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第13課美しさの発見高階秀爾

(2017-03-29 04:26:28)
标签:

课文

美しさの発見

杂谈

分类: 所见所思

应博友的要求,本期将《日语阅读教程2》中的一课展示于此。这是提交出版社时的初稿。

第13課

美しさの発見

高階秀爾

コロンブスは、アメリカ大陸を発見した。

キュリー夫人は、ラジウムを発見した。

「発見」という言葉は、普通このような場合に用いられる。私が小学生の頃、『発明発見物語』という本が子供たちの間に人気があって、もちろんコロンブスやキュリー夫人なども登場してきたが、その中に、「発明」というのは今までになかったものを新しく創り出すことで、「発見」とは、昔からちゃんと存在はしていたけれど誰も気づかなかったものを見つけ出すことだというような説明があったと記憶している。つまり、飛行機はライト兄弟が「発明」するまで、どこにも存在していなかったが、アメリカ大陸は、昔からちゃんと存在していた。ただ、コロンブスがそれを「発見」するまでは、西欧人にその存在が知られていなかったにすぎないと()いうわけである。

だがそれでは、「美しさの発見」というのも、やはり同じことだろうか。

山路来て何やらゆかしすみれ草

という芭蕉の一句には、確かにそれまで誰も気づかなかったような新鮮な美しさの「発見」がある。セザンヌは、サント?ヴィクトワール山を描き出した作品で、それまで誰も表現しなかったような新しい美を表現した。われわれは、山道を歩きながら道端にふと一輪の淡い紫色の花を見つけ出した時、十七文字の中に凝縮された芭蕉の世界の微妙な旋律を思い出さな()いわけにはいかないし、セザンヌの絵を知った後には、それ以前と同じような眼でサント?ヴィクトワール山を眺めるわけにはいかない。コロンブスやキュリー夫人の「発見」がわれわれの知識の世界を広げてくれたのと同じように、芭蕉やセザンヌの「発見」も、われわれの感受性の世界を大きく広げてくれたに違いないのである。

しかし、それでは、芭蕉やセザンヌが「発見」したというものは、いったい何なのだろうか。

それがすみれの花そのもの、あるいはサント?ヴィクトワール山そのものではないことは、明らかである。それだったならば、それは「発見」の名に値しないものであったろう。芭蕉はそれまで誰も知らなかった新種の草花を見つけ出したわけではないし、セザンヌは地図に載っていないような未知の山を発見したわけでもない。それどころか、サント?ヴィクトワール山は、昔からプロヴァンス地方の人々にとっては、毎日見慣れている極めて親しい山であったはずだし、恐らくは逢坂山(おうさかやま)を越える山道のどこか道端にひっそりと咲いていたすみれ草を見つけたのも、決して芭蕉が最初ではなかったはずである。

それで彼らは、花や山そのものではなく、花や山に内在していながら、それまで誰も気づかなかった何か特殊な性質、ないしは価値を見つけ出したと言うべきであろうか。そして、その特殊な性質、ないしは価値が、美しさと呼ばれるものと考えてよいのであろうか。

もしそうだと()すれば、「美しさ」というのはすみれ草や山から発するい()わば放射能のようなもので、優れた詩人や画家がそれに気づくまでは人々から隠されているが、いったん芸術家がそれを「発見」すれば、人々の眼にも明らかなものとなり、芸術家はそのエッセンスを凝縮して作品の中に定着させることによって、いっそうはっきりとその姿を人々に提示するのだということになる。

つまり、相手は自然の風物であっても、あるいは芸術作品であって()も構わないが、い()ずれにしても「美しさ」はその相手のほうにあって、われわれは、何らかの手段でその「美しさ」を受け取る、ないしは感じ取るわけである。

このように「美しさ」を本質的に対象そのものの持つ属性であるとする考え方は、はっきりそう意識されてはいないにしても、かなり広く一般に受け入れられていると言ってよい。

