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ふしぎ工房症候群EPISODE.1「君はダレ?」

(2013-06-24 20:07:48)

ふしぎ工房症候群EPISODE.1「君はダレ?」

01

日常で起こる、些細で不可思議な出来事。それが、人の思考と行動が与えていく、過程と結末を知りたいと思いませんか?この物語は、あなた自身の好奇心と願望に基づいて、構成されています。ともすれば、見落としてしまいがちいつもの風景の中に、貴方が不思議工房を見つけることができるように、お手伝いしましょう。

 

Track2:哀しみ

僕は彼女を失った。

一年前、あの熱い夏の日の光景が、僕の瞼(まぶた)に焼き付いて離れない。彼女は僕の運転する車の助手席にいた。

いつもの笑顔、いつもの笑い声、彼女の肩にかける言葉一つ一つが僕の人生に大きな喜びを齎していた。僕の初めての彼女だった。それも、自慢の彼女だった。ストレートのロングヘアからは、いつもほんのりと、甘い香りがした。並んで歩く時には、そのきゃしゃな体を僕に寄せて、さりげなく腕を回してくそのしぐさに僕の心はいつもはれつせんばかりに踊った。そして、道行(ゆ)く人々が送ってくる視線を、僕はいつも満足に、景色の後に送った。

その日は、二人で行く、初めての楽しい旅行になるはずだった。飲酒運転のトラックがセンターラインを超えて、僕たちの目の前に現れるまでは...

僕が病院で意識を取り戻した時には、彼女はすでに帰らぬ人となっていた。

蝉の声が耳から離れない。路面(ろめん)から立上(たちのぼ)る蔭のほうが僕の視野を狭(せば)める。照り付ける太陽の光は逆に闇黒(あんこく)世界の訪れに手を貸そうとしてかのように情け容赦ない。

あの悪夢とともに、また熱い夏がやってきたんだ。

ボーとして汗だくになった頭の中で生きる気力について意味を考えてみる。僕は一人でも生きていくだけの価値のある人間なのかと...

無気力なままにこの一年を過ごしてきた。立ち直るなんてことはできやしない、いや、立ち直ることのできる人間なんて、果たしてこの世に存在しているのか。本当にいるのなら、お目にかかってみたい。

仕事だってなくしてしまった。厳密にいうと、仕事をする気力も失せた僕はすぐさま辞表(じひょう)を提出した。心のどこかで誰かが引き留めてくれることを願っていた可能性だってある。こういう言い方をするのは結果として誰に留められることもなく、僕は簡単に退社することができたからだ。

僕は弱い人間だった。しかし、それのどこが悪い。そうは言っても、生活していくには金がいる。僕は気の向いた時に仕事をする。フリーターの道を選んだ。

最初はコンビニの店員からだったが、それも長続きはせず、僕はその日暮らしの肉体労働に出るようになっていた。

それでも、彼女と一時(いっとき)暮らしたこのアパートだけは、引き払う気にならなかった。

ここには、たくさんの思い出が詰まっている。普通なら辛くてそこにはいられないはず、と、誰もが言った。いや、違うんだ。誰も分かっていない。僕はこの思い出の詰まった空間の中にいる時だけ。人としての価値取り戻す。ここでしか僕は人間でいられない。ここにいることで、この思い出の中に身を沈めることで、僕は心から休らいを得ることができるんだ。思い出の彼女の膝枕(ひざまくら)にしか、もはや僕は喜びを見つけ出すことはできなくなっていた。

今日は彼女の命日。

ああ、蝉がうるさい。頭が割れるように痛くなる。誰か、あの蝉を黙らせてくれ。っでないと、僕はだめになってしまう。

 

Track3:ふしぎ工房

「いい加減にしろうよ」

僕は誰に言うのでもなく、呟(つぶや)いてみた。

自分に対してなのか、他人に対してなのか、それとも、世間に対してなのか、自分でもよく分からない。あるいは、ここまで僕を追い詰めている、彼女の原因に対してなのか。いや、それだけは考えたくない。考えちゃいけない。考えたところでどうにかなるわけでもないし、神聖な彼女の思い出を汚(けが)すことになるだけだ。それは、万死にあたえする行為なのだ。

