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美学における日本の水墨画と中国画の歴史的特徴と技法の比較

(2013-01-17 06:56:35)
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文化

テーマ:美学における日本の水墨画と中国画の歴史的特徴と技法の比較

 

前言

 

日本画と中国画は数千年の歴史がある。隋、唐時代からの文献には、日本と中国の芸術に関する交流の記載が多くみられる。室町時代、足利将軍が、明国との国交を開始してから、多くの唐物が日本に伝来された。その影響は、義政の代の頃から顕著にあらわれる。

 

レポートは、水墨画の表現や技術、技法の特質を考え、中国絵画と日本絵画が歩んでいた表現とはどのようなもので、どのような絵画観と技術論を持っていたのかを調査する。特に室町時代と江戸時代の水墨画画家の作品を、中国の絵画と比較し、考察する。彼らが描いた花鳥図、人物、山水の水墨画と屏風には、日本の水墨画の独特の風がみられる為、日、中水墨画の技法と特徴の比較について試みできる。私はこの研究を通じて現代人に新しい啓示をもらたらしたいと思う

 

(1)室町時代の水墨画の状況

 

  十五世紀後半、外来文化としての水墨画は日本画壇に取り入れた。足利将軍家の地位をあげて、自身高度に貴族化してゆき、日本画の規範と美意識が足利将軍を中心とする趣味的な世界である。同時に禅林の絵画における主導権は相対的に低下するが、それを支えた将軍が御用絵師の同朋衆集団である。同朋衆は、室町、江戸時代、将軍や大名の側近にいて、芸能、雑役を務めた僧体の者の職名であり、そのような側近の者たちを同朋衆というのである。集団の代表人物は、能阿彌、芸阿彌、相阿彌であり、彼らは当時の日本画壇で水墨画の造詣が深かった。それ以外は、三阿彌は連歌を詠み、茶道、華道などの芸技を善くし、彼らの共通点といえば「遁世者」である。一般の社会的階層からはずれたところにいる。彼らの姿は剃髪しながら帯刀して、半僧半俗の文人と言える。その多様面、多様性、自由性こそが彼らの魅力といえる。三阿彌は芸術世界で高い地位にいるだけではなく、鑑定家としても非常に高い地位がある。

 

一四一年から日本の遣明船が中国に行くようになり、多くの唐物が日本に伝来し、その中には中国絵画の名品があり、相府に集まった。それから、相府のコレクションは、当時の芸術品の中心になった。三阿彌の職業の範囲は、唐物を購入、鑑定、天皇の来臨を仰ぐ行幸などの行事に当たった。将軍邸の座敷飾りも三阿彌の仕事であった。三阿彌は、唐絵や画家についての知識の蓄積ができた。現代語でいえば、三阿彌は美術史家や美術評論家のようであった。三阿彌は画家でありながら、将軍家の絵画制作の相談役として、「絵の画風」「絵の表現技法」などの事にも関わっていた。これで、阿彌派は、芸術品の価値体系の形成に大きな影響力を持ち得たのである。

 

三阿彌は、大名などから献上された唐物を取り次いている。これに限らず、コレクションをめぐって生じる様々な局面がある為、将軍、武家、貴族、僧侶の唐物の取り入れも三阿彌の日常的な仕事であった。

収蔵される唐物の件数が増せば増やすほど、全体的な把握と整理が必要になってくる。能阿彌は、相府コレクションの絵画リストを作った。『君台観左右帳記』は能阿彌によって整備され、相阿彌によって完成された。その中に、中国絵画の筆者と画題は、九十件と二七九幅が記録された。その中に記録された所蔵品の唐絵は、すべて晋、唐、宋、元時代の絵画であり、数多くの作品は牧谿、馬遠、梁楷、夏珪などの北宗画家の作品であった。室町時代では、中国の北宗画家の技法、画題は大量的に流行し、江戸時代の文人画はなぜ中国の北宗画風に似ているのかが答えられる。

 

室町時代、中国の宋の時代の水墨画が日本に伝来してから、三阿彌、雪村などの画家は北宗の画風を継承した。彼らは淡墨の線を運用し、中国画題の山水図を創作した。山水の技法は南宋画家馬遠、夏珪などの画法に学んで、個人的な個性と画風を建立した。江戸時代になると、文人画の流行は漸く絶頂期に達した。ただし、日本の文人画家は、三阿彌などの画家の技法を継承している為、日本の文人画には中国の南宋画風が見える。 

 