芥川龍之介が小学生の頃、先生が教室で「美しいもの」の例を挙げなさいと言った時、少年龍之介が「雲」と答えて先生に叱られたという話を、以前どこかで読んだことがある。ほかの子供たちは、「花」とか、「富士山」とか答えたのに、龍之介が「雲」と言ったので、教室中が失笑し、先生は、雲が美しいものだなどというのはおかしいと叱ったのである。このエピソードは、龍之介が子供の頃からいかに鋭敏な感受性の持ち主であったかということを示すものとして、しばしば引き合いに出されるが、それと同時に、先生の方が──それと他の生徒たちも──「美しさ」というものを「花」や「富士山」の中に内在しているある種の性質と考えていたことをも裏付けている。つまり、ラジウムやウラニウムには放射能があるが、その辺の道端の石っころには放射能がないというのと同じで、龍之介がたまたま、「美しさ」という放射能を持ったものとして「雲」と言ったので、皆笑い出したのである。

しかし、「美しいものは雲」と答えた時の少年の心の中に、確かにある種の実感があったに違いないことは、容易に想像される。われわれは、魂が高揚している時、例えば人を愛している時には、空の雲にも涙を流すことがある。詩人というのは、人並み優れた鋭い感受性と柔軟な魂の持ち主だから、普通の人が何とも感じないような平凡なものに、思いもかけず「美しさ」を見出すということは、しばしばあるに違いない。だが、もしそうだとしたら、「美しさ」は、草花や山といった対象にあるのではなく、それを「美しい」と感じる人間の心のほうにあると言わなければならないのではないだろうか。つまり、放射能のようにあるものに属する性質というよりも一人一人の人間の心の中にふと灯った燈火のようなものではないだろうか。

芭蕉とセザンヌは、時代も、国も、表現手段も、まるで違っていて、お互いどうしなんの関係もなさそうに見える。しかし芭蕉のすみれ草の句に「美しさ」を発見する心は、セザンヌのサント?ヴィクトワール山の画面に感動する心と、無縁のものであるとは決して言い切れない。むしろ、芭蕉の句に心ひかれるものを感じることのできる人こそが、セザンヌの造形の持つ「美しさ」をも理解しうると言ってよいのではないだろうか。

セザンヌの作品に感動するのも、名もない職人の作った民衆の中の作品にひかれるのも、地中海の水の泡から生まれたと伝えられる美の女神を表現した遠い昔の彫刻に心を震わせるのも、突き詰めて考えれば、結局同じ一つの心のはたらきにほかならない。「美しさ」を知ることは、そのまま、心の世界の広がりを保証してくれるものだと()言ってもよいであろう。

『新編国語総合』(東京書籍)より

注釈

高階秀爾(たかしなしゅうじ)

(1934-)東京都生まれ。美術評論家。主な著作に、『芸術狂気人間』『名画を見る眼』『美の回廊』『日本の美を語る』などがある。

芭蕉(ばしょう)

松尾芭蕉(1644-1694)江戸時代前期~中期の俳人。

山路来て 何やらゆかし すみれ草 

「山路を越えて来て、ふと紫色のすみれの花を見つけ、何とはなしに心が引かれるよ」の意。

セザンヌ

ポールセザンヌ(1839-1906)フランスの画家。/保罗·塞尚

サント ヴィクトワール山

セザンヌの生まれ故郷の町プロヴァンスの東側にそびえる石灰岩質の山脈。セザンヌは若い頃からこの山を繰り返し描いている。/圣维克多山

一、新しい単語

西欧人(せいおうじん)

<名>

西欧人

山路(やまじ)

<名>

山路,山中小路

ゆかし

<形シク>

诱人的

すみれ草(すみれぐさ)

<名>

堇菜,紫地丁

一句(いっく)

<数>

一句;一首俳句

一輪(いちりん)

<数>

一朵

凝縮(ぎょうしゅく)

<名自他サ>

凝缩,凝聚;凝结

戦慄(せんりつ)