「いい加減にしろうよ」

また呟いてみた。

今度ははっきりと、自分に対してた。

ふと顔を上げると、町並みはすっかり夕暮れの景色の中に溶(と)け込んでいた。いつもの見られた光景だった。

早朝からの力仕事を終えて、家路(いえじ)に着くと、大体、このくらいの時間になる。特にこの時期はまだ日が高い。道の前方には霞んで大きく暮れあがった夕日が僕の帰りを待ち侘びている彼女の顔と重なって、涙を溢(こぼ)すことが日課(にっか)となっている。だから、よけいに夏が辛いのだ。以前だったら、僕に満足感を与えてくれた町の人並みも今では嫉妬の対象でしかない。

「ああ、早く帰らなくちゃ」

彼女の思い出が待っているアパートへと、僕は足を急がせた。いつもの通い慣れた道.その道をどう誤(あやま)ったのか気付くと袋小路(ふくろこうじ)に突き当たっていた。

「うん、可笑しいな。どこで間違ったんだろう。」

このあたりの地理はよく知っている。道に迷うはずもない。暫く呆然と考えながら立ちつくしていると、ふと、目の前の看板に目を奪われた。

「ふしぎ工房」と、掛かれてある。

「不思議工房」?

思わず口に出して言ってみたが、ある種ばかばかしい気持ちで、ふっと、笑いが溢れた。玩具でもつくって売っているのか。それにしては、ただの古くさい木造の家屋(かおく)だし、看板だってといたに筆(ふで)に殴り書いたような字だ。むしろ、空手道場(からてどうじょう)のほうがよく似合う。

大体、なぜ不思議が平仮名なんだ?普通に考えたら、住宅街(じゅうたくがい)のど真ん中にこんな看板を掛かれた店があったら、誰もが不思議どころか、不思議思いに決まっている。なぜ堂々とこんなところに存在しているんだ?怪しすぎる。

そんな考えを巡らしていたら、止まらなくなった。しかも、不思議という言葉を連行するようで恐縮してしまうが、本当に不思議なことに、その看板を見つめていると、妙に心が癒やされてくる。ついと、笑いが止まった。

殴り書きの文字が俄然暖かみを帯びてきて、安心感に包まれているような気さえしてきた。

「はー、馬鹿馬鹿しい。」

ふと我に変えて、そんな気分を打ち消すように独り言を言ってみたが、体の中から沸き上がってくるこの気持ちをどうにも止められない。なにが止められないのか、考えれば考えほど気持ちが高揚してくる。

そうか、これは好奇心なんだ。そこに思い当たって、僕は納得した。理由は明快だ。

この好奇心を乱すためには、この看板のすぐ下、玄関と思われる引き戸の向こうを覗くしかないのだ。

それにしても、この抑(おさ)えがたい衝動はなんだ?この押し寄せてくる好奇の波は何なんだ?

 

Track4:謎の老人 

気付くと、僕は引き戸(ひきど)の内側に立っていた。普通の木造屋の玄関を想像していた僕は面食らった。そこには廊下も部屋の仕切りもなく、ただがらんとした薄暗い空間が広がっているだけなのだ。例えていうなら、拾物置き小屋(ひろいものおきごや)。いや、もう少(すこ)しましな言い方をすれば、木造の倉庫か。さらに驚いたことには、この薄暗い倉庫の中央に、古びた大きなカウンターらしき大机が置いてあって、その向こうに、座っている人影が見えたことだ。

「ああ。」

僕は反射的に声をあげて、そのまま慌てて自分の口を押(お)さえた。誰にでもこんな経験はあるだろう。見てはいけないものを見た気がして、反射的に声をあげてしまったという経験が。それは、一瞬、恐怖の感情ともなって、僕の全身を駆けめぐった。

「やばい。」

なんだか分からないが、ここはやばいところに違いない。僕はすぐさま引き返そうとして、後退った。一刻も早くここを出なければ。一瞬でそう考えて、回れ右した僕の背中にお悠長をかける力が働いた。

