日本中学国语教学中的“古文”与“汉文”
(2008-09-22 13:21:29)
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日本中学的国语(日本语)教学中,“古文”与“汉文”占有很大的比重。“古文”指的是日语文言文,与现代日语在语法上有很大区别的日本古代语言文学作品,相当于我国语文课中的“古文”。
而“汉文”,指的是中国古代文化典籍,如儒家典籍、古诗、古文、历史著作等,也包括日本人用古汉语写作的汉诗、汉文。
我国的“古文”教学,使用现代汉语发音来阅读、朗读古文,而不考虑古汉语在历史上的“真实读音”。并从现代汉语语法角度分析古汉语语法、句式,以及具体的实词的含义与虚词的用法,从而在现代汉语语境中来理解古代汉语。
日本的“汉文”教学,显然失去了现代汉语语境,日本自古就发明了一种独特的“汉文”的教学方法,即“训读法”。
据网络文献的简单介绍:
日本人阅读汉诗、汉文是用“训读法”。“训读法”就是适当改变语序,对汉文字进行日语训诂。中文实词部分的汉字,基本上能原封不动地保留下来。虚词则通过与之相应的日语文言助词及助动词表达,从而实现一种对汉文极为精确的解读。
日本学生不了解“汉文”中的“汉字”在现代汉语中的“读音”,当然也不了解“汉文”中的“汉字”的“历史读音”,所以他们不会用汉语朗读、背诵来自中国传统的“汉文”。
但他们可以通过分析“汉文”的实词、虚词、句式等语法特点,“通过与之相应的日语文言助词及助动词表达”,和相对应的“汉文”与“日语文言”的句式转换,从而把“汉文”精确“训读”或者“翻译”为“日语文言”,从而达到对“汉文极为精确的解读”。
举一个简单的例子。如《论语》开篇第一句:
子曰、学而時習之、不亦説乎。(『論語』)
日本人标准的训读如下:
子曰く、学んで(而)時に之を習う、亦説ばしからずや。
这句训读文具体的读音如下:
し
子
在日本历史上,还有几种略有差异的训读法,如下:
1、子の曰く、学んで(而)時に習う(之)、亦説ばしから不乎。
这是日本平安朝博士的训读,把“而”和“之”省略了。具体的读音如下:
し
子の曰
2、子の曰く、学んで而して時に之を習う、亦説ばしから不らん乎。
这是江户时代的训读,“而”和“之”没有省略。具体的读音如下:
し
子の曰
同样,
有朋 自遠方来、 不亦 楽乎。
人不知 而 不慍、 不亦 君子乎。
分别训读为:
とも
朋
ひとし
人
正因为有了1000多年的“汉文”的训读历史,日本人以一种非常独特的方式汲取中国传统文化,接受中国古诗、古文的文化熏陶,其接受程度,往往不亚于中国人。
如陶渊明的著名诗句:
采菊東籬下,
悠然見南山。
山氣日夕佳,
飛鳥相與還。
此中有眞意,
欲辨已忘言。
通行的训读如下:
菊を采る 東籬の下,
悠然として 南山を 見る。
山氣 日夕に 佳く,
飛鳥 相ひ與に 還る。
此の中に 眞意 有り,
辨んと欲して 已に 言を忘る
具体读法如下:
きく
菊
ゆぅぜん
悠
さんき
にっせき
山
ひちょうあ
飛鳥
こ
此の中
べんぜ
辨
还有一种更通俗的训读:
菊を東籬の下に採り、悠然として南山を見る。山気に日夕に佳く、飛鳥あいともに還る。この中に真意あり、辨ぜんと欲してすでに言を忘る。
当然,日本人还可以把汉语古诗翻译成现代日语来阅读、欣赏。如:
1、
東の垣根の下で菊を摘むと
遠く遥かに廬山が目に入る
山の光景は夕方が特に素晴らしい
鳥たちが連れ立って山の巣に帰っていく
この光景に内にこそ、この世の真の意味が存在する
しかし、それを語ろうとしたとたん、言葉を忘れてしまうのだ
2、
家の東の籬の下に咲いている菊を採って立上ると
ゆったりと南方の山を見るともなく眺めるのである
山に湧く気は、日中でも夕方でもそれぞれ美しく
朝出た鳥が夕方に飛び連れて山に帰って行くのである
その中に万象の奥の真理、自然の道理の意味を感じる
語ろうとすると言葉を忘れ、真実は言葉では語れない