<名自サ>

战栗,颤抖

感受性(かんじゅせい)

<名>

感受力,感受性

値する(あたいする)

<自サ>

值,值得;有某种价值

新種(しんしゅ)

<名>

新种

プロヴァンス(Provence)

<名>

普罗旺斯(位于法国东南部)

恐らくは(おそらくは)

<副>

恐怕,大概

逢坂山(おうさかやま)

<名>

逢坂山(位于兹贺县与京都交界处)

内在(ないざい)

<名自サ>

内在

ないしは

<接>

到,至;或,或者(「ないし」的强调)

いわば

<副>

可以说,说起来,可谓是

エッセンス(essence)

<名>

精华,精髓,本质

風物(ふうぶつ)

<名>

景物;风物

なんらか

<副>

一些,某些,稍微

失笑(しっしょう)

<名自サ>

失笑,不由得发笑

引き合い(ひきあい)

<名>

引证,见证人;询价

裏付ける(うらづける)

<他一>

证实,证明,印证

ウラニウム(uranium)

<名>

石っころ(いしっころ)

<名>

小石子,石块

魂(たましい)

<名>

魂,灵魂;魂魄,精神

高揚(こうよう)

<名自他サ>

高昂,昂扬

持ち主(もちぬし)

<名>

持有者,所有人,物主

ともる

<自五>

点亮

灯火(ともしび)

<名>

灯火,灯光

無縁(むえん)

<名形動>

无缘

句(く)

<名>

句;俳句

心ひかれる(こころひかれる)

<連語>

吸引人,迷人

造形(ぞうけい)

<名自他サ>

造型

女神(めがみ)

<名>

女神

彫刻(ちょうこく)

<名自他サ>

雕刻,雕塑

突き詰める(つきつめる)

