日语综合教程第七册第六课 自然与人类
(2010-04-17 13:46:00)
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自然与人类内山节哲学家 |
分类: 日语综合教程第七册 |
日语综合教程第七册第六课
翻译:王志镐
作者介绍:内山节,1950年出生,哲学家。从劳动论出发,一贯追求研究人类的存在与自由的关系问题。从七十年代起,屡次旅居群马县上马村,根据自己的亲身体验,以自然与人类的交流为媒介,深刻探索劳动的改观问题。主要著作有《自然与劳动》、《哲学的冒险》、《自然与人类的哲学》、《自由论》等。
他是一个奇怪的哲学家,过着山野村和东京的两重生活,以其独特的研究风格,保持着与至今任何一个哲学家不同的姿态,独自作自己的研究。
掛川市长榛村純一这样评价他说:“在现代日本,没有大学教授和宫廷侍奉的身份,只拿着哲学家的头衔吃饭的,仅此一人。”
课文正文:
桜の花が咲くと花見にくりだしたくなるのは、どうやら日本人独特の習慣であるらしい。もちろんソメイヨシノは日本の木であるけれど、どこの国に行っても春にはその国を代表する国では、花の下で車座になって酒を飲んでいる人々なdpみたことはない。もっとも古代には日本でも、桜より梅のほうが宴の対象になっていたようだが、梅の季節ではまだ寒くて、昨今のようにひと騒ぎする気にはならなかったにちがいない。
樱花初开,便欲结伴去赏樱,恐怕这是日本人独特的习惯吧。不用说染井吉野樱花树是日本之树,无论去哪个国家,春天都有代表该国的树木,加上美不胜收的花。说起来在我去过的国家,在花下聚集饮酒的人却从未见过。在最古老的日本,比起樱花,似乎梅花更是设宴的对象,但是梅花盛开季节天气尚寒,一定不如近来那样人声鼎沸,热闹非凡。
日本人が花見が好きなのは、春になると魂が生き返ると考えていた、日本の伝統的な季節観と関係しているのではないかと私は思っている。この考え方では、人間の生命は山の木々と同じようなサイクルを持っているとみなされていた。春になると人間の生命も生き返る。そして、生命を細く維持していく時期である。
日本人喜好赏花,认为一到春天,灵魂就会复活,我想这一定与日本人传统的季节观有关吧。按照这种想法,人类的生命被认为与山上的各种树木有同样的周期。一到春天,人类的生命就复活了。然后,迎来了生命活跃化的夏天。秋天则是生命的衰退期。冬天是封闭的生命微弱地维持时期。
だから古代律令制の下では、罪人の処刑も晩秋に行われている。生命が閉じようとする季節に処刑することによって処刑された魂が生まれ返るのに支障のないようにしているのである。
因此在古代的律令制下,罪犯被施行死刑是在晚秋。在生命似乎封闭的季节处以死刑,被处刑的灵魂要复活似乎就没有了障碍。
子供のころ私は人間だけが、一年じゅう同じように働き暮らしていなければならないことに少なからぬ不満を持っていた。山の木々は冬には活動をおおかた休止させ、山の動物は冬眠に入るではないか。それなのに人間だけが一年じゅうほとんど変わりないリスもで働いているのである。なんとなく損な生き物に生まれたような気がしてならなかった。
在孩童时代,我对只有人类一年中必须过着同样的劳动生活多少怀有不满。而山的树木冬天多半没有停止活动,山上的动物也进入了冬眠。尽管如此,人类在整个一年中,以几乎不变的节奏劳动着,总觉得人类是作为一种吃亏的生物来到世界上的。
だから山里を歩くようになったとき、私には解放感があった。山里にはまた季節感とともに暮らす人々がいた。春になって木や草や鳥や虫たちがいっせいに活動しはじめるさまは、まるで土や大気や水の中から命が湧き出してくるかのようだ。そのころ山里の人々の活動も始まっていて、自然が生命活動を閉じる晩秋に山里は静寂を迎える。
因此,每当走在山村的时候,我就有一种解放感。只有山村尚有与季节共同生活的人。一到春天,树木,花草、鸟类、昆虫一齐开始活动起来的样子,就像生命从土地、大气和水中喷涌而出。在这时候,山村的人们开始活动,山村在寂静中迎来了自然于晚秋封闭的生命活动。
