日语综合教程第七册 第六课阅读课文 人往山上走
(2012-01-14 16:52:52)
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日语综合教程第七册第六课阅读课文
人往山上走
人は山に向こう
关于作者:池泽夏树(いけざわなつき),1945年——。小说家,诗人。生于北海道。对自然科学、哲学的关系与对诗的感性的融合,持续进行小说、诗歌、评论等广泛领域的写作活动。主要作品有《夏天早上的同温层》、《希腊的诱惑》等。
课文注释:
1. 上信越:上野、信浓、越后的总称,包括跨越三县的地域。
2. 深田久弥(ふかたきゅうや):小说家,山岳纪行家。日本山岳会副会长。1903年生于石川县,1971年在攀登到茅岳山顶附近时因脑中风而急逝。《日本百名山》是1964年出版的山岳随笔集,得到了第16届读卖文学奖。
3. 《北越雪谱》(ほくえつせつふ):铃木牧之1836年-1842年所著。汇集了在越后观察到的雪景记录和雪国风俗习惯等。是一本将雪国的风俗人情和逸闻趣事交织起来描写的的书,文章浅易平凡,让现代人读来也感到十分欣赏。
4. 铃木牧之(すずきぼくし): 江户后期的文人。1770年,生于越后的国鱼沼郡,1842年73岁没。
5. 紀行(きこう):旅行记,游记。
6. 煙(けむ)に巻く(慣用句)说大话迷惑人,让人莫名奇妙。
大げさなことや訳のわからないことを言って、相手を戸惑わせる。
课文正文:
どうもこの夏は忙しいことになりそうなので、梅雨が明ける前に2日だけの夏休み作った。何をしおうかといろ考えたあげく、上信越のちょっとした山に登ることにした。前の日に車で麓の温泉に行って、朝早くから登り、夕方には降りてこようというほんの遠足程度の山登りだが、これでも行く前には結構うきうきするものだ。
今年夏天似乎实在太忙了,梅雨只放晴之前,只有两天就放暑假了。放假后该干什么呢?在作了种种考虑之后,决定去爬上信越稍微高一点的山。在此前一天乘车去了山脚下的温泉,早上一早就登山,直到傍晚才下山,尽管这只是可称得上远足程度的登山,所谓的小事一桩,可是在出发前,我还是喜不自禁。
この山、最近やたらに流行している深田久弥の「日本百名山」などにはもちろん入っていない地味な山で、標高は2000メートルを少し越えるくらい。冬こそ東側斜面がスキー客で賑わうが、夏に西側から登る人は多くはなさそうだ。
这座山,不用说并不包括在最近非常流行的深田久弥的《日本百名山》等之中,是一座不显眼的山,标高好像稍稍超过两千米。冬天在东侧斜坡滑雪的客人热闹非凡,夏天从西侧登山的人似乎并不多。登山的人不多,登山便有乐趣,而且它还是一座有着漂亮花草的美丽的山。
頂上のすぐ下に相当に広い高層湿原があって、池塘(ちとう)が点在し、高山植物がずいぶんきれいだという。人が少なくて、登るのが楽しいで、しかも花がきれいというのはいい山だ。早朝からさっさと登ってこの湿原のあたりをぶらぶら散歩するのも悪くないと思った。麓の一帯はかつては冬の雪に埋もれて孤立したというなかなかの秘境で、「北越雪譜(ほくえつせつふ)」で知られる江戸後期の文人鈴木牧之(すずきぼくし)に紀行記1巻がある。宿にはもちろん温泉完備。
山顶下近处有相当宽阔的高原湿地,周围池塘散布,听说高山植物的花开得相当漂亮。由于人少,登山也有乐趣,加上花儿漂亮,是一座美丽的山。我想一大早就赶快登山,在那湿地周围信步溜达还真不错。山脚一带曾经被冬天的雪所掩埋,是一处非常孤立的秘境,《北越雪谱》中,有著名的江户后期的文人铃木牧之写的游记第一卷。旅店里不用说温泉齐备。
なぜ人は山に登るがという陳腐な質問がしばしば発せられる裏には、登山が日常の論理にそぐわない行為だという認識がある。山に登ることの利は見えにくいのだ。人と違うことをするには弁明が必要なのが人間の社会で、経済的に有利であるとか、社交上の益が多いとか、美容に効果があるとか、万民の認める利のない行為はなかなか他から認められない。健康のためになどと恥ずかしい言葉を口にするわけにもいかない。要するに、山は普通の人の視野の外にあるのだ。
人们为什么要登山?每每有人发出这样陈腐的质问的背后,也有有人认为登山是与日常论理不相称的行为。很难看出登山的有什么利之处。人们在做不同的事情时,虽然有必要作说明,可是说什么在人类社会对经济上有利啦,在社交上的益处很大啦,有美容效果啦,万众都认为无利的行为,怎么也不容易得到他人的认可。不能说是为了健康等原因这样难为情的话。总而言之,登山是普通人视野之外的事情。
