「ぼくとお父さんのおべんとうばこ」 我和爸爸的便当盒

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去年11月30日刊登在《朝日新闻》教育频道的报道。图为2006年,三岁的片山君和他的爸爸俊作,几个月之后,片山君的爸爸俊作因病去世。
爸爸因病去世三年之后,我成了一名小学一年级学生。
有件事要向爸爸汇报一下,我想,爸爸也一定知道了:我借用了您的便当盒。
ぼくは、きのうのことをおもいだすたびにむねがドキドキします。
一想起昨天的事情,我的心还在怦怦直跳。
之所以说昨天的便当盒很特别,那是因为第一次使用了爸爸的便当盒。爸爸去世后,我非常寂寞、非常难过。
おとうさんのおしごとは、てんぷらやさんでした。おとうさんのあげたてんぷらはせかい一おいしかったです。ぼくがたべにいくと、いつもこっそり、ぼくだけにぼくの大すきなエビのてんぷらをたくさんあげてくれました。そんなとき、ぼくはなんだかぼくだけがとくべつなきがしてとてもうれしかったです。あれからたくさんたべて空手もがんばっているのでいままでつかっていたおべんとうばこではたりなくなってきました。
爸爸在“天妇罗屋”工作,他油炸的天妇罗,是世界上最好吃的。每次我去吃的时候,爸爸总是悄悄地、为我炸许多我最最喜欢的“海老天妇罗”。那种时候,我不由得感觉到自己很特别,因此十分开心。那以后我每天吃得多多的,还努力练习空手道,以至于一直使用的便当盒变得不够用了。
とぼくがいうと、おかあさんがとだなのおくからおとうさんがいつもしごとのときにもっていっていたおべんとうばこを出してきてくれました。
“我想要个大点的便当盒!”
那天我这么一说,妈妈便从橱柜的里边将爸爸上班时常常使用的便当盒拿出来给了我。
といいました。でもぼくはおとうさんのおべんとうばこをつかわせてもらうことになったのです。
“对悠来说,会不会太大了些呢?”
然后,就是从早上开始等了又等的吃便当的时间。我将便当全部吃得光光的。吃完之后觉得自己就像爸爸一样,变得又强大又温和,变得很想见到爸爸。到现在回想起这么高兴又好吃的特别的便当,心里还怦怦地跳个不停。
如果能够向神许愿的话,我想要能再一次和爸爸、妈妈、妹妹一起生活。不过爸爸一直在天空中守护着我们。
虽然爸爸不在会很寂寞,但我是家里的唯一的男孩子,我会代替爸爸保护好妈妈和妹妹,我会用爸爸的便当盒好好地吃饭,成为更加更加坚强的、温和的男孩子。
本文源地址:http://www.asahi.com/edu/kosodate/news/TKY201011300226.html
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日文新闻:
お父さんのおべんとうばこ 心震える片山君の作文
第4回「いつもありがとう」作文コンクール(朝日学生新聞社主催、シナネングループ共催)で、広島市立中島小学校1年の片山悠貴徳(ゆきのり)君(7)が最優秀賞に輝いた。亡き父へ贈る「ぼくとお父さんのおべんとうばこ」。全国3万3421点の応募作から選ばれた。27日に東京で表彰式があり、悠貴徳君が作文を朗読。参加者は目を潤ませた。
第4回「いつもありがとう」作文コンクール(朝日学生新聞社主催、シナネングループ共催)で、広島市立中島小学校1年の片山悠貴徳(ゆきのり)君(7)が最優秀賞に輝いた。亡き父へ贈る「ぼくとお父さんのおべんとうばこ」。全国3万3421点の応募作から選ばれた。27日に東京で表彰式があり、悠貴徳君が作文を朗読。参加者は目を潤ませた。 「いつもありがとう」作文コンクールの受賞作はこちらで
■受賞作の全文
おとうさんがびょうきでなくなってから三年、ぼくは小学一年生になりました。
おとうさんにほうこくがあります。きっとみてくれているとおもうけど、ぼくはおとうさんのおべんとうばこをかりました。
ぼくは、きのうのことをおもいだすたびにむねがドキドキします。
ぼくのおべんとうばことはしがあたって、すてきなおとがきこえました。きのうのおべんとうは、とくべつでした。まだ十じだというのに、おべんとうのことばかりかんがえてしまいました。
なぜきのうのおべんとうがとくべつかというと、それはおとうさんのおべんとうばこをはじめてつかったからです。おとうさんがいなくなって、ぼくはとてもさみしくてかなしかったです。
おとうさんのおしごとは、てんぷらやさんでした。おとうさんのあげたてんぷらはせかい一おいしかったです。ぼくがたべにいくと、いつもこっそり、ぼくだけにぼくの大すきなエビのてんぷらをたくさんあげてくれました。そんなとき、ぼくはなんだかぼくだけがとくべつなきがしてとてもうれしかったです。あれからたくさんたべて空手もがんばっているのでいままでつかっていたおべんとうばこではたりなくなってきました。