もしかすると、こんな暮らし方を、文明の発達は、自然に制約されない人間の営みをつくりだしていく過程でもあったのだから。一年じゅう同じリスも稼動する都市や工場の存在は、発達した文明の象徴でもある。そして実際には、山里でも自然に制約されない労働や暮らしの部分が拡大してきている。
或许这样的生活方式,只能证明文明的发达程度低下。文明的发达程度,是不受自然制约而创造人类营生的过程。整个一年以同样的节奏运转的都市和工厂的存在,就是发达文明的象征。然而在实际上,山村因不受自然的制约,劳动和生活部分可以扩大。
別にそれを非難しょうというのではない。人間が季節を克服していくのは、人間の自由だ。しかし私たちの背後には、季節とともにしか存在しえぬ自然の世界がある。そして人間は自然の恩恵を受けながら暮らしている。とすれば人間はどれほど文明を発達させようとも、かたわらで季節と共存し、季節としての時間の流れを引き受けなければならないのではないのか。
我不想对此作别的责备,人类克服季节的差别,这是人类的自由。但是在我们的背后,也有不与季节共同存在的自然世界。然而人类一边接受自然的恩惠,一边生活着,这么说来,人类一面不论让文明发达到什么程度,一面与季节共存着,不得不接受作为季节的这种时间的流逝吧。
春になると息を吹き返し、秋にはその活動を縮小していく時間の流れ、もしそれを人間たちが自然を一年じゅう同じように扱ったら、自然は壊されるばかりである。
一到春天,万物苏醒,到了秋天,就缩小了这种活动,如果人类不能接受这种时间的流逝,恐怕自然就要荒废了。人类如果在一年中同样地对待自然,只能破坏自然。
文明の発達度が低いほど、季節としてあらわれる一年の時間の流れと人間の暮らしが調和していたというのは、季節として時間の流れを克服した自然をつくりだそうとしているのかもしれない。
文明的发达程度越是低下,作为季节表现出来的一年时间的流逝与人类的生活正在调和之类的说法,是对人类历史的讽刺。哎呀,如上所述,人类现在也许克服了所谓季节的时间流逝,正在创造自然吧。
一年じゅう青々とした芝の広がるゴルフ場、人工雪を降らせたスキー場、農業でも施設園芸が一般化し、もしかすると一年じゅう成長しつづける木もそのうちに生みだされるかもしれない。自然の制約から抜けだそうとしてきた人間たちは、いま季節のない自然をつくりだしはじめたのかもしれないというような気さえするのである。
一年中,有绿色的宽阔草坪的高尔夫球场,有人工降雪的滑雪场,而农业在设施和园艺方面都一般化,也许在一年中,持续生长的树那时也生产出来了。我只觉得脱离了自然制约的人类,现在也许在开始创造没有季节的自然吧。
近代文明は四季があること自体を、めんどうなこととみなしてしまった。だから一年じゅう室温の変わらない工場をつくり、一年じゅう変わらない生活のリズムをつくりあげた。そしてそのことによって、私たちはしだいに自然を忘れていった。季節とつきあい、やりすごしながら、季節に助けられて暮らす生活を忘れることは、自然を忘れることである。
近代文明拥有四季本身,已经被看作一件麻烦事了。因此建造了整个一年室温不变的工厂,创造了整个一年不变的生活节奏。然后根据这样的发展,我们渐渐忘记了自然。我们与季节的交往被忽视了,在季节的帮助下过日子,却忘记了生活,也就是忘记了自然。
桜の花が咲くと私も花見にでかける。染井吉野の華やかさに驚き、霞のように白く浮きあげる山桜に足を止める。その桜の下で人々が花見の宴を盛り上げているのを見るのは楽しい。
樱花初开,我就出门赏花。对染井吉野樱花树的花团锦绣惊讶不已,在如霞的白色的山樱树下驻足。看到那樱花树下,人们的宴席盛大无比,感到由衷的快乐。
この時ばかりは、まるで季節を克服しようとしてきた文明の歴史に抵抗するかのように、私たちは人間もまた季節とともに生きていることを実感する。そして昔の人々と同じように、生命が湧き上げってくる春を楽しむ。自然と人間の関係をつなぐもののひとつに、四季という時間の流れがあることを、そのとき私たちはあらためて再発見しているのである。
『山里紀行』による
只有在这时候,抵抗似乎克服了季节差异而来的文明历史,我们才会有人类还在与季节共同生存着的切身体会。然后就如古代的人一样,为生命蒸蒸日上的春天而快乐。自然与人类的关系维系成一体,关于四季时间的流逝,那时候我们会有重新的再发现。