<他一>

追究到底;左思右想

二、文法と慣用句

1.…というわけだ

理所当然是……

(1) イギリスとは時差が9時間あるから日本が11時ならイギリスは2時(だ)というわけだ。

(2) 彼女の父親は私の母の弟だ。つまり彼女と私はいとこ同士(だ)というわけだ。

(3)「明日から温泉に行くんだ。」「へえ、いいね。じゃ、仕事のことを忘れて命の洗濯ができるというわけだ。」

(4) この時点においてすべてのデータは、ほぼ完全に救出不能になったというわけです。

2.…ないわけにはいかない

不能不……

(1) いくら忙しくても、親友の結婚式であれば、出席しないわけにはいかない。

(2) 資金が思うように集められないので、計画を縮小しないわけにはいかない。

(3) 面倒だからといって、細かい所に注意を払わないわけにはいかない。

(4) この会社から給料をもらっている以上、会社のために働かないわけにはいかない。

3.…とすると/とすれば/としたら

假设……的话

(1) あの時始めていたとすると、今ごろはもう終わっているだろう。

(2) このまま後継者が決まらないとすると、社内は大混乱になるでしょう。

(3) 仮にあなたの話が本当だとすれば、彼は嘘をついていることになる。

(4) もし、この世の中で二度の命が与えられるとしたら、私はあなたのような生き方をしたい。

4.いわば…ようだ

说起来……,可以说是……

(1) 卒業証書はいわば社会へのパスポートのようなものだ。

(2) 私達は子供の時から同じ家の中で育てられたのでいわば兄弟のようなものです。

(3) そんな商売に手を出すなんて、いわばお金をどぶに捨てるようなものだ。

(4) コンピューター?ネットワークはいわば脳神経のように地球に張り巡らされているといってもいいだろう。

5.…てもかまわない/でもかまわない

……即使……也没关系,……也行

(1) 品物さえよければ、すこしくらい高くてもかまいません。

(2) 家さえよければ、交通が不便でもかまいません。

(3) その本を読みたければ、持っていってもかまわない。

(4) 意味が通じるのなら、表現は多少不自然でもかまわない。

6.いずれにしても/いずれにせよ/いずれにしろ

不管怎么说……,不管怎样……,总之……

(1) 賛否いずれにしても態度表明は必要だ。

(2) 新幹線でも飛行機でも、何で行ってもいいが、いずれにしても荷物は先に送っておいたほうが楽だ。

(3) いずれにせよ敗北は敗北だ。

(4) 経済を優先させたら自然環境の改善は困難だし、自然環境を優先したら経済は停滞する。いずれにせよ深刻な問題である。

7.…にしても

即使……也

(1) あまりかからないにしても、十万円ぐらいはかかるでしょう。

(2) 貧しいにしても、人から施しは受けたくない。

(3) 痩せたいにしたって、食事もしないのはよくない。

(4) たとえ冗談にしても、そんなことはいうべきではない。

8.いかに…か

如何……呢?怎样……呢?

(1) いかにこれらの事件に対処すべきか。

(2) いかに生きるべきか。これは一生の問題である。

(3) 皆様の立場にたって不良債務の償却をいかにするかを考えていきます。

(4) この町がいかに暮らしやすいかは、住んでいる人々の表情からもうかがわれる。

9.…と言ってもよい

可以说……

(1) それだけ食欲が出れば、十分に健康を取り戻したと言ってもよいだろう。

(2) あの人は不思議な人物である。でも言い換えればそれこそが彼の魅力であるといってもいい。

(3) 地震、台風などによる災害の多い点から見て、日本は世界一の天災国だと言ってもよい。

(4) 氾濫といってもいいくらい、自動車はひっきりなしに通過している。

三、語彙の使い方

1.なんらか

何らかの参考にはなるだろう 何らかの手段を取る 何らかの貢献をする 

何らかの可能性はある 二つの事件は何らかの関係がありそうだ

2.裏付ける

犯行を裏付ける証拠 主張の正当性を裏付ける 自分の理論を裏付ける資料 

事実が彼の言葉を裏付ける

3. なんとも

(1) 今のところ何とも言えない 何とも説明がつかない その件については何とも言いようがない

(2) 転んだが何ともなかった 悪口なんか何とも思わない 徹夜しても何ともない

(3) 何とも申し訳ありません 何とも恐縮です

4. 値する

一見に値する 賞賛に値する 読むに値しない 注目に値しない 

この実験は「科学」の名に値しない

5. 気づく

(1) 誤りに気づく 忘れ物に気づく 守備に気付かれないように進入する 

  彼は彼女を傷付けているとは気付かなかった

(2) 気付いたときは病院のベッドの上にいた 

6. 突き詰める

(1) 物事を突き詰めて考える

(2) とことんまで突き詰める さらに突き詰めて検討する 

(3) 突き詰めた表情 突き詰めてノイローゼになる

四、練習

1. 次の漢字の読み方を練習しなさい。

大陸  芭蕉  道端  一輪  淡い  凝縮  戦慄  風物 失笑

芥川龍之介  魂  柔軟  女神 震う

2. a.b.c.d.e.fの中から適当なものを選らんで( )の中に入れなさい。

   a.というわけだ b.とすれば c.ないわけにはいかない

   d.てもかまわない e.いずれにしても f.と言ってもよい

(1) 必ず日本文字を使用すること。日本文字であれば、漢字、ひらがな、カタカナいずれでもよく、常用漢字でなく(   )。

(2) 彼女の父親は私の母の弟だ。つまり、彼女と私はいとこ同士だ(   )。

(3) これは、この作家の最高の傑作(   )だろう。

(4) われわれの計画が敵に知られていた(   )、仲間の誰かがもらしたことになる。

(5)後遺症が出る可能性もあるが、(   )回復に向かっていることは確かだ。

(6) 今日は車で来ているので、お酒を飲むわけにはいかないが、もし先輩に飲めといわれたら飲ま(   )し、どうしたらいいだろうか。

3.(1)~(7)の言葉の意味をa~gから選び、(  )に記号を書きなさい。

(1) 気になる ( )

(2) 気を落とす ( )

