森鸥外 藏红花
(2010-04-28 18:18:17)
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森鸥外藏红花日本散文 |
分类: 日本随笔 |
藏红花
森鸥外
翻译:王志镐
(番红花,藏红花,菖蒲科多年生草。)
只闻其名,不知其人,这样的事多的是。不仅是人,所有的东西都是如此。
据说我从小好读书,说起少年时必读的杂志,因为生于还没有岩谷小波童话的时代,只有一本祖母陪嫁时带来的《百人一首》,那是作为纪念祖父演唱义太夫时,留下来的净瑠璃本啦,画着谣曲梗概的连环画啦,所有的书任我随心阅读,却从未放过风筝,玩过陀螺。与邻家孩子之间从未有过任何心灵上的接触,于是越发沉湎于读书,如灰尘吸附于器皿,许多东西的名称留在了记忆中。就这样,只知其名,不知其物,残缺不全。大部分的事物都是如此,植物的名称也是如此。
“爸爸,藏红花是草的名字,是什么草呢?”
“那是将花采回来晒干后着色用的草,让我给你看!”
父亲从药柜的抽屉中取出一种皱巴巴、黑乎乎的东西给我看,也许父亲也没见过野生的藏红花吧,虽然我不但听说过,还看见过,但见到的只不过是干货。
我第一次见到藏红花,是在两三年前,火车到了上野,雇了人力车返回团子坂的途中,经过东照宫的石坛下,来到昏暗的花园街时,见到路旁铺着草席,有人在卖一种从根球处开出全紫色花儿的草。从孩童到将近老人的期间,对藏红花的知识毫无长进,只在图谱上见过花的形状,所以才想到:“啊,这是藏红花呀!”不知东京是什么时候将它作为花卉来玩赏的。总之,有人卖藏红花,是那时候才知道的。
不知道那次旅行是去哪里,只记得早上离开旅馆时下了霜,事情发生在温室外所有花都已凋谢了的时候,也是山茶花、茶花都已凋谢了的时候。
据说藏红花种类很多,这也不知是从哪里读来的,我见到的藏红花是开花相当晚的花。然而极端也是相接触的,也可以说开得相当早。据说比水仙啦,风信子啦更早开花。
“大爷,这东西栽在土里还会开花吗?”
“是呀,这是好养活的东西,来年会变成十来个呢!”
“是吗?”
我买了回去,在土钵里放入少许庭院的土,将根球埋下,放在书房里。
两三天后花枯萎了,花钵上如袖口上的碎屑似的布满了屋内的灰尘,我的眼睛也好久未光顾它了。
“大爷,这东西栽在土里还会开花吗?”
“是呀,这是好养活的东西,来年会变成十来个呢!”
“是吗?”
我买了回去,在土钵里放入少许庭院的土,将根球埋下,放在书房里。
两三天后花枯萎了,花钵上如袖口上的碎屑似的布满了屋内的灰尘,我的眼睛也好久未光顾了。
这么说来一直到今年一月,绿线似的叶子才簇拥而出。也不用浇水,就这么放着,生气勃勃、绿油油的叶子熙熙攘攘地长了出来。植物的生命力真是惊人,它战胜了所有的抵抗,生长着,伸展着,一定像花店的老爷子所说,一个个根球开始繁殖了。
玻璃窗外,忍受着霜雪的福寿草的黄花开了,信风子和贝母也从花坛破土而出,长出了叶片。书斋里的藏红花盆却仍然绿茵茵的。
尽管花盆里的土覆盖着一层袖垢似的灰尘,见了那绿茵茵的颜色,再无情的人也不得不时常为它浇水。这是利己主义为了娱人之目而作的打扮的吗?仰或这是利他主义的我喜爱外物吗?人类做事,其动机错综复杂,宛如延伸的藏红花的叶子,虽然简单,却连自己也搞不明白。我不想看见它被强迫浇淋,就像一只舔过胭脂的青蛙被破膛洗肠。现在像我这样给这盆花浇水,东西出手曰弥次马,如将手缩进来,曰独善其身。曰残酷。曰冷淡。皆为他人所云。顾及他人所云,便手足无措。
这就是藏红花这种草和我的历史。读到这里,你就知道我对于藏红花的所知是多么贫乏了吧。可是不管多么疏远的事物,偶尔也会擦肩而过。藏红花与我不能说没有接触点,故事的寓意也仅仅在此。
在大千世界里,至今为止藏红花作为藏红花生存着,我作为我生存着。
这就是藏红花这种草和我的历史。读到这里,你知道我对于藏红花的知识是多么贫乏了吧。但是不管怎样疏远的事物,偶尔也能擦肩而过,藏红花和我之间不是没有接触点。故事的寓意仅在于此。而从今往后,藏红花也将继续它的生存,而我也将继续我的生存吧。
(为尾竹一枝君而作。)
サフラン
森鴎外
名を聞いて人を知らぬと云うことが随分ある。人ばかりではない。すべての物にある。
私は子供の時から本が好だと云われた。少年の読む雑誌もなければ、巌谷小波(いわやさざなみ)君のお伽話(とぎばなし)もない時代に生れたので、お祖母(ばあ)さまがおよめ入の時に持って来られたと云う百人一首やら、お祖父(じい)さまが義太夫を語られた時の記念に残っている浄瑠璃本(じょうるりぼん)やら、謡曲の筋書をした絵本やら、そんなものを有るに任せて見ていて、凧(たこ)と云うものを揚げない、独楽(こま)と云うものを廻さない。隣家の子供との間に何等の心的接触も成り立たない。そこでいよいよ本に読み耽(ふけ)って、器に塵(ちり)の附くように、いろいろの物の名が記憶に残る。そんな風で名を知って物を知らぬ片羽(かたわ)になった。大抵の物の名がそうである。植物の名もそうである。