摘自《山村纪行》
ヤドカリ
寄生蟹
10年ぐらい前の、僕にとってはひどく暇な夏の夜、道を歩いていく1匹のヤドカリを見つけたことがあった。道路の隅をセカセカと歩いては立ち止まり、ため息をつくようなそぶりを見せてはまた歩みを速めた。
大约十年之前,在一个对于我来说是十分清闲的夏夜,我发现一只寄生蟹正在路上爬行。它沿着道路的一端匆匆走着,又停了下来,好像长叹了一口气似的,又快步走了起来。
たぶんデパートか夜店で売られたヤドカリが、飼われていた狭い水槽から逃げ出したのであろう。大通りを横切り路地を曲がり、目的地に向かって一心に急いでいるようであった。どこに行こうとしているのだろう。後をついていった。
它或许是某个百货商店,或是某个夜市摊位上出售的寄生蟹,从饲养它的窄小的水槽中逃出来的吧?它横穿大马路,爬过曲折的小巷,朝着目的地,一心一意匆匆地赶路。它到底要去向哪里呢?我跟在它后面看着。
午前零点に東京の本郷を歩いていたヤドカリは、2時間後には湯島にさしかかっていた。その方角で歩いていけばまもなく上野、その先が浅草、そして東京湾に入る。そうか、ヤドカリは歩いて海に帰るつもりなのか。アスフアルトの上でため息をつきながら、しかしその歩みは速かった。迎え入れてくれる海を目ざして、迷うことなく道を急いでいた。それはヤドカリの自由への逃走であった。
午夜12点,寄生蟹爬到了东京的本乡,2小时之后,逼近了汤岛。朝着这个方向爬去,不久就是上野,接着是浅草,然后进入东京湾。原来,它一直在爬着,是打算返回大海呀!寄生蟹趴在柏油马路上一边叹了口气,一边加快了脚步。它迎面而来的大海是它的目标,它毫不犹豫地匆匆赶路。这是寄生蟹向着自由的逃生之路啊。
あの汚れた東京湾より、もう少しマシな海に連れていってやりたいと僕は思い始めていた。何度か躊躇した後で、そのヤドカリを拾い上げた。家に連れて帰った。自由への逃走を挫折させられたヤドカリは、ひどく落胆してしまったようであった。餌も食べずに箱の隅でしょんぼりしていた。
我开始琢磨,与其让它去污秽的东京湾,不如把它带到干净一点的大海中去吧。几度犹豫之后,我终于拾起寄生蟹,将它带回了家。向着自由逃生却遭受挫折的寄生蟹,似乎显得十分气馁,喂它饵食也不吃,无精打采地缩在箱子的一隅。
翌朝、朝一番の特急に僕はそのヤドカリを連れて乗った。汽車が海岸線に出てきて潮風が伝わってくると、まだ気落ちしていたヤドカリは、にわかに騒がしくなってきた。ありったけの力で僕に抵抗をした。千葉の館山で下車して洲崎息のバスに乗る。以前によく行ったことのあった房総半島の突先の海岸に向かった。
第二天一早,我带着寄生蟹乘上第一班特快列车。火车临近海岸线时,传来了海风的气息,刚才还在落魄之中的寄生蟹,突然变得骚动起来,拿出全副力量向我抵抗。我在千叶的馆山下了车,乘上去洲崎的巴士,驶向以前常去的房总半岛海岸的最前端。
海岸に立つと、夏の太平洋の香りの強い浜風が僕の衣服をバタつかせた。かつてよくサザエ取りに岩場まで来ると、ヤドカリは渾身の力を振りし彫って僕の手を押し広げた。そうして岩の上へと飛び降りていった。体じゅうに波を浴びて。
站在海岸边,夏天太平洋馨香而强劲的海风将我的衣襟吹得哗哗作响。一来到过去常来拾海螺的岩石滩上,寄生蟹就使尽浑身力气,竭力从我的手中张开它的腿,然后跳到了岩石上面,整个身体沐浴在海涛中,在岩石背后隐藏起来。
僕は砂浜の落花生畑を横切り松林を歩いて、国道にと戻ってきた。バスに乗り、汽車に乗って東京に帰る。もしかすると重い殻を背負って海へと急いでいたヤドカリの健康な走りに生きることへの迷うことなき逃走に、僕は少しだけ羨望の思いを持っていたのかもしれなかった。
我横穿沙滩上的花生地,走过松树林,回到了国道。再乘巴士、火车回到了东京。那只背负着沉重的贝壳,向着海洋匆匆奔去的寄生蟹,它那健康的跑步姿势、它那为了生存毫不犹豫地逃走的勇气,或许使我生出了几分羡慕之情。
以海洋为目标,迎着海洋而奔走,我想我们似乎已失去了这样坚韧不屈的精神。从何时开始,我们失去了这种程度的求生冲动?难道生存已不再是令人向往的事情?
