日语综合教程第八册第二课 日本的海滨
(2010-07-03 18:37:10)
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日语综合教程加藤真日本的海滨 |
分类: 日语综合教程第八册 |
日语综合教程第八册第二课
翻译:王志镐
作者介绍:加藤真(1957—),生态学者,生于静冈县。
课文内容:
日本の渚
――加藤真
私は幼少の頃を、駿河湾の白砂青松の渚で過した。無数の貝が波遊びをする渚の情景は、遠い日の忘れられない記憶の一つである。砂浜にたたずめば海岸線に沿って果てしなく続く砂丘と松林に、沖に向って果てしなく広がる海と空に、視線は吸い込まれてゆき、日々の悩みや悲しみも、一瞬忘れてしまう。その貝を昔の人々は忘れ貝と称したが、忘れるための道具は、実は忘れ貝そのものではなく、そのような貝が打ち上がる美しい渚だったのだろう。
高度成長期に入る前の日本には、松林に抱かれた自然のままの砂浜があちこちに存在した。しかし現在、多くの渚は人口護岸の海岸に変えられていて、渚と砂丘と松林という連なりはほとんど残されていない。松林は切り開かれ、砂浜はやせ細り、わずかに残された砂丘を四輪駆動車が走りまわる。
例えば、能登半島の増穂ヶ浦は、とりわけ沢山の貝が打ち上げられる海岸である。日本海から吹いてくる北風に吹かれながら、美しい汀線をたどり、打ち上げ貝を広い行けば、寒さも忘れて、海が育んでいる生物の多様性にうっとりしてくる。しかし現在、うちあげられる貝の多様性は、海の汚染や渚の生態系の荒廃を反映して、各地の渚で激減している。
人口の増加に伴って、過剰な土地利用を追求した結果、人の居住地や耕作地は渚のすぐ近くまで迫ってきた。そのため、防災の名のもとに、海岸線は松林や砂丘に変わって、コンクリートの防波堤で固められていったのである。
人の居住(きょじゅう)地から遠く離れた自然海岸にも、(なぜこんなところに)。と思われるような人工護岸が造られていることも少なくない。美しい渚は人工護岸一つで、その価値をいちじるしく損なわれる。
最近は、「水に親しむ」といううたい文句で、海岸線に階段状の堤防を造ることがはやっている。松林や砂丘をつぶして作る堤防は、例え人が座って海を眺められるように階段状になっていたとしても、けっして渚に優しくはない。渚と砂丘と松林は大きな生態系の連環の中にある。松林は渚へ栄養分に富んだ地下水を供給(きょうきゅう)し、波は渚と砂丘を供給し、また多くのよりものをもたらす。渚と砂丘と松林は帯状に連なり、それらの間を移動する多くの生物を育んでいる。そのような生態系の連環を絶ってしまう人工護岸は、自然海岸にもっともふさわしくない物だ。
多くの砂丘が直面しているもう一つの問題は海岸線の後退だ。全国のほとんどの河川にダムができ、川は、土砂供給が減少(げんしょう)し、砂丘はやせ細り、海岸線は後退しつづけているのだ。
海岸線の後退に対して現在行われていることは、護岸堤の外側に消波ブロックを放り込み、砂の持ち去りを少なくするために離岸堤や潜堤を渚の沖に造り、養浜野ための突堤を海岸線から突き出させ、別の海から大量の砂を搬入するというような、対症療法的なものが多い。そこには満身創痍の渚の姿がある。
現在、盛んに行われている人工渚の造成は、砂の搬入によって渚の土着の生物を生き埋めにし、砂の浚渫によって砂地の生態系を破壊する行為にはかならない。砂が搬入される場所にも、砂が浚渫される場所にもおおきな爪痕が残る。自然の砂浜と造成された人工渚との本質的な違いは、渚に生息する生物の種多様性だ。渚に打ち上げられる貝の種数を比べれば、人工渚のその貧困さは歴然としている。形ばかりの環境復元は、本質的に生態系破壊であるが、そのことに気付いている人は残念ながら多くない。
日本列島が白砂青松の渚で縁どられていた時代、渚は子供たちの遊び場だった。その頃日本は貧乏(ひんぼう)な国だったが、渚で遊ぶことを通して彼らはゆたかな感性を心の中にはぐくんでいた。渚が遠い存在になってゆく今、わずかに残っている変貌(へんぼう)をとげる前の自然の渚の姿を、未来をになう世代も、見ておいて欲しいと思う。松林と砂丘と波がおりなす渚の風光や、そこに見られる生物たちの躍動や多様性は、おそらく言葉では伝えることができないものであり、どんなに予算を注ぎこんだ公共事業によっても「復元」できるものではない。
自然の海岸線にこれ以上手を加えるのをやめることが先決(せんけつ)だ。松林の木陰に寝ころんで松の枝をつたう風の音を聞き、砂丘に咲き乱れたハマエンドウの花むらの中に座って広い海を眺め、汀線に打ち上げられたくさぐさの貝を拾い、渚に足を浸してフジノハナガイの波遊びを見る、そんな体験をした子供たちは、大人になっても、渚や砂丘を四輪駆動車ではしりまわったりすることはないだろう。