「ご注文は?」

確かにそう聞こえた。全身が凍り付き、僕は蛇に睨まれた蛙(かえる)のように硬直(こうちょく)した。動けない。

「ご注文は?」

尚(なお)もその声は言った。

感情に抑揚(よくよう)のない、嗄(しわが)れた老人の声だった。

ちょっと間をおいて、僕は恐る恐る視線を背後に戻した。さきほどの人影がゆらりと蠢(うごめ)き、僕は息を呑んだ。相変わらずがらんとした部屋にカウンターだけの空間が大きいな圧迫感となって押し寄せてくる。老人らしき人影はその僕の様子に今更ながら気付いたような口調で言った。

「うん、何か不審な点でも?」

「え、いや、別に、僕は」

「そうですか。では、ここにお座りください」

まるで催眠術にかかったかのように、僕はなすでもなく、進められるままにカウンターの前に置かれていたパイプ椅子に座った。座ってみると、今度は老人の顔の輪郭がはっきりとしてきた。どこにでもいる、まるでタバコ屋の主人のようなごくありふれた老人が眼鏡の縁(ふち)を持ち上げ、僕の顔を覗き込んでいた。

「何だ、ただの人間じゃないか」そう思ったら、すうっと、緊張の意図が解(ほど)けたように、全身から力が抜けていくのが分かった。考えてみれば、この世の中に、そうそう妖怪だとか、化け物の類(たぐい)がいるはずもない。仮に、この老人が怪しい人物だとしても、体力の差は歴然(れきぜん)としている。いざとなったら、この老人を打ち倒して逃げればいい。そんな不謹慎(ふきんしん)な考えが、今は、自分を安心させる、唯一の材料となっていた。

「では、ご注文を伺いましょう。」

「あの。ここでは何を売っているんですか?」

至極当然(しごくとうぜん)の質問だろう。こんな怪しい所で、いきなり注文と言われて、「はい、そうですか、何々をお願いします」と言うような馬鹿はいない。そもそも、ここには何もないではないか。恐らく、なにか詐欺間借りの商売に違いない。適当に誤魔化して、とっとと帰ろう。幾分(いくぶん)落ち着きを取り戻して、そう考えた。僕は自分の考えを悟らないように平静を装(よそ)ったが、老人はそんな目の前の客の様子は、まるで関心がなさそうに、自分の商売を始めた。

「ここでは、幸せを売っております。」

はあ?ますます怪しい。こんな商売は多高が知れている。どうせ、高額(こうがく)な印鑑(いんかん)やツボ押し売りに決まっている。でなければ、宗教の勧誘(かんゆう)に間違いない。もう長居(ながい)は無用だ。

「信じられませんか?」

老人は僕の心を見透(みす)かしたように言って。にやりとして見せた。何だか急に腹が立ってきた。こんな老人に騙されてなるものか。そこで、僕はあることを思いついた。そうだ、注文してやろう。絶対無理な物を。

「じゃ、聞いてもらっていいですか?」

「どうぞ。」

「僕は最愛の彼女を一年前に交通事故で失いました。今不幸のどん底なんです。僕の幸せは彼女の存在なくしてはありえません。だから」僕語気(ごき)を強めた。「僕の死んだ彼女を注文します。」どうだ、まいただろう?ざまを見ろう。印鑑や宗教じゃクリヤできない難題(なんだい)だ?さあ、どうする?

「うん、承知しました。では、この注文書にあなたのお名前と住所をお書きください。」

「うっ。」

僕は言葉を失った。そんな客にお構いなしに、老人は一枚の紙と鉛筆を差し出した。僕はその紙を念入りに調べてみたが、住所、名前のほかに、注文欄があるだけで、ほかには何も書いていない。びっしりと小さな字で書き込まれた、詐欺まがいの契約条文もない。ただの迫真(はくしん)に近い紙っペラだ。しかも、この鉛筆は子供の頃に学校で使ったこともある六角形(ろっかっけい)のHBだ。

「ふざけたことをするな。」僕の曲(ま)がった口を見て、老人が鋭い目付きになって、こう言った。

「あなたの願いを叶えようというのです。それでも不服(ふふく)か」

その一言が僕の心臓を貫(つらぬ)き、僕はがっくりと、肩を落とした。その通(とお)りだ。それが本当に僕の願いなんだ。それ以外の何者も要らない。例えこの老人が詐欺師だろう何だろう構わない。このようで僕の気持ちを理解してくれる唯一の人間なのかもしれないのだ。僕は震(ふる)える手で、注文書に自分の住所と名前、そして、注文欄に彼女の名前を書いた。

