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中国空军奇袭武汉之谜 上

(2008-04-09 22:23:40)
标签:

军事

分类: 千里天狼 (军事, 历史)
在日本文献中看到对于1939年10月3日中国空军空袭武汉的战斗描述,还来不及翻译,但根据其主要内容可以判断,此战至少击毁击伤日机一百六十架,击毙日军鹿屋航空队副司令官小川弘大佐,木更津航空队副司令官石川淡大佐等多名高级军官。

http://img.ifeng.com/res/200709/0904_156248.jpg
中国空军SB-2快速轰炸机,有部分为苏联志愿航空队使用,是日军描述这次奇袭的杀手

特别是日方提到,当时在场的日军海军“第二航空队”司令官塚原二四三将军在此战中负伤致残。由于他致残后无法继续担任海上任务,原来极有可能由他担任的日军海上机动部队司令官职务,改由他的同学,没有航空指挥经验的南云忠一担任。

南云指挥的中途岛战役,是日本海军在太平洋战争中的转折点。如果是塚原而不是南云担任指挥,日军很可能避免失败的命运。中国空军的轰炸造成意料不到的效果云云。

http://www.sinoam.com/photo%20gallery%20pic/chineseAirforce/1.jpg
中国空军包括苏联志愿航空队使用的SB-2快速轻型轰炸机

日文原文:
漢口基地の奇襲

    ソ連が支那に送った「SB-2」は猛威を振るい、1939年10月には、日本軍が占領している漢口基地に大挙して奇襲攻撃を仕掛けました。ちょうどノモンハン事件が起きた直後で、日本の目が北方に集中している隙を突かれた訳です。

    その当時、日本海軍の空母艦載機部隊は「第2連合航空隊」として漢口の空軍基地に駐留していました。漢口飛行場は1500メートル級の滑走路を持ち、駐機場も広かったため、海軍のみならず陸軍航空隊も使用していました。

    1939年9月末には、日本海軍140~160機に加えて、陸軍の偵察機や連絡機の20機が「漢口飛行場」に集結していましたが、支那空軍の奇襲攻撃をまったく察知できませんでした。

    10月3日未明、12機のソ連製「ツポレフSB-2」高速爆撃機を主力とする爆撃部隊が飛来しますが、日本側の戦闘機は1機も在空せず、また対空砲火も準備できていません。そのため「SB-2」の支那側パイロットは落ち着いて爆撃することが出来ました。

    第1撃は高度6000メートルの高空から行なわれましたが、反撃がないため第2撃は高度1400メートルまで降下して爆弾を投下します。

    支那側12機からの爆弾は合計10トンにも満たないものでしたが、全弾が漢口飛行場に落下。日本側の航空機が『密集して』駐機されていたため、被害が甚大化、大火災が発生しました。

    日本側の損害は、全損が少なくとも60機、損傷は100機近くに達し、漢口飛行場にあった航空機の大部分は飛行不能と判断されました。

    さらに人的被害も大きく、死傷者240名、司令官の塚原ニ四三(海軍少将)は左腕切断の重傷を負います。九死に一生を得た塚原は、療養中の11月 15日に海軍中将に昇進しますが、左手を失ったことにより艦隊勤務は無理と判断されて以後、基地航空隊の指揮官にとどめられてしまいます。
http://sidenkai21.cocot.jp/tukahara%20sifumi.jpg
日本海军名将塚原二四三,1945年晋升海军大将

    塚原は、1921年に横須賀航空隊付として航空畑に転じて以降、●臨時航空術講習部員→●鳳翔副長→●航空本部教育部員→●航空本部総務部員→● 航空廠総務部長→●赤城艦長→●航空本部総務部長→●第2航空戦隊司令官→ ●第2連合航空隊司令官など、航空教育と部隊勤務をずっと繰り返しています。塚原ほど航空に精通した人材もいなかった訳ですが、片腕を失ったことで(海上 での艦隊勤務は無理)、機動部隊司令長官に任ずる事ができなくなってしまいます。

    結局、塚原と同期(海兵36期)ながら、航空にまったく縁の無かった「南雲忠一」を機動部隊司令長官にせざるを得なくなり、支那の爆撃は思わぬところで大きな影響を及ぼすことになりました。

    片腕を失っても軍務を続けられた(予備役に回らなかった)のは、塚原がいかに航空分野で必要とされていた人材かが分かるでしょう。もし重傷を負わなければ、機動部隊を率いていたのは塚原だった可能性も高いです。

    太平洋戦争開戦時、塚原は「第11航空艦隊司令長官」。緒戦のフィリピン奇襲爆撃、マレー沖海戦での英戦艦2隻の撃沈、ラバウル航空隊など最前線 で奮闘したことが救いといえば救いかもしれません。漢口飛行場の場合、ちょうど1938年10月3日に木更津航空隊から補充機がやって来るというので、塚 原司令官以下、幹部のほとんどが戦闘指揮所前で集まっていたところに爆弾が降ってきたという不運もあります。味方機と思って無警戒のところにドカンです。

この爆撃で塚原の他に、石川淡・木更津空副長、小川弘・鹿屋空副長なども爆死しています。ちなみに漢口飛行 場は、もとは競馬場を整地して造ったものであり、奇襲については、坂井三郎が『大空のサムライ』の中で「最悪の厄日の出来事」という見出し内容で書いてい ます。

戦史叢書『中国方面海軍作戦<2>』では、支那空軍の「SB-2」などの爆弾50数個はほとんどが近くの水田に落ちたとあり、飛行機の損害については触れていません。

这篇文章如果大家有兴趣,我可择空翻译出来,不过,这里有个很让我头疼的问题 --

在中方的记录中,我找不到1939年10月3日轰炸武汉机场的记录。记录中有苏联志愿航空队大队长库里申科曾经与中国空军一起空袭武汉,而且其殉难经过与 日本王牌飞行员坂井三郎对自己此战中记录的中国空军殿后机过程十分吻合。然而,库里申科的死,很多文献记载是1939年10月14日,如果是那样,与这次 空袭就对不上了。

有哪位朋友熟悉或掌握这次空袭的中方史料和库里申科大队长的确切殉难日期,请不吝赐教,非常感谢。

结果,我贴出来不到一个钟头,有个哥们儿来信了 -- 你甭翻了,我给你翻完了。

中国人是藏龙卧虎阿,一个钟头¥#¥#····

等我看看。

[待续]

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