もう一つの問題は、なぜ日本で南宋時代の山水画家が、大人気なのであろうか?北宋時代の10-12世紀、日本と宋国の交流がなければ、中国北宋の山水画が伝来しないのである。北宋の山水画の技法、構図は高度な芸術的な表現に達し、画風は雄大深遠なリアリティに満ちた中国の自然風景を描いた。その大式様の北宋山水図は、日本人の感覚に受けつけられなかったと見る。もう一つの理由は、北宋の水墨画は画史の黄金時代を出現して、絵画の技法と構図は中国の最高水準であり、中国の皇帝、士大夫はみな好きで保存していたので、市場での販売は少なかった。それで、日本に伝来した唐物には北宋の山水図が少ないため、日本の室町時代の画家たちの作品には中国の南宋画風が見られる。

 

当時の三阿彌は、唐物に関わる様々な仕事に当たっていた。特に画題と画様が決まると、義政はよく「夏珪の筆様」「馬遠の筆様」などの南宋画風を選択し、その結果、日本の水墨画制作を積極的に推し進めた。後世の日本画の形成に対して深遠な影響がある。

 

1 室町時代の能阿彌の絵画技法と中国画歴史的な特徴の比較

能阿彌は「天下の名人」と言われた。姓は中尾、名は真能(さねよし)。足利義教義政同朋衆として仕え、能阿弥と号し、幕府における書画等(唐物)の鑑定や管理を行い、また東山御物の制定を行った。特に水墨画に優れ、阿彌派の開祖とされた。それ以外、彼は香道、茶道、連歌、表具にも善くし、文人として総合的な面で芸術と係わり、それらの芸術はまた、深い教養に裏打ちされたものであった。

 

画史の中の能阿彌に関する記録に不明点があり、彼の出身が分からないことである。生まれは応永四年、足利義満の時代である。彼は室町時代で、画家の名声に比べて、連歌師のほうがもっと有名である。この以外の材料には恵まれていない。

 

能阿彌は画の修理と唐物の鑑定に善くし、将軍から無上の寵を受け、彼に政所執事を与えた。政所執事とは、足利将軍の幕府で政所の上級役人である。政務に参与し、会計を担当する。二階堂氏の世襲の役人の階級である。それで能阿彌は、貴族、僧侶たちが集う文雅の場所で「文書く人」としての地位を確立していた。同時代の史料にも彼の画技に関する記録がない。しかし、今現存する作品で彼の絵の技法を分析することができる。

 

文明三年、能阿彌は、自らの水墨画の作品で、水墨で蓮を描いていた。自分で創作した和歌も書き添えた、「あけね暮れぬねかふはちすの花のみをまつあらせる一筆そこれ」。この和歌の意味は、阿彌陀仏の極楽浄土に往生したいのである。この作品は柔らかい筆使いで二つの蓮を描き、蓮と蓮の葉は中国宋の時代の没骨法を運用していた。没骨法は東洋画、特に花鳥画の描法であり、輪郭線を描かないで直接水墨または彩色で対象を描き表す技法である。中国の五代、宋初の花鳥画家徐煕の作品に没骨法の技法が見られる。徐煕は花鳥の没骨法の祖で、勿論、後世の画家牧谿、夏珪の画風も徐煕の影響を受けていた。能阿彌は、徐煕の技法もしくは牧谿の技法のどちらの影響を受けていていたのか?今ははっきり答えられないが、現存の『君台観左右帳記』の記録を見たら、徐煕、牧谿の作品は昔、将軍家に保存されていたとある。能阿彌も彼らの作品を見たに違いない。それで能阿彌は、両者の技法を学んで自分の画風を建立していたと思う。

 

能阿彌の「蓮図」は日本の画史に対して、一つ深遠的な意義がある。日本の室町時代、禅僧の間で詩軸画が広く流行し、中国の文人画の影響を受けることが多かった。表現の形式は、中国の文人画に似ているが、区別もある。中国の文人画は詩を詠む文人が自分で画を描き、画面にもよく自分の詩を書く。日本の詩軸画は詩を書く人と絵を描く人は同じ人ではない。しかし、能阿彌の「蓮図」は、詩を書く人と画を描く人が同じ人である。なので、能阿彌の「蓮図」は、日本で最早期の文人画風の代表作品と見える。

 

日本の水墨画における牧谿イメージの形成に大きな影響を与えたのは能阿彌である。彼は相府コレクションと画家たちの間にあるフィルタとしても機能していたといえる。それで、室町時代の中国絵画の品類の形成の中で、能阿彌の存在は重要な役割を果しているのであり、唐物の鑑定の中で、彼は自分の価値観、絵画観を形成した。

(以做学术论文发表 请勿抄袭) 

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