現代の僕たちには、生きるという問題が、精神のなかでブラックボックスのように、あるいは空白の円のように広がっているような気がする。ドーナツの輪の上を回るように生活をしているうちに、しだいに真ん中の空白は大きくなってきて、今はドーナツのような輪も、人がやっと歩けるだけの幅に狭まってしまったような気がする。
我觉得,对于我们这些现代人来说,所谓生存的问题,在精神的层面就像黑匣子、或像空白的圆圈一般,正在不断扩大。人们仿佛生活在旋转着的炸面圈的外圈,渐渐地,正中间的空白越来越大,而炸面圈的外圈却越来越窄,如今仅剩人们能迈步的幅度而已。
そうして、どんなに追い詰められた精神をもっていたとしても、それでも人は生きていけるという単純な事実に僕は落胆するのである。それは人間のもつ本質的な悲しさを、人はどこかにもっているのである。
因此让我感到沮丧的,是这样一个简单的事实:人的精神无论被逼迫到何种地步,人仍然能生存。我觉得这是人性本质上的悲哀。我总觉得,那种在战争中以杀敌为乐的感觉,正是人类所拥有的悲哀。
人間が肉体的に生きている、それは自分の生命のバランスがまだ保たれているということである。
人类以肉体形式存在着,就是还保持着自己生命的平衡。
しかしそれもまた人間の悲しいさであった。僕の体に与えられたさまざまな出来事が、体を狂わしていく。しかし人間の体は狂っているなりに、それでも生きようとする自然の力が働いて、体のなかに錘をつくり骨を曲げて、生きるためのバランスをとりつづけていくのである。屈折を重ねながら、ぢbっばぶんみじめな状態でも人の体はいきていこうとする。
可是这也正是人类的悲哀。使我的身体蒙受的各种变故,使我的身体失常。可是尽管人类的身体变得失常,求生的自然力却仍然在起作用,在体内形成重物,压弯骨头,以维持生存所需的平衡。虽然遇到重重挫折,可是不管在何种悲惨状态下,人体仍然能生存下来。
きっと人間の精神も同じことをしているのだろう。どこまで誇りを失っても、どんなにみじめな精神をもっていても、屈折したバランスを保ちながら人は生きていけるのである。
人类的精神也一定是同样的道理吧。自尊心无论丧失到什么程度,精神上无论有多么惨痛,却仍然卑躬屈膝,苟延残生。
海に向かってアスフアルトの道を歩いていったヤドカリの姿を、僕は時々思い出す。
寄生蟹朝着大海,爬过柏油马路的身影,时常在我的脑海盘旋。
彼は生きることへの憧れを、体いっぱいに表現していた。そんなありふれたことに、なぜ僕たちは感動しなければならないのだろうか。
『自然と労働――哲学の旅から』による
它对生存的向往,以它的身体力行表现得淋漓精致。如此见怪不怪的小事,为何能让我们感动不已呢?
摘自《自然和劳动——哲学之旅》

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