なぜ登るのかとしつこく聞かれるのが嫌になると、そこに山があるからなどとはぐらかした答えで相手を煙に巻いて逃げる。ではそこに木があれば登るのか問い返してみれば、趣味としての木登りというのは大人の世界ではない以上、山の場合はもう少し何か理由があることがわかるはずだが、その理由はなかなか言葉にならない。
刨根问底地问登山是为了什么让人厌烦,只能用“山在那里”等话作为回答来岔开,乘对手感到迷惑时逃开。要是反问树在那里你爬不爬的话,既然作为一种趣味,爬树并非成人世界的事情,那么应该可以理解,登山这种情况多少是有理由的,而且这个理由无需语言表达。
個人の感覚的な楽しみを言葉にするのはむずかしい。そこをなんとか言葉にしてみようとすると、われわれの普段の生活に山的なるものが不足しているからとでも言うほかない。それを強く意識する人とそうでない人がおり、意識する人は山に登って不足を補うとする。では山的なるものとは何か、よくよく考えているうちに、人間本来の生きる姿勢、人々の基本型とずいぶん大きな答えが出てきた。
个人所感觉的快乐很难用语言表述出来。如果勉强用什么语言表述了看法,由于我们普通的生活中对山的认识很不足,无论怎么也说不清。有具有很强意识人和对此不以为然的人,有意识的人以登山不足作为补偿。那么登山是为什么,仔细考虑一下,可以作出一个十分深刻的回答:它是人类本来的生存态度,是人们的基本形态。
楽しみに出かけた山は、しかし、あまりよい状況になかった。前の日は車に乗っていても日焼けするぼどの快晴だったのに、当日の朝、5時に起きてみると、ひどい降りだ。梅雨が明けていないのだから、たしかに雨の確率は高ったのだが、なんとか合間に登れると計算が1日ずれてしまったらしい。登りは散歩などの楽しみは半減するし、それに同行の友人が山には不慣れで、登りはともかく帰りの足元にいささかの不安がある。最初の数百メートルの登りは相当な急傾斜だ。山の地盤は連日の梅雨の雨を吸っているから、崩れているところもあるだろう。これが山小屋で1泊した翌日の下山の日であれば、雨でもなんでも降りてしまうところだが、登る前にこれでは出端をくじかれる。いろいろ考えたあげく、ここはいさぎよく引き下がることにした。
兴致勃勃地出门,可还是山的状况并不怎么好。前一天乘车时还是几乎能晒黑皮肤的大晴天,当天的早上5点起来一看,竟下起了大雨。也许由于梅雨季节还未过去,下雨的概率很高,如在空闲时间登山,怎么说也要差不多一天多。登山要减去一半散步等活动的乐趣,更加上同行的朋友对登山不习惯,也姑息不论登山归途中脚下多少有些不安。最初的百米登山是相当倾斜的。山上的地盘由于连日吸收了梅雨季节下的雨,也许有崩塌的地方。如果在这里的山间小屋住上一宿,第二天下山,不管在下过雨还是没下过雨的地方,登山之前都会在此开端受挫。在做了种种考虑的最后,还是在这里果断返回。
山が人の生活の基本型だというのは、もともと人は山が要求するような変化が多くて妥協の余地の少ない生活をしていたということである。都会の生活はすべて人と人との約束ごとからなっている。朝の決まった時間に家を出た者は夜の決まった時間に帰ってくる。その間にものが食べられないということはないし、家に帰りつけないこともない。だが、昔、人が農耕経済という便法を発明する前、日々の生活はそんなに安定したものではなかった。人間は相当なリスクを含む一日一日を乗り切って生きていた。狩猟採集経済では農耕のような収穫の安定は望めない。状況は日々変化するし、それに応じて次々に正しい判断をしなければ生きてゆけない。言ってみれば、初志貫徹と臨機応変という二つの原理の間で微妙なバランスをとって生きてゆくのが人の、あるいはすべての動物の、生活の基本だった。
说山是人的生活的基本形态,是因为原来人的生活对山的需求变化很多,没有妥协的余地。都市生活完全成为人与人约定的事情。早上在固定的时间出门的人晚上也在固定的时间回家。在这段时间,既不会有不吃饭的事情,也不会有不经常回家的事情。可是在从前,在人类发明农耕经济这样便利的方法之前,每天的生活不那么安定。人类在含有相当风险的情况下度过一天天的生活。狩猎经济不能指望农耕经济那样的收获,情况每天都在变化,为了适应这样的情况,必须一个接一个地做出正确的判断,否则无法生存。要说的话,在贯彻初衷和临机应变这两个原理之间,抓住其中微妙的平衡而生活着,这是人类,或者全部的动物的生活的基本形态。