(3) 気をつける ( )

(4) 気に入る ( )

(5) 気がつく ( )

(6) 気を配る ( )

(7) 気にする ( )

           a. あることに考えが及ぶ。あるいは細かいところまで注意が行き届く。

           b. 心配事があって、どんな結果になるかと、絶えずそのことが意識される。

           c. 何か不安感や不快感を感じ、そのことに絶えずこだわっている。

           d. 何かを好ましく感じ、積極的に受け入れようとする気持ちを抱く。

           e. 期待や希望が失われてがっかりする。

           f. 何かをする際に、誤りや失敗などがないように心を配る。

           g. 失敗などがないように、あれこれと十分に注意を払う。

4. 上の(1)~(7)から適当な言葉を選び、必要なら形を変えて、に書きなさい。

(1)た洋服がたくさんあったので、前後の見境なく買い込んでしまった 。

(2)試験の結果が分からないうちは、どうもて落ち着かない。

(3) 朝になってから、戸締まりをしていなかったのにた。

(4)大事の前の小事で、つまれぬ中傷などてはいられない。

(5)夜間は、周囲に十分、スピードを抑えた運転をしましょう。

(6) 目上の人と話すときは、もう少し敬語の使い方にように。

(7) 優勝できなかったからといってないでください。また来年頑張ればいいじゃないですか。

5. 次の文を中国語に訳しなさい。

(1) もしそうだとすれば、「美しさ」というのはすみれ草や山から発するいわば放射能のようなもので、優れた詩人や画家がそれに気づくまでは人々から隠されているが、いったん芸術家がそれを「発見」すれば、人々の眼にも明らかなものとなり、芸術家はそのエッセンスを凝縮して作品の中に定着させることによって、いっそうはっきりとその姿を人々に提示するのだということになる。

(2) 芭蕉とセザンヌは、時代も、国も、表現手段も、まるで違っていて、お互いどうしなんの関係もなさそうに見える。しかし芭蕉のすみれ草の句に「美しさ」を発見する心は、セザンヌのサント?ヴィクトワール山の画面に感動する心と、無縁のものであるとは決して言い切れない。むしろ、芭蕉の句に心ひかれるものを感じることのできる人こそが、セザンヌの造形の持つ「美しさ」をも理解しうると言ってよいのではないだろうか。

(3) 余暇というものをどう考えたらよいか。余暇の問題は、漸次重要な問題になっていく。なぜなら、科学技術の発展とともに、生産力は向上し、人間の労働時間が短縮するのは、資本主義国と社会主義国とを問わず、科学技術を採用している現代の文明のたどる必然の方向であるからである。むしろこのことはよいことなのである。なぜなら人間が、衣食の心配から解放されて、自由の時間を持つことは、何よりも人間にとって望ましいことだからである。かつて人類にとって、自由な時間は、ぜいたく以外の何物でもなかった。なぜなら、人類の大多数が、生存を維持するために労働を余儀なくされている時、そのような労働に従事しない人間は、それだけで、罪を背負っていたからである。ここでは、閑暇は全く少数の例外者にのみ許された特権であった。

(4) 私は東京生まれの東京育ちのせいか、少年時代に覚えて以来、頭を離れないこの三つの歌、特に「ふるさと」の歌は、その後、ときにふれ思い出され、そんな村がほんとうにあるのだろうか、と今日まで、見果てぬ夢を追ってきたのである。実は、この歌の舞台は、架空な桃源郷を求める心が生んだものだろうと、最近あきらめていた。しかし、今年に入って、それが実在する村であり、そこに生まれ、青春期までを過ごしたある人の実感的作詞であることを知って、さっそく飛んでいきたいような衝動にかられたのである。