父は所謂(いわゆる)蘭医(らんい)である。オランダ語を教えて遣(や)ろうと云われるので、早くから少しずつ習った。文典と云うものを読む。それに前後編があって、前編は語を説明し、後編は文を説明してある。それを読んでいた時字書を貸して貰(もら)った。蘭和対訳の二冊物で、大きい厚い和本である。それを引っ繰り返して見ているうちに、サフランと云う語に撞着(どうちゃく)した。まだ植字啓源などと云う本の行われた時代の字書だから、音訳に漢字が当て嵌(は)めてある。今でもその字を記憶しているから、ここに書いても好いが、サフランと三字に書いてある初の字は、所詮活字には有り合せまい。依って偏旁(へんぼう)を分けて説明する。「水」の偏に「自」の字である。次が「夫」の字、又次が「藍」の字である。
「お父っさん。サフラン、草の名としてありますが、どんな草ですか。」
「花を取って干して物に色を附ける草だよ。見せて遣ろう。」
父は薬箪笥(くすりだんす)の抽斗(ひきだし)から、ちぢれたような、黒ずんだ物を出して見せた。父も生の花は見たことがなかったかも知れない。私にはたまたま名ばかりでなくて物が見られても、干物しか見られなかった。これが私のサフランを見た初である。
二三年前であった。汽車で上野に着いて、人力車を倩(やと)って団子坂(だんござか)へ帰る途中、東照宮の石壇の下から、薄暗い花園町に掛かる時、道端に筵(むしろ)を敷いて、球根からすぐに紫の花の咲いた草を列(なら)べて売っているのを見た。子供から半老人になるまでの間に、サフランに対する智識は余り進んではいなかったが、図譜で生の花の形だけは知っていたので、「おや、サフランだな」と思った。花卉(かき)として東京でいつ頃から弄(もてあそ)ばれているか知らない。とにかくサフランを売る人があると云うことだけ、この時始て知った。
この旅はどこへ往(い)った旅であったか知らぬが、朝旅宿を立ったのは霜の朝であった。もう温室の外にはあらゆる花と云う花がなくなっている頃の事である。山茶花(さざんか)も茶の花もない頃の事である。
サフランにも種類が多いと云うことは、これもいつやら何かで読んだが、私の見たサフランはひどく遅く咲く花である。しかし極端は相接触する。ひどく早く咲く花だとも云われる。水仙よりも、ヒヤシントよりも早く咲く花だとも云われる。
去年の十二月であった。白山下の花屋の店に、二銭の正札附でサフランの花が二三十、干からびた球根から咲き出たのが列べてあった。私は散歩の足を駐めて、球根を二つ買って持って帰った。サフランを我物としたのはこの時である。私は店の爺(じ)いさんに問うて見た。
「爺いさん。これは土に活けて置いたら、又花が咲くだろうか。」
「ええ。好く殖(ふ)える奴(やつ)で、来年は十位になりまさあ。」
「そうかい。」
私は買って帰って、土鉢(どばち)に少しばかり庭の土を入れて、それを埋めて書斎に置いた。
花は二三日で萎(しお)れた。鉢の上には袂屑(たもとくず)のような室内の塵(ちり)が一面に被(かぶ)さった。私は久しく目にも留めずにいた。
すると今年の一月になってから、緑の糸のような葉が叢(むら)がって出た。水も遣らずに置いたのに、活気に満ちた、青々とした葉が叢がって出た。物の生ずる力は驚くべきものである。あらゆる抗抵に打ち勝って生じ、伸びる。定めて花屋の爺いさんの云ったように、段々球根も殖えることだろう。
硝子戸の外には、霜雪を凌(しの)いで福寿草の黄いろい花が咲いた。ヒアシントや貝母(ばいも)も花壇の土を裂いて葉を出しはじめた。書斎の内にはサフランの鉢が相変らず青々としている。
鉢の土は袂屑のような塵に掩(おお)われているが、その青々とした色を見れば、無情な主人も折々水位遣らずにはいられない。これは目を娯(たのし)ましめようとする Egoismus であろうか。それとも私なしに外物を愛する Altruismus であろうか。人間のする事の動機は縦横に交錯して伸びるサフランの葉の如く容易には自分にも分からない。それを強(し)いて、烟脂(やに)を舐(な)めた蛙(かえる)が膓(はらわた)をさらけだして洗うように洗い立てをして見たくもない。今私がこの鉢に水を掛けるように、物に手を出せば弥次馬と云う。手を引き込めておれば、独善と云う。残酷と云う。冷澹と云う。それは人の口である。人の口を顧みていると、一本の手の遣所もなくなる。
これはサフランと云う草と私との歴史である。これを読んだら、いかに私のサフランに就いて知っていることが貧弱だか分かるだろう。しかしどれ程疎遠な物にもたまたま行摩(ゆきずり)の袖(そで)が触れるように、サフランと私との間にも接触点がないことはない。物語のモラルは只(ただ)それだけである。
宇宙の間で、これまでサフランはサフランの生存をしていた。私は私の生存をしていた。これからも、サフランはサフランの生存をして行くであろう。私は私の生存をして行くであろう。(尾竹一枝君のために。)
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底本:「新潮日本文学1 森鴎外集」新潮社
1971(昭和46)年8月12日発行
入力:柿澤早苗
校正:湯地光弘
1999年10月16日公開
2005年11月8日修正
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