薄田泣菫 樱花
(2012-01-10 12:17:32)
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分类: 日本随笔 |
桜の花
薄田泣菫
翻译:王志镐
“想起各种各样的东西,却无樱花。”
尽管如此,这是诗人自己的追忆,却无对樱花的任何追忆。越是追忆,越是对自己离开后不能掌握自我。过度的恋爱的激情,对繁殖子女并不多余。由于这个缘故,樱花并不结出如梅花、杏花那样的果实。花自然而然有生命的昂扬,有燃烧,从其他的花看来,年轻时的日子似乎被浪费了,却一点也不介意。
从前在德川末期,我想确切地说是在弘化时期,在名古屋的山本梅逸的弟子那里,有一位叫小岛老铁的画家。在古寺的閻魔堂一侧,与掘立小屋那样的小庵结庐。在乞丐似的劣等贫困生活中,却保持着兰花似的清高而乐观的心情。
桜こそは、春の花のうちで表現の最もすぐれたものの一つであります。しとしとと降り暮らす春の雨の冷たさに、やや紅みを帯びて悲しさうにうなだれた莟といふ莟が、一夜のうちに咲き揃つて、雨あがりの金粉をふり撒いたやうな朝の日光のなかで、明るくほがらかに笑つてゐる花の姿は、多くの植物に見るやうな、莟から花への発展といふよりも、むしろすばらしい跳躍であります。感激といふよりも、驚異であります。第二楽章なしに直に第三楽章への躍進であり、表現と高興との中心への侵入であります。蘇へる生命の歓びに、やつと新芽を吹いたばかりの草も、木も、饒舌家(おしやべり)の小鳥も、沈黙家(むつつりや)の獣も、さすらひ人の蝸牛も、地下労働者のもぐらもちも、みんな魔術にでもかかつたやうに、いい気持になつて夢を見てゐるなかに、この桜の花のみは、ながい三春の歓楽を僅二日三日の盃に盛つて、そこに白熱した生命の燃焼と豪奢の高興とを味ひつくさうとするのであります。恋をするものは、道を歩くにも決して後をふり向かないといひます。むかしの詩人は、
さまざまの事思ひ出す桜かな
といひましたが、それはその詩人自らの追想であつて、桜には何の追想もありません。追想するほど自分とかけ離れた自分を持たないからであります。張りきつた恋愛の激情には、子女の繁殖など思ふ余裕はありません。それ故に桜の花は、梅や杏のやうに実らしい実を結ばうとはしません。花自らが生命の昂揚であり、燃焼でありますから、それが他の花から見て、若き日の徒費であらうと、少しも構はないのであります。
むかし徳川の末、たしか弘化の頃であつたと思ひます。名古屋に山本梅逸の弟子で、小島老鉄といつた画家がありました。古寺の閻魔堂のかたはらに、掘立小屋のやうな小やかな庵を結んで、乞食にも劣つた貧しい生活のなかにも、蘭の花のやうな清く高い心持を楽んでゐました。ある冬の事、あまりの寒さつづきに、小屋掛の身はどんなに凌ぎ難からうと、親切にもわざわざ炭三俵を送つてよこした友達がありました。老鉄はそれを見ると大層喜びました。
这是一年冬天的事情。在过于寒冷的日子持续着的时候,在小屋坐着的身体,不知怎么难以忍受了,有一位朋友给他特地给他亲切地送来了三草袋木炭,老铁见此大喜。
“不管怎样这是厚礼啊!把火生起来,马上烤火吧!”
这么说着,马上就生起火来,三草袋木炭一下子烧完了。然后他一边烤着屁股,一边说:
“啊,烤一烤,心情大爽。久违了,今天觉得自己像个大财主。”
这么说着,心情真的很爽。
然而送炭来的朋友的心里,如果只有这冬天的寒冷的话,似乎在考虑,觉得这寒冷还能忍受。如果是普通人的话,也一定会这样想的。但是,老铁并不是像这样的举止,三草袋木炭一下子烧完了。也就是说,正如至今为止的贫困一样,如果一点点地烧火,三草袋的木炭可以维持六十天只多不少。如果是这样的话,却不能连续度过平凡的日子。除此之外,这是终于到来的木炭啊。剩下的五十九天在寒冷中颤栗,这五十九天更是一天也难以度过的,想要尝一尝这种滋味,画家老铁那一天是不是突然想到这样做。他一边烤着屁股,一边心情很好地说:
“完全觉得像是大财主一样。”
樱花的心情,对持有画家老铁那样的态度的人,一开始觉得味道很好,持有老铁那样的心情,我想这种花的姿态会有趣地表现出来。
「折角の志ぢや。火をおこしてすぐに煖まるとせう。」
といつて、いきなりそれに火をつけて、三俵とも一度に火にしてしまひました。そして尻を煖めながら、
「ああ煖かい、いい気持ぢや。久し振で今日は大尽になつたやうな気がするて。」
といつて、いい気になつてゐたといふ事であります。
炭を送つてよこした友達の心では、冬中の寒さはこれだけあつたら凌ぎおほせるだらうと位に考へてゐたらしいのです。また普通の人ならばきつとさうしただらうと思はれます。だが、老鉄はそんな真似をしないで、三俵一度に火にしてしまひました。つまりこれまでの貧乏暮しのやうに、ちびりちびり火をおこしたところで、三俵の炭はやつと六十日を持ちこたへるに過ぎますまい。それでは唯平凡な日の連続に過ぎません。それよりかも、折角到来の炭です。残りの五十九日はよし寒さに顫へてゐようとも、その五十九日にも更へ難い程の一日を味つてみたいといふのが、画家老鉄のその日の思ひ立ちではありますまいか。彼が尻を煖めながら、いい気持になつて、
「まるで大尽になつたやうな気がする。」
といつたのは、実際言葉どほりに生活の跳飛であり、経験の躍進であり、更にまた新しい心持の世界の新発見でありました。
桜の花の気持は、画家老鉄のやうな態度を持つた人で、初めてよく味はれますし、老鉄の抱いてゐたやうな心持は、この花の姿でおもしろく表現出来てゐると思ひます。