(5) 日本は、ヨーロッパ諸国の軍事力の圧力の前にとうてい敵(てき)しがたい自己を感じるとともに、ヨーロッパの科学技術文明の生み出す生産力に驚嘆したのである。ヨーロッパ文明を移入して、強く豊かな国を作れ、それが過去百年の間の日本の目標であった。こういう目標に自己を集中させた日本は、したがって、ヨーロッパ諸国よりはるかにヨーロッパ的な技術文明を重んじる国となった。科学技術文明は、ヨーロッパにおいて、伝統的な精神文明、特にキリスト教文明との調和の中にあった。しかし日本やアメリカやロシアのように、遅れて科学技術文明を採用し、性急に近代化を試みる国において、このような調和はあまり問題とされずに、技術文明だけが性急に移入されたのである。

6.次の文を日本語に訳しなさい。

(1) 我平时不怎么做饭,这并不是不愿意做饭,而是因为太忙,只是没有时间做。(…というわけではない)

(2) 实际上已经决定录用他了,但是在形式上即使麻烦也必须进行笔试和面试。(…ないわけにはいかない)

(3) 等到现在还没有答复,我看他可能根本就没想接受吧。(…とすれば)

(4) 做这种生意就好比往臭水沟里扔钱一个样。(いわば…)

(5) 本来乘出租车去也可以,不过,说是用车送我,我就坐他的车了。(…てもかまわない)

(6) 想干的工作很多,但不管怎么说,在这种经济萧条的情况下,似乎难以找到满意的工作。(いずれにしろ)

(7) 这种想法产生于美国经济学,可以说它是支撑着美国理论经济学的重要原理之一。(…といってもいい)

7.次の問いに答えなさい。

(1)「発見」と「発明」は、一般的にどんな違いがありますか。

(2) 筆者が、芭蕉の句やセザンヌの作品を例に引いて示そうとしたのは、美しさについてのどのような考え方ですか。

(3) 筆者が、芥川龍之介の小学生のころのエピソードを例に引いて示そうとしたのは、美しさについてのどのような考え方ですか。

(4) 「『美しさ』を知ることは、そのまま、心の世界の広がりを保証してくれるものだ」とありますが、どうしてそのように言えるのですか。

练习答案

1. 大(たい)陸(りく)  芭(ば)蕉(しょう)  道(みち)端(ばた)  一(いち)輪(りん)  淡(あわ)い  凝(ぎょう)縮(しゅく)  戦慄(せんりつ)  風物(ふうぶつ) 失笑(しっしょう)

芥(あくた)川(がわ)龍(りゅう)之(の)介(すけ)   魂(たましい)   柔( じょう)軟(なん)   女(め)神(がみ) 震(ふる)う

2. (1)てもかまいません (2)というわけだ  (3)といってもいい

(4)とすれば (5)いずれにしても (6)ないわけにはいかない

3. (1) b (2) e (3) f (4) d (5) a (6) g (7) c

4. (1)気に入っ (2)気になっ (3)気が付い (4)気にし(5)気を配り (6)気をつける (7)気を落とさ

5.

