,我并不悲观。之所以这么说,因为我觉得在逐渐接近现代化的都市、农村的风景中,在流行变化显著的风俗中已经新式的节日庆祝氛围中,肯定会发现至今所没有的稚嫩的季节感来。我确信,远古时代就已培育出来的,一直深植于日本人心中的季节感的根是不会那么轻易枯萎的。

加载中…