「あの、代金は?」僕はすっかり詐欺師の言いなりになっていた。

「お代は、後払いの成功報酬となっております。」

後払いの成功報酬とは何だろう?何だかすごく都合がよくて。でも、あとで法外な金を請求されそうな、恐ろしい支払い方法のような気がしたが、僕は彼女への思いに胸を潰(つぶ)されて、もう何もかもどうでもいい心境になっていた。この詐欺師は人の心を自在に操る天才なのかもしれない。

「注文の品(しな)は後(のち)ほど届けいたします。」

詐欺師の声を遠くに聞きながら、僕は不思議工房をあとにした。外(そと)はすっかり日が暮れて、わずかな街灯に虫の群(むら)がある。暗闇(くろやみ)の世界となっていた。

 

Track5:まさか? 

アパートに辿り着くまでの時間が本当に長く感じられた。不思議工房がどこにあったのか、もはや記憶定(さだ)かではないが、迷い込んだ路地(ろじ)からは簡単にいつもの通りに出ることができた。そこからはただ単にまっすぐな道程(みちのり)なんだが、僕の足は疲れ切っていて、鉛(なまり)のように重かった。つまらないことで時間を潰してしまった。というよりは余計に彼女への思いを募(つの)らせるの結果となって、却って僕の心は暗(くら)く沈んでいた。

あの老人は本当に詐欺師だったのだろうか?まあ、それも何れはっきりすることだ。なにか適当な品物が届いて、あとから請求書が届く。到底払える金額ではないので、もっともらしい理由で民事訴訟(みんじそしょう)に持ち込まれ、あとは人生を転がり落ちっていくだけ。まあ、それでもいいか。僕は半(なか)ば開き直りつつ、我が身の人生の不幸を嘲(あざけ)るように言って、そして、声を立てて笑った。

「はははは~」

明日も早いしなあ~とにかく帰ったら、いつものように銭湯(せんとう)に入って、焼き鳥屋で一杯やってから寝よ。肉体労働は朝が早いから、夜十時には寝ることにしている。そんなことを考えていたら、ようやく自分のアパートが見えてきた。木造アパートの二階、わきの階梯を上(のぼ)った手前が僕の部屋だ。

ふと視線を上げると、部屋の窓から明(あ)かりが漏れている事に気付いた。

「あれ、電気付けっぱなしで出ってきちゃったかなあ~」

最初はそう思った。いや、朝の出かけの時にはもう外は明るい。日当たりのよい自分の部屋で、寝起きに電気をつけることなんてあり得ない。だとしたら、泥棒か?そんな泥棒が堂々と電気なんかつけるものか?

「まさか。。」

まさか、まさか、まさか~

ある思いに捕らわれて、僕の頭はぐるぐると急速に回転し始めていた。

まさか...

一気に階段を駆け上り、ドア棒に手をかけた

手の震えが止まらない。

ちくしょ!しっかりしろ、俺の手!両手で一気をゆくドアの棒を引いた。

「あ!」

思わず息を呑んだ。狭い六畳人間(ま)の部屋の中は、一瞬で見渡せる。その部屋の中央にちょこんと座って、僕に笑いかける、彼女が、いた。

何も考えられなかった。今までの辛かった生活ついさきあった、寂しいの老人のことも、何もかも忘れて、僕は彼女に抱きついた。

この髪の匂い、肌の感触、すべてが間違いなく、彼女のものだった。彼女の胸に顔を埋めて、大声をあげて泣いた。オーイオーイと泣いた。かつじではいつも不自然だと思っていた泣き方が今の僕には本当に似合っていた。彼女のしなやかな指が、手が、優しく僕の頭を包(つつ)み、僕は、心の底から多い、多いと泣いた。

Track6:再会

どのくらい時間がたったのか見当もつかないくらいに彼女の胸の中で泣き続けていた。ふと顔を上げると、相変わらず優しそうに微笑んでいる彼女の顔がそこにやった。安心感に包まれて、僕は幾分落ち着きを取り戻した。聞きたいことは山ほどあった。彼女の目を見つめると、何?っとでも言いたげに首をかしげて、不思議そうな顔をした。