(1) 如果是这样的话,那么所谓“美”就像是从紫地丁或山体中发射出来的放射能一样的东西,在优秀的诗人

或画家发现它之前,一直无人知晓。然而,一旦艺术家“发现”了它,它就会清晰地映入人们的眼帘。艺

术家凝缩了它的精华,并将其植入作品当中,于是就把它的形象更清晰地揭示给世人了。

(2) 芭蕉和塞尚所处的时代、国家以及作品的表现手法全然不同,两者间似乎没有任何关联。然而,我们却决不

能断言,在芭蕉的紫地丁俳句中发现“美”的心,与欣赏塞尚的作品圣维克多山的画面而感动的心也毫无关

联。莫如说,能被芭蕉的俳句牵动心绪的人,才能理解塞尚所塑造的“美”。

(3) 如何认识余暇这个问题呢?余暇的问题渐渐变得很重要。这是因为,随着科学技术的发展,生产力会提高,

人类的劳动时间会缩短,这无论在资本主义国家还是在社会主义国家,都是采用科学技术的现代文明所追寻

的一条必由之路。这莫如说是一件好的事情。因为人类从衣食之忧中解放出来,拥有自由的时间,这对人类

来说是最值得期待的事情。以前,对人类而言,拥有自由的时间无非是一种奢侈。这是因为人类的大多数为

了维持生存不得不去劳动的时候,不从事这种劳动的人只因为这一点就背上了罪名。在这里,闲暇仅仅是少

数例外者所能享有的特权。

(4) 也许是东京土生土长的缘故,我从少年时代会唱以后一直在萦绕在脑际的这三首歌,尤其是《故乡》这首

歌,后来时常浮现在我的记忆中。真的有那样的一个村庄吗?至今我仍在寻觅着这个魂牵梦绕的地方。最近

我灰心了,我觉得实际上这首歌曲的舞台或许是追求一种虚幻的世外桃源的内心想象。然而,到了今年我才

知道,那是一个现实存在的村庄,是一位出生在那里,并且在那里度过了青春时代的人写出的有切身感受的

歌词。所以我产生了一种冲动,想马上到那里去看一看。

(5) 日本在欧洲各国的军事压力面前感到自己难以对抗,与此同时,又对欧洲的科学技术文明所产生的生产力

发出惊叹。引进欧洲文明,建设一个强大、富饶的国家,这是过去百年来日本的奋斗目标。日本为实现这

一目标倾注了自己全部的力量,因此成为远比欧洲各国还要重视欧式技术文明的国家。科学技术文明在欧

洲存在于传统的精神文明、特别是与基督教文明的协调当中。可是,在日本、美国、俄罗斯这样的采用科

学技术文明较晚,却急切地试图实现现代化的国家里,这种协调并没有受到多大的重视,只是迫不及待地

引进了技术文明。

6.

(1) 私はふだんあまり料理をしないが、料理が嫌いだというわけではない。忙しくてやる暇がないだけだ。

(2) 実際にはもう彼を採用することに決まっていたが、形式上は面倒でも、試験と面接をしないわけにはいかなかった。

(3) 今まで待っても返事がないとすれば、彼はもともと引き受けてくれる気がなかったのだろう。

(4) そんな商売に手を出すなんて、いわばお金をどぶに捨てるようなものだ。

(5) タクシーで行ってもかまわなかったのだが、車で送ってくれるというので、乗せてもらった。

(6) やりたい仕事はいろいろあるが、いずれにしろこんな不況では希望する職にはつけそうもない。

(7) これはアメリカ経済学から生まれた考え方で、今のアメリカ理論経済学を支えている重要な原理の 一つだといってもいい。

7.(略)

课文译文:

美的发现

(日)高阶秀尔

  哥伦布发现了美洲大陆。

  居里夫人发现了镭。

  “发现”这个词一般用于这种场合。我上小学的时候,《发明发现物语》这本书孩子们很喜欢,当然哥伦布和居里夫人也出现在这本书里。记得在书中有这样的解释:“发明”是指新制作出的迄今不曾有的东西,而“发现”是指找到以前就存在的,却没有人注意到的东西。也就是说,飞机在莱特兄弟“发明”以前,任何地方都没有。而美洲大陆自古以来就存在,只不过在哥伦布“发现”它之前,西欧人不知道它罢了。

  那么,“美的发现”也是同一码事吗?

蜿蜒山路行 独怜小花道边生 一株紫地丁(也称“堇菜”——译注)

http://s8/mw690/002YEOTEzy6LevmgmVx47&690

  在芭蕉的这首俳句中的确有一个新鲜的美的“发现”,这种美是人们从未注意到的。塞尚在他画的圣维克多山的作品中,描绘出了自古以来没有任何人画出来的崭新的美。我们行走在山路上,突然发现路边有一朵淡紫色的花,这时心中必然会浮现出凝缩在这十七个文字中的芭蕉世界的微妙的旋律。欣赏了塞尚的画之后,就不会再用以前那样的目光去看圣维克多山了。哥伦布与居里夫人的“发现”拓宽了我们的知识领域,同样,芭蕉与塞尚的“发现”也一定大大扩展了我们感受性的世界。

