东山魁夷 风景感悟
(2011-11-11 21:48:06)
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东山魁夷风景感悟日本散文 |
分类: 日本随笔 |
风景感悟
东山魁夷
(译于2004年1月)
風景開眼
東山魁夷(ひがしやまかいい)
いままで、なんと多くの旅をして来たことだろう。そして、これからも、ずっと続けることだろう。旅とは私にとって何を意味するのか。自然の中に孤独な自己を置くことによって、解放され、純化され、活発になった精神で、自然の変化の中にあらわれる生のあかしを見たいというのか。
いったい、生きるということは何だろうか。この世の中に、ある時、やって来た私は、やがて、何処かへ行ってしまう。常住の世、常住の地、常住の家なんて在るはずがない。流転、無常こそ生のあかし(証)であると私は見た。
私は私の意志で生れてきたわけではなく、また、死ぬということも私の意志ではないだろう。こうして、いま、生きているというのも、はっきりと意志が働いて生きているわけでもないようだ。したがって絵を描くということも―
私は何を云おうとしているのか。力を尽くして諏gに生きるということを尊いと思い、それのみが、私の生きている唯一の意義であるはずだと思っているのだが。それは、上述の認識を前提とした上でのことである。
私は生かされている。野の草と同じである。路傍の小石とも同じである。生かされているという宿命の中で、せいいっぱい生きたいと思っている。せいいっぱいいきるなどということは難しいことだが、生かされているという認識によって、いくらか救われる。
私の生き方は、こんあふうに、あまり威勢の良いほうではない。生来の性格の上に、多く挫折(ざせつ)と苦悩を経て辿りついた結果である。幼い時から青年期まで病気がちであった。物心のつく頃から、両親の愛憎の姿を人間の宿命とも、業とも見てきた。外面にあらわそうとしない私の心の深淵(えん)。精神の形成される時期のはげしい動揺。兄弟の若い死。父の家業の倒産。芸術の上での長い苦しい模索。戦争の悲惨。
しかし、私の場合は、こんなふうだったから生の輝きというものを、私なりにつかむことが出来たのかもしれない。私が倒れたままになってしまわずに、どうにか、いろんな苦しみに耐え得たのは、意志の強さとか、それに伴う努力というような積極的なものよりも、一切の存在に対しての肯定的な態度が、いつの間にか私の精神生活の根底になっていたからではないだろうか。少年期の私は、何事をも疑ってみる時期があった。あらゆる存在に対する不信の思いに耐えられない自己を持てあまし(无法对付,难于处理)ていたこともある。しかし、ある諦念ともいうものが、私の中に根ざしてきて、私の支えとなったのだと思う。
私は一年の大半を人気の無い高原に立って、空の色、山の姿、草木の息吹き、じっと見守っていた時がある。それは、まだ結婚もせず、幼稚園に間借りをしていた昭和十二、三年のことである。八ヶ岳(やつがたけ)の美しの森と呼ばれる高原の一隅(いちぐう)、ふと、好ましい風景を見つけると、その同じ場所に一年のうち十数回行って、見覚えのある一木一草(いちぼくいっそう)が季節によって変ってゆく姿を、大きな興味をもって眺めたのである。
冬はとっくに過ぎたはずだのに、高原に春の訪れは遅かった。寒い風が吹き、赤岳や権現(ごんげん)岳は白く、厳しく、落葉松(からまつ)林だけがわずかに黄褐色(おうかっしょく)に萌え出している。ところどころに雪の残る高原は、打ちひしがれた(打ち拉ぐ打垮摧残)ような有様であった。その中に、昨年の芒(すすき芒草)が細く立っているのが不思議であった。深い雪と、烈しい風の冬を経て、頑丈な樅(もみ冷杉)の枝でさえ折れているのがあるのに、どうしてこの細々とした茎が立ち続けていたのだろう。
春が来ると、一時に芽吹きが始まる。紅に、黄に、白緑に、若葉に、銀に、金にと、多彩な交響楽。白い素朴な花をつけた小梨の下には、虻がブーンと弦楽の合奏をしている。鶯(うぐいす黄莺)と郭公(かっこう布谷)は高音と低音の重唱。躑躅(つつじ杜鹃映山红)、蓮華(れんげ荷花)躑躅の華やかさ、どうだん躑躅(满天星)の可憐、野薔薇の清楚(せいそ整洁清秀)。
霧が流れ、雨が降る。夏の日が輝くと、草いきれのする野に、放牧の馬の背が光る。驟雨、烈しい雷鳴、晴れてゆく念場ヶ原に立つあざやかな虹。
薊(あざみ)の茎が伸び、松虫草が咲くと、空が青く澄んで、すきとおるような薄い雲が流れる。落葉松が黄褐色に、白樺(しらかば)が輝く黄になると、芒の穂(ほ)が白く風になびく(靡く随风飘动迎风招展)。