「ああ~ね、君は死んだんじゃなっかたの?今までどうしていたの?生きていたんなら、なぜもっと早く来てくれなかったの?僕は本当に寂しかったんだ、君がいなくなったの日から、本当に死んでしまいたいくらい辛かったんだよ。どうして?どうして?」

矢継ぎ早(やつぎばや)に質問を浴びせかける僕の口元に、彼女が人差し指を当てた。

「あ。」

言葉に詰まった僕を彼女は悲しげな目をして見つめていた。僕は沸き上がってくる激情を抑えきれずに息をやまって彼女を押し倒し、その唇に自らの唇を押し当てた。すると、予想外のことが起こった。彼女は顔を背(そむ)けて拒否(きょひ)、逃げるように部屋の隅に身を寄せたのだ。

「なぜ?」僕の愕然として問いかけに、彼女は指を横に振って答えた。ただ悲しげな目をして指を振るだけだった。

ここで漸(ようや)く気が付いた。彼女は僕と会ってから、まだ一言もはしっていない。何も喋っていないのだ。

「なぜ?」

彼女はただ悲しく首を振るだけだった。僕は我(われ)を忘れて声を荒(あら)げた。

「どういうことなんだ?からずっと黙ったままで。そんなじゃ何も分からないよ!おまけに僕拒否するなんて、たったらなんでここに来たの?どうして戻ってきたの?一体、今までどこにいたんだよ?僕こんなに苦しめてる、君はそれでもいいの?なんとか言ったらどうなんだよ?」

彼女の首を振る動作が激しくなった。顔には悲嘆(ひたん)の感情さえ見え隠れしている。僕は頭に血が上(のぼ)って、ついには感情を押さえきれなくなっていた。

「君は僕の知っている人じゃない!君は一体誰なんだ?」

彼女の顔の表情が見る間(ま)に変わっていた。顔面(がんめん)は蒼白(そうはく)になり、紫色になった唇が小刻(こきざ)みに震え出してい る。目からは大粒の涙が溢れ始めて、声には出さないが、ワッと、塞ぎ込んでしまった。言ってはならないことを口出してしまった気がする。でも、何をどう信じればいいのか?もはや分からない。目の前にいる彼女が本当に彼女であるのかさえ、疑(うたが)わしくなっている。だが、あの髪の香り、肌の感触、そして、しぐさすべてが彼女であることは間違いないのだ。それでも、それでも~

そして、ある考えに思い当たった。もしかしたら、これは夢なのかもしれない。今だかつて経験したこともない。現実に帯(お)びた、リアルな夢なのかもしれない。だから彼女は話すことはできないのだ。これは僕の願望が産んだ、夢なのだ。だとしたら、方法は一つしかない。僕は決して眠ってはならない。夢の中で眠ってはならないというのは、奇妙話かもしれないが。僕にとっては、真剣な思いだった。つまり、夢の中で眠るということは、この夢を終了させ、現実の世界に引き戻されることに、ほかならない。だから、眠ってはならないのだ。神様、どうかこの夢が永遠に続きますように。

 ふっと、体の力を抜いて、彼女を抱き押せた。彼女もギュッとしがみ付いてくる。この夢を終わらせてなるものか。彼女を抱きしめながら、強く自分に言い聞かせた。正直言って、この一年、辛さのあまり、死にたいという衝動に駆られたことが何度もある。しかし、人間、そう簡単に死ねるものではない。死ぬためにも、そう思う勇気が必要なのだ。僕は、その勇気さえない、ダメな人間だった。だったら、永遠にこの夢の中を彷徨(さまよ)えばいい。この彼女の幻影と共に、夢の中で一緒行き続けばいい。目覚めることの前植物人間になったていい。そして、夢から目覚めることなく、このまま命を絶つことになるのなら、それこそ、正(まさ)に本望(ほんもう)だ。

Track7:絶望

どれくらい時間が経ったのだろう?部屋に入り込む日の光の中で、鳥の声を聞きながら、僕は目覚めた。はっとして飛び起き、部屋の中を見回(みまわ)した。彼女の姿はなかった。

どうして?どうしてなんだ?僕は涙を流しながら、幾度(いくど)も畳(たたみ)に拳(こぶし)を打ち付けた。分かっていたはずなのに、眠っちゃいけないって、あれほど自分に言い聞かせていたのに、なぜ僕は眠ってしまった?なぜ夢から覚めてしまった?神様が本当にいるのなら、何故こんなにひどい仕打ち(しうち)をするのか?