  那么,芭蕉与塞尚所“发现”的到底是什么呢?

http://s11/mw690/002YEOTEzy6LevBaoT8da&690

显然,那并非紫地丁本身、或圣维克多山本身。如果是这样的话,那也许就不能称之为“发现”了。并不是芭蕉发现了迄今为止无人知晓的花草的新品种,也不是塞尚发现了地图上所没有的未知的山。不仅如此,对于普罗旺斯地区的居民来说,圣维克多山是每天都能见到的极熟悉的山。大概在翻越逢坂山的山路路旁,也决不会是芭蕉第一个发现紫地丁悄悄绽放的吧。

  因此,可以说他们发现的不是花或山的本身,而是在花或山上蕴含着的、迄今为止尚没有人注意到的、某

http://s13/mw690/002YEOTEzy6LevQRpda4c&690

种特殊的性质或价值吧。并且可以认为,或许那种特殊的性质或价值就是被称为美的东西。

如果是这样的话,那么所谓“美”就像是从紫地丁或山体中发射出来的放射能一样的东西,在优秀的诗人或画家发现它之前,一直无人知晓。然而,一旦艺术家“发现”了它,它就会清晰地映入人们的眼帘。艺术家凝缩了它的精华,并将其植入作品当中,于是就把它的形象更清晰地揭示给世人了。

  总之,对象是自然景观也罢,是艺术作品也罢,不管怎样,“美”都存在于那个对象的身上,而我们是通过某种手段来获取,或者感受这种“美”的。

  可以说,如此从本质上把“美”当作对象本身所具有的属性这一想法,即使没有被清楚地意识到,也相当广泛地被世人所接受了。

  我曾在某处看过这样一段逸闻:芥川龙之介上小学时,老师在课堂上让大家就“美的东西”举出例子。少年时代的龙之介举出了“云彩”,结果被老师批评了。其他的孩子们有的说“花”,有的说“富士山”,而龙之介却说了“云彩”,因此教室里的人失笑。老师批评龙之介把云彩说成美的东西很可笑。这段逸闻常常被引用来说明龙之介在小时候就拥有非常敏锐的感受性。同时,也证明了这位老师(以及其他的学生们也)认为“美丽”是“花”和“富士山”内部存在的某种性质。也就是说,镭和铀具有天然放射性,而附近路边的石子却没有放射性,与此道理相同,因为龙之介无意中把“云彩”当作具有“美”这种放射能的东西举了出来,所以大家都笑了。

  但是,回答“云彩是美的东西”的男孩子心中肯定确实有一种真实感,这一点不难想象。我们在情绪高昂之时,比如说当我们爱着一个人时,有时看见天上的云彩也会落泪。由于诗人拥有比常人更为敏锐的感受性和活跃的思想,面对常人毫无感触的平凡的东西,他们往往会意外地发现它们的“美”。然而,如果是这样的话,“美”就并非存在于花草或山脉这样的对象身上,而应当说它存在于能够感受到它“美”的人的心中。总之,与其说“美”像放射能一样,是某种东西的性质,莫如说它是在每个人心中突然亮起来的一盏灯。

  芭蕉和塞尚所处的时代、国家以及作品的表现手法全然不同,两者间似乎没有任何关联。然而,我们却决不能断言,在芭蕉的紫地丁俳句中发现“美”的心,与欣赏塞尚的作品圣维克多山的画面而感动的心也毫无关联。莫如说,能被芭蕉的俳句牵动心绪的人,才能理解塞尚所塑造的“美”。

  我们会被塞尚的作品所打动,也会被默默无闻的工匠创作出的民间艺术作品所吸引,塑造出了传说诞生于地中海泡沫中的美之女神的古老雕塑会使我们心灵震撼,归根结底,这些都是同样的一颗心的感受。可以说,认识“美”,那就一定会让心灵的世界广阔无垠。

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