空が厚い灰色の雲に蔽われ、雪が降ってくる。一面の深い雪。樅の木が真っ艘姢ā⒀─紊悉说恪─萨Bや兎の足あとが交叉する。落葉松の林が、時々、寒そうに身震いして、白い粉をふりまくように雪を払いおとす。
やがて、再び春が廻ってくる。さて、あの芒は―雪が降ってきた時は、だんだん下から積って、そのまま倒れずにいるうちに、しまいには、すっぽり(蒙上包上)と雪の中に蔽いかくされてしまう。雪がとけると、頭のほうから出て来て、こうして春に残るのである。私はこの弱々しいものの、呙四妞铯胜い悄亭à皮い胱摔烁袆婴筏俊
あの時分、どうして私の作品は冴えなかったのだろうか。あんなにも密接に自然の心と溶け合い、表面的な観察でなく、かなり深いところへ到達していたはずである。それなのに、私の感じとったものを、すなおに心こまやかに描くことが出来なかった。表現の技術が拙かったのだろうか。いや、それよりも、もっと大切な問題があった。
私は汗と埃にまみれて走っていた。足もとには焼け落ちた屋根瓦が散乱していて、土煙りが舞い上った。汚い破れたシャツ姿のこの一団は、兵隊と云うには、あまりにも惨めな恰好をしている。終戦間近に召集を受けた私は、千葉県の柏(かしら)の連隊に入隊すると、すぐその翌日、熊本へ廻された。そこで爆弾をもって戦車に肉薄(にくはく肉搏)攻撃する練習を、毎日やらされていたのである。そんな或る日、市街の焼跡(やけあと)の整理に行って熊本城の天守閣跡へ登った帰途である。
私は酔ったような気持で走っていた。魂を震撼させられた者の陶酔とでもいうべきものであろうか。つい、さっき、私は見たのだ。輝く生命の姿を―
熊本城からの眺めは、肥後(ひご)平野や丘陵(きゅうりょう)の彼方に、遠く阿蘇が霞む広濶(こうかつ)な眺望である。雄大な風景ではあるが、いつも旅をしていた私には、特に珍しい眺めというわけではない。なぜ、今日、私は涙が落ちそうになるほど感動したのだろう。なぜ、あんなにも空が遠く澄んで、連なる(つらなる)山並みが落ちついた威厳に充ち、平野の緑は生き生きと輝き、森の樹々が充実した、たたずまいを示したのだろう。今まで旅から旅をしてきたのに、こんなにも美しい風景を見たであろうか。おそらく、平凡な風景として見過してきたのにちがいない。これをなぜ描かなかったのだろうか。いまはもう絵を描くという望みはおろか、生きる希望も無くなったと云うのに―歓喜と悔恨がこみ上げ(込み上げる往上冲)てきた。
あの風景が輝いて見えたのは、私に絵を描く望みも、生きる望みも無くなったからである。私の心が、この上もなく純粋になっていたからである。死を身近に、はっきりと意識する時に、生の姿が強く心に映ったのにちがいない。
自然に心から親しみ、その生命感をつかんでいたはずの私であったのに、製作になると、題材の特異性、構図や色彩や技法の新しい工夫というようなことにとらわれて、もっとも大切なこと、素朴で根元的で、感動的なもの、存在の生命に対する把握の緊張度がかけていたのではないか。そういうものを、前近代的な考え方であると否定することによって、新しい前進が在ると考えていたのではないか。
また、製作する場合の私の心には、その作品によって、なんとかして(设法)展覧会で良い成績を挙げたいという願いがあった。商売に失敗した老齢の父、長い病中の母や弟というふうに、私の経済的な負担も大きかったから、私は人の注目を引き、世の中に出たいと思わないではいられなかった。友人は次々に画壇の寵児(ちょうじ)になり、流行作家と云われるようになって行ったが、わつぃは一人とり残され、あせりながらも遅い足どり(步调)で歩いていたのである。こんなふうだから心が純粋になれるはずがなかったのである。
その時の気持ちをその場で分析し、秩序立って考えたわけではないが、ただ、こう自分自身に言い聞かせたのはたしかだ。もし、万一、再び絵筆(えふで)をとれる時が来たなら―恐らく、そんな時はもう来ないだろうが―私はこの感動を、いまの気持で描こう。
汗と埃にまみれて熊本市の焼跡を走りながら私の心は締めつけられる思いであった。
いま、考えて見ても私は風景画家になるという方向に、だんだん追いつめられ、鍛え上げられてきたと云える。人生の旅の中には、いくつかの岐路がある。中学校を卒業する時に画家になる決心をしたこと、しかも、日本画家になる道を選んだのも、一つの大きな岐路であり、戦後、風景画家としての道を歩くようになったのも一つの岐路である。その両者とも私自身の意志よりも、もっと大きな他方によって動かされていると考えないではいられない。たしかに私は生きているというよりも生かされているのであり、日本画家にされ、風景画家にされたとも云える。その力を何と呼ぶべきか、私にはわからないが―