「あああ~~~!!!」(泣き声)

畳に突っ伏(つっぷ)して、自分でも驚くような大声を張り上げた。

渾身(こんしん)の力で吼(ほ)えて、そして、部屋中転(ころ)げ回った。その拍子に柱にひどくに頭をぶつけ、僕はのたうち回った。漸(ようや)く痛(いた)みが引いて、若干だが、冷静さを取り戻した僕の頭の中に、ふと、ある考えが浮かぶ。もう死んでしまおう。暫くしたら、この部屋を出て、踏切に向かえばいい。簡単だ。一歩前に足を踏み出せばいい。そうしたら、本当に彼女の元へと行ける。そうだ。そうしよう。あの夢はきっと神様が僕にくれた最後のプレゼントだったんだ。これで決心がついた。やっと僕は楽になれる。そう考えたら、何だか本当に楽になった気がして、のっそりと起き上がった。しかし、冷静になったところで、今度は別の感情がもたげてきた。いや、待ってよ。あれは本当に夢だったのだろうか?

自分の両手を見つめた。彼女の感触が残っている気がする。そうだ。僕はこの手で確かに彼女を抱きしめた。拒否はされたけど、唇の感触だって残っている。これが夢だったら、あまりにもリアル過ぎる。こんな現実味帯びた夢を、僕は曾(かつ)て見たことはない。そんな話すら聞いたことがない。だったら昨夜(ゆうべ)のことは~

立ちあがると、玄関に向かった。確かめなかれば行けない。死ぬのはそれからでも遅くはない。あそこに行ってみよう。彼ならすべてを知っているはずだ。どうしてもあって、そして話を聞かなければならない。あの詐欺師の老人。

僕は玄関を飛び出し、階段を一気に駆け下りて、ふしぎ工房へと向かった。

 

08

どこをどう走たのか?記憶は定かがないが、『ふしぎ工房』にはすぐに辿り着いた、引き戸を強引に開けると、ガランドとした空間に例の詐欺師の老人がカウンター越しに座っていた。僕はツカツカと老人に詰め寄った。

「どういう事なのか?説明してもらおう。」

「お気に召さなかったのかな?」

「やっぱり、あんたの仕業だたんだな。」

「仕業なんで人へ気が悪い、貴方の願いを叶えてあげたではありませんか?」

「彼女をどこにやった?どこに連れていたんだ?今すぐ彼女を返せ!」

「無理ですな。」

「なに?」

頭に血が上って。気づいたら、カウンター越しの老人に掴みかかっていた。もう理性もへったくれもない、僕は彼女を取り戻した一心で、ひ弱な老人に暴行を加える獣と化していた、だが、次の瞬間僕の体はぐるっと一回転し、背中と後頭部に強い衝撃を受けて、動けなく成っていた。全身の骨がバラバラになったように痛む、仰向けになった視界に天井と老人の顔が見える。

「あ~」

思わず呻き声あげる僕に向かって、老人は吐き捨てるように言った

「まったく、なんで人だ?人の好意仇で返そうとするとは、おまけに、か弱い老人に暴力を振るうなんて、まるでちんぴらだ。」  

 暴力を振るう前に投げ飛ばされたんだ。そんなことは頭の隅で考えながら、僕は情けなさと悔しさに再び我を忘れた。  

「けっ、畜生!」  

 力を振り絞って立ち上がると、今度は老人に殴りかかっていた。僕の心はもはや激情に押し流されて、相手を打ち倒すという本能だけに支配されていた。しかし、僕の拳はあっさりと老人の左手に受け止められ、代わりに、老人の右拳 が僕の顔面に叩き込まれた。その一発で、僕はすでに戦意喪失していたが、老人の攻撃は止まなかった。左右の連打を浴びながら、倒れることすら許されずに、蝶のように舞う。  「殺される!」   朦朧とする頭の中でとっさにそう思った。一体この老人は何者なんだ?こんなひ弱そうに見える老人に叩きのめされるなんて、誰が想像できただろう。確かに、最初に掴みかかったのは軽率だった。しかし、その段階では手心を加えることも考えてはいたんだ。それが、あんなに簡単に投げ飛ばされたあげく、情け容赦ない殴打まで受けるとは。このままでは間違いなく殺される。全身を恐怖が駆け巡った。  