「大きいおべんとうにしてほしい」
とぼくがいうと、おかあさんがとだなのおくからおとうさんがいつもしごとのときにもっていっていたおべんとうばこを出してきてくれました。
「ちょっとゆうくんには、大きすぎるけどたべれるかな」
といいました。でもぼくはおとうさんのおべんとうばこをつかわせてもらうことになったのです。
そしてあさからまちにまったおべんとうのじかん。ぼくはぜんぶたべることができました。たべたらなんだかおとうさんみたいに、つよくてやさしい人になれたきがして、おとうさんにあいたくなりました。いまおもいだしてもドキドキするくらいうれしくておいしいとくべつなおべんとうでした。
もし、かみさまにおねがいができるなら、もういちどおとうさんと、おかあさんと、ぼくといもうととみんなでくらしたいです。でもおとうさんは、いつも空の上からぼくたちをみまもってくれています。
おとうさんがいなくて、さみしいけれど、ぼくがかぞくの中で一人の男の子だから、おとうさんのかわりに、おかあさんといもうとをまもっていきます。おとうさんのおべんとうばこでしっかりごはんをたべて、もっともっとつよくて、やさしい男の子になります。
おとうさん、おべんとうばこをかしてくれてありがとうございます。
■お父さん 僕が守るけん
「おとうさんにほうこくがあります」
悠貴徳君は母?恵津子(えつこ)さん(33)、妹の乃莉子(のりこ)ちゃん(4)との3人暮らし。作文を書いたのは、8月中旬だった。夏休みの自由研究で、お父さんのことを書きたいと恵津子さんに言った。
父の俊作さんは2007年3月19日、心臓発作で亡くなった。27歳だった。生前使っていたダイニングのいすに座り、遺影がある仏壇の前で、3時間かけて作文を書いた。
「ぼくはおとうさんのおべんとうばこをかりました」
俊作さんが毎朝、恵津子さんから弁当箱を受け取る姿を、悠貴徳君は隠れて見ていた。「俊ちゃんが行っちゃう」。お父さんが仕事に出かけるのがさみしかった。
「おとうさんのおしごとは、てんぷらやさんでした」
店に遊びに行くと、いつも大きな声で言われた。「ちょっと待っとれー」。空いている端の席で体を揺らしながら待った。しばらくすると、大好きなエビの天ぷらをたくさん食べさせてくれた。
「ちょっとゆうくんには、大きすぎるけどたべれるかな」
今年の夏、今までの弁当箱では量が足りなくなり、大きくしてほしいと恵津子さんにお願いした。お父さんが使っていた弁当箱が棚から出てきた。「俊ちゃんのエビの味がする」。その弁当箱でご飯を食べると、そんな気がした。「俊ちゃんの分。一緒に食べたいだろうから」。初めて使った時、ふたにご飯を乗せ、一緒に食べた。
「たべたらなんだかおとうさんみたいに、つよくてやさしい人になれたきがして、おとうさんにあいたくなりました」
8月下旬、夢を見た。仏壇の下からお父さんが出てきた。「戻って来てよかったね」。お父さんは「天国におったけど、また来られてよかったよ」と頭をなでてくれた。大好きなプラレールで遊んだ。夢からさめてダイニングに行くと、お父さんのいすはやっぱり空いていた。
「さみしいけれど、ぼくがかぞくの中で一人の男の子だから、おとうさんのかわりに、おかあさんといもうとをまもっていきます」
10月、恵津子さんが俊作さんのことを思い出し、声を出して泣いていた。悠貴徳君は歩み寄って言った。「だいじょうぶ。ママもつらいけど、ぼくもつらいけど、がんばろう。ぼくが守るけん」
泣きながら、恵津子さんの背中をさすった。
「もっともっとつよくて、やさしい男の子になります。おとうさん、おべんとうばこをかしてくれてありがとうございます」
作文は今、俊作さんの仏壇に供えられている。(山本恭介)
■「家族の温かさ伝わった」「優しさや強さ生き生き」/審査員
27日に東京の浜離宮朝日ホールであった表彰式。コンクールの審査員に、感想を尋ねた。
作家のあさのあつこさんは「まるで物語。亡くなった人のことを書く作品は湿っぽくなりがちだが片山君の作文は違った。お父さんのことを書きながら片山君を取り巻く家族の温かさも伝わってきた」と目頭をぬぐった。
「お父さんの優しさや強さが生き生きと描かれ、目に浮かぶようだった。お父さんに『ざぶとん1枚!』」と話すのは漫画家の尼子騒兵衛(そうべえ)さん。「お父さんも喜んでいるはず。すてきな『ありがとう』に出会えて私も幸せ」
気象予報士の森田正光さんは「仕事柄、個人的な体験を人に共感してもらう難しさはよく分かっている。片山君にその力があることが作文から伝わった」と驚いていた。