遊散道は意外にもなかなかの難コースだった。雪解けの後で一応の整備はしたのだろうが、その後から草刈りをした形跡はない。足元はチシマザサに覆われて地面が見えないし、ところによっては急な斜面を縫って渡る道が幅の半分まで崩れていたりする。細い急流を飛び越えるようなところもある。雨は小降りになっていたけれども、道をはずれて迷わないようにするのにも気をつかう。地図の上で見れば等高線沿いの平坦なコースだが、実際には細かな起伏があって、登り下りをそれぞれ、合計すればちょっとした丘ぐらいになるかもしれない。厚く敷きつもったブナの落ち葉を踏んで歩くのは心地よいし、時おり足を止めて上を見れば日の光を透かすブナの葉は互いに重いなりあって明るい美しい緑を見せている。天候の許すかぎりの愉快な遠足になったと喜んだ。
散步道上意外地遇到了相当难走的路。雪融化后尽管做了彻底修整吧,在那之后的除草的痕迹却全无。脚下不见千岛矮竹覆盖的地面,有的是在陡峭的斜面上穿过的小道,并且崩塌到了一半的幅度,还有像是细细急流飞渡的地方。尽管雨下得小了,却要留神不偏离道路迷失方向。从地图上看,沿着等高线的平坦道路,实际上是有细微的起伏的,每条道路的上升下降,合计也许只有微小的丘陵那的起伏。踏在铺着厚厚的落叶上走路十分惬意,不时停下脚步向上看,阳光透过山毛榉树叶的互相重叠,可以看见一片明亮美丽的绿色。我为天气允许条件下愉快的远足而高兴。
山はそこに向かう者の思惑をまったく無視する。あたりまえのことだが、都会で安楽な生活を送っているとそういうことを忘れがちになる。だれが来ても標高をおまけしてはくれないし、崩れるべき場所はかならず崩れる。降り時には降る。水を忘れて頂に着いたら、数百メートル下の沢に降りないかきり水はない。高山の木や草は厳しい条件をすべて満たすことで生きている。夏に登って色あざやかに咲く花々を見る者は、その花が1年の4分の3は雪の下に埋もれてしっと待っていたことを思うべきだろう。せっかく登ったのに景色が見えないと愚痴を言う前に、山は曇っていてあたりまえ、高い山に雲が湧かないはずがないと思い知るべきなのだ。だからこそ、たまたま晴れた山頂からの遠景を喜ぶこともできる。
而山完全无视对方的困惑,那是当然的,如果在都市过惯了安乐生活,很容易忘记这样的事情。不管谁来,山高不会不会减少,该崩塌的场所必定要崩塌,该下雨的时候要下雨。高山上的草木在完全满足了严酷的条件下生长着。夏天的攀登者看到鲜艳的花开着,我想这花是一年中曾有四分之一的时间被埋在雪底下,执着地等待着吧。如果好不容易登一次山却没看见这样的景色,在发牢骚之前应该明白:山当然应该是在云的覆盖下,在高山上不应该没有云雾缭绕。所以,偶尔在晴朗的山顶望见远景可以让你喜不自禁。
自然は厳しいという言葉の内容をよく考えてみれば、社会は甘いという裏が見えてくる。人間は社会という名の相互援助しスラムを営々築き上げて、めったなことでは個人が脱落しないようにした。結構なことだが、それに安心してただ寿命が伸びて単純な快楽で日々を満たすことができるのをだらしなく享受しているわれわれではないか。個人としてリスクを負うことも、個人としての力量を問われることもほとんどないのが今の平地の生活。それを山的なるものの不足と感じるのだ。山に行けば自分の基本体力以外に頼れるものは何もない。それも、数字では決して表記できない種類の、精神的なものも含めた総体ちしての体力。そしてことに応じる判断力。大袈裟に言えば、荒野で1人で生きてゆく基本的な能力のすべて。それを発揮したその先で、湿原に咲く花々や心地よい疲労と達成感、おいしい昼食などが待っていてくれるからこそ、人は山に向かうのだ。
如果仔细考虑一下自然是严酷的这样的话的内容,就可以看到社会是乐观的背后。人类以所谓社会的名义辛勤构筑了互相援助的系统,个人掉队的事情是很少有的。这虽然是很好的事情,对此感到安心,只是延长了寿命,每天都能满足于单纯的快乐生活,我们该不是在放纵地享受吧。几乎没人征询个人所蒙受的危险,个人所具有的力量,这就是如今平地上的生活。这就使人格外觉得山上生活的不足。如果要去登山,除了自己的基本体力之外,什么也不依靠。还有,数字决不能表示包含人种、精神因素的总体上的体力。尤其是适应的判断力。如果稍微夸大一点说,在荒野里一个人生活全部靠基础能力。在将这种能力发挥之前,由于期待湿地上开放的花朵、惬意的疲劳和成就感、美味的午饭等等,人们才去登山。
遊歩道はそれなりによかったが、麓まで行って登らなかった山は後々まで気になる。もう一度なんとか夏休みを工面して、この山を再訪し、かならず山頂をきわめて湿原の池塘のまわりを歩こうと思いながら、帰途についた。
幸亏散步道没有了下文,可是走到山脚为止,觉得没登过的山要到以后再说了。我筹划下一次暑假再次访问这座山,必须攀登到山顶,在湿地的池塘周围散散步,我一边这样想着,一边踏上了归途。
(完)