「助けて~」   

自分でも驚くほど情けない声だった。死ぬことが本当に怖くなっていた。と、老人の攻撃が止んだ。僕は漸く倒れることを許されて、床に傷だらけになった身を横たえた。全身がひどく痛む。攻撃を受けたのは顔面だけではない。鳩尾にもいやというほど拳を叩き込まれ、呼吸することすらままならない。骨が何本も折れているに違いない。彼女に会えないのであれば、もう死んでしまおうという、ついさっきまでの考えは、とうに消え失せていた。このまま老人のサンドバックになっていれば、死ぬには絶好のチャンスとなったはずだ。でも、僕には死ぬ勇気は到底なかった。あまりに情けなくて、僕は、うっと、嗚咽を漏らした。   

「ちょっと忚急がすいたかな。」  

 老人は埃を掃うように両手をパンパンと叩いて、そして、僕を見て、にっと笑った。 

 「でも、こうでもしなければお前さんはワシの話をまともに聞くことはしなかっただろう?」  

 ヒュウヒュウと喉を鳴らしながら、僕は老人の言葉に耳を傾けた。今はそうするしか方法がなかった。ここまで痛めつけられてはもはや逃げ出すことすらできない。老人は続けた。   

「お前さんの見たものは夢でもなんでもない。現実なんだよ。」 

 その言葉を聞いて、僕は老人に縋るように言った。  

「じゃ、なんで彼女は消えたんだ?まるで一夜限りの夢じゃないか?そんなの~ひど過ぎるよ!」   

現実と言われて、更に声を上げて泣いた。いい大人が恥も外聞もなく、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして、ひたすら泣いた。  

「ああ~何にも分かってないようだなあ。」  

老人は厭きれた顔をしながら、

「は~」

とため息をついて、信じられないことを言い始めた。   

「彼女はな、自縛霊なんだよ。」  

「え?」  

 呆気に取られて言葉を失った。自縛霊?それって事情のある場所に縛られて、成仏することもできずに彷徨っている霊のことか?彼女が自縛霊だなんで、そんなことを信じられるわけない。さっきまで現実だと言っていたのは嘘なのか?しかし、続く老人の言葉は僕を更に奈落の底へと突き落とした。  

「そして、彼女を自縛霊にしたのはほかならぬ、お前さん自身なんだよ。」そんな。何を言い出すんだ?僕が彼女の成仏を妨げているとでも言うのか?それじゃまるで僕が彼女を苦しめているみたいじゃないか?老人は僕の感情を読み取ったかのように続けた。  「その通りだ。お前さんは事故で彼女を失ってから、人生を転がり落ちるようにダメになっていた。仕事も辞め、嘆き暮らすだけの無気力な日々送るお前さんを見て、彼女は成仏することはできなかった。お前さんを苦しめているのは自分だと、不幸にしているのは自分だと、彼女は思った。だから、自縛霊としてお前さんの部屋にずっと縛りつけられていたのだよ。」 

 「ええ?それじゃ、彼女ずっと僕の部屋にいたというのか。この一年、ずっと」 

 「そうだ。毎日毎日お前さんの悲しい姿を見て、彼女はずっと泣き暮らしていた。それとも知らずに、お前さんは本当にお目出度い男だよ。」 

 「じゃ、僕は彼女に気付かなかっただけ?」  

 「それはそうだろう。霊と言ったって、誰にでも見える訳じゃない。彼女は何度もお前さんに訴えていたはずだが、どうやらお前さんは霊感はないばかりか、人の言葉に耳を傾ける気力さえない。当然、彼女の声はお前さんには届いてはいなかっただろう。」 

 そこで、昨晩のことを思い出した。彼女は喋ることはできなかったわけじゃない、彼女の声が僕には聞こえなかったのだ。僕は愕然とした。  

「可哀相だとは思わないか。彼女は成仏することもできずに、一年間もお前さんの狭い部屋に閉じ込められていたんだぞ。それ、お前さんの悲しい姿を見つめながら、ずっとだ。それがどんなに辛く苦しいこと分かるか?それこそまさに地獄だよ。お前さんは自分ばかりか、彼女まで不幸のどん底に突き落としていたんだ。」 

 衝撃が全身を貫いた。僕は自分だけが不幸だと思っていた。その僕が死んでからの彼女を苦しめて、不幸にしていたというのか。そんな、そんな…だったら、僕は一体どうすれはよかったんだ?ふいに、老人の口調が優しく変わった。 

 「言ってやりなさい。」 

 僕は

「ええ?」

という目で、老人を見上げた。さっきまでとはうって変わって、優しい目をして微笑んでいる老人の顔がそこにあった。  

「彼女はお前さんの部屋で待っている。今のお前さんには彼女の言葉が届くだろう。そして、お前さんも自分が何をすべきかもう分かっているはずだ。」  

もう何も迷うことはなかった。僕は力を取り戻したかのように勢いよく立ち上がると、老人にかける言葉も忘れて、駆け出そうとした。 

 「待って、忘れ物だ。」 

  「うん」

そう言って、慌てふためく僕に老人は小さな封筒を渡して寄越した。表に「請求書」と書いてある。それをズボンのポケットに無理矢理突っ込んでから、老人に向かって言った。   「ありがとう。一生をかけても払いますから。」  

僕はふしぎ工房を後にすると、無我夢中で駆け出した。不思議と体の痛みも消え失せてた。    

Track:ごめん……   

走り込むようにして、玄関のドアを勢いよく開けた。果たして彼女は…いた。今度は部屋の隅に外光を避けるように丸く小さくなっている姿がぼんやりと はしていたが見えた。僕は急いでカーテンを閉めた。恐らく、日の光が差し込む中で、彼女は居場所に困っていたかもしてないと、とっさに考えたから。僕は彼女を強く抱きしめた。夕べとは違う抱き方で。それは彼女にも伝わったようだ。   

「ごめん…末当にごめん!君の気持ちなんてこれぽっちも分かっていなかった。僕のことを許してくれ!こんなに君を苦しめてしまったことを…許してくれ!もう迷わない、これからの僕は生まれ変わる、仕事もきちんとする、そして、まっすぐに生きて行こうと思う。君のことを…ずっと…胸に抱きながら…」  

彼女は僕の目を見て、初めて首を縦に振った。ごくっとした可愛らしい僕の知っている大好きな彼女の仕草だった。彼女の目は嬉しそうに輝いていた。再び唇を重ねた。もう彼女は拒否しなかった。僕たちはいつまでも唇を重ねたまま、お互いを強く抱きしめた。これで末当にお別れだ。僕は泣いた。彼女も泣いていた。唇を離すと、彼女は初めて唇を開いた。正確には、初めて僕に聞こえた。  「ありがとう」と。彼女のその時の顔、僕は一生忘れない。心から幸せそうな笑顔だった。その笑顔のまま、彼女は静かに消えていき、僕の腕の中からいなくなった。暫くして、僕はゆっくり立ち上がると、部屋のカーテンと窓を開け、真っ青な空を仰いだ。雲の形が彼女の顔に重なった。彼女は漸く天国へと上ることができたのだ。僕の自縛から解き明かされて。僕は心に誓った。二度と彼女を悲しませるようなことはしない。僕は頑張って生きていく。そして、彼女の分も幸せになる。    

Track:epilogue  

 ふと、ズボンのポケットの請求書のことを思い出した。あの老人のことだ。きっと勝ち誇った顔をしているに違いない。確かに僕は注文の品を受け取った。だから、成功報酬を支払わなければならない。さぞかし法外な金額が書かれているのだろう。それでも、僕は払いたいと思う。くしゃくしゃになってしまった封筒を取り出して、封を切って中を見た。「請求書」と書かれた用紙には次のような文言が記されていた。  「あなたと彼女の幸せをお届けします。あなたにこれから自分の得た幸せを他人に分け与えることを義務付けます。これを代償として、生涯に渡って払い続けられますよう、ご請求申し上げます――ふしぎ工房。」  それ以来、僕は何度かふしぎ工房を探してみたが、二度とあの看板を見つけることはできなかった。 

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