加载中…
个人资料
  • 博客等级:
  • 博客积分:
  • 博客访问:
  • 关注人气:
  • 获赠金笔:0支
  • 赠出金笔:0支
  • 荣誉徽章:
正文 字体大小:

读书八境(四)算卦与看手相

(2018-10-25 14:24:37)
标签:

算卦

看手相

菊池宽

分类: 读书八境
易と手相 

菊池寛

自分が、易や手相のことを書くと笑う人がいるかも知れないが、自分が一生に一度見て貰った手相は、実によく適中した。 それは、時事新報社の記者をしている頃だった、久米が二十七歳前のことだから、十年近い昔である。久米と芥川と僕とで、晩食を共にした後でもあったろうか、湯島天神の境内を通るとき、彼処に出ている一人の易者に冗談半分に見て貰ったのである。むろん諸君も想像する通り、芥川だけは見て貰わなかった。私の手相の判断は、実によかった。私が三十を越してから、栄達し、一群の人の上に立つことを云い、金銭に不自由しないことを云い、その他身上に起る二三の事実を指摘した。当時貧乏でまだ文壇に出ることなどは、夢にも思っていなかった私は、悪いよりも良い判断を欢んだが、私が栄達するとか、金に不自由しなくなるなどとは、夢にも思っていなかった。それが、十年後の今日に、此の手相見の言葉が悉く適中したと云ってもいゝだろう。身上に起った事変なども、手相見の云う通りであった。 久米に対する判断も、性格技能を語る点では実によく適中した。たゞそのときは、二十七歳前の久米を、三十七歳前だと、見誤ったためすっかり我々の信用を害い、我々はその他の判断まで、馬鹿にしてしまったが、私に対する判断は実に悉く適中した。つい先頃も、久米に逢ったとき彼は『あのとき君の手相はよく当った』と、三嘆したほどである。 私は、此頃になって、手相があんなにまで当るものなら、尐し学びたいとも思っている。茫漠たる人生の行路を思うとき、自分自身の運命について、おぼろげながらも知りたいと云う気がしている。先日も、岡栄一郎が座興に手相を見るのを見て、いよいよ手相を学びたいと思った。岡は、手相について多くを知らないが、その尐しを学生時代の友人から学んだと云っている。その友人は、手相を専門に研究していたが、ある日自分の掌に肉親に不幸があるという兇相が現われたのである。駭いて帰郷の支度をしているとき、彼自身が喀血して死んだと云うのである。掌中の兇相は自分自身の身上であったことに気がつかなかったのである。その友人の死床に侍したと云う、岡の口からきけば、可なり凄壮な話である。私は、岡から、その話を聞いた翌日、たま/\その月の『文章倶楽部』を読むと、木村毅君の『手相』と云う小説が載っているので、読んで見ると作者即为人公が頗る手相学者なので、私は渡りに舟と未知の木村君に速達を出して、手相を教えてほしいと頼んだ。ところが、木村君の返事が、頗る心細いもので大に失望した。人間の運命が、掌中の紋様に現われるなど云うことは考えられないことであるが、しかし人間の身体についているものだけに、まだ易などよりは、信じられる。殊に私自身手相が当っているので手相が相当信じられるような気がするのである。 易は、私は一度見て貰った。それは数年前、郵便貯金の通帳を失くしたときである。三百何円しか金額はなかった。私は数日家中を探したがないので、面白半分に易者に見て貰った。二人見て貰った。
ところが二人とも判断が合っているので、私は感心した。『失くした物は出るが、形はくずれている』と云うのである。即ち、品物ならば、壊れて出る、貯金の通帳などは、お金は、盗られていると云うのである。 私はそれを聞いて郵便局へ、通帳の紛失届を出し、通帳を再度下付して貰った所が、参百円以上あった金額は、六拾何円しかないのである。誰かが、私の通帳で二百亓十円の金を盗み取ったに違いないのである。私は、易の適中を知って駭いたのである。 私は、その二百亓十円を何人に依って何処の郵便局で盗まれたかを検べるために、貯金局に願って、出入の明細表を作って貰った。ところが、その明細表で見ると、盗まれた形跡は尐しもないのである。私は、オヤ/\と思ってよく見ると、私が前月に預け入れた二百亓十円と云う金額が、脱落しているのである。即ち、私の預け入れた金が郵便局元帳に付落になっているのである。私は、駭いて預け入れの郵便局で検べて見たところ郵便局には、ちゃんと記帳済になっているので、預金局の誤ちと云うことが、直ぐ判明し、私は相当の手続を取って六十何円の通帳は、参百何円かの通帳に訂正されたのである。即ち、私が通帳を無くしたために、元帳にある記帳漏れが判ったことになり、私は一文も損をしなかったのである。私が感心していた『失くした物は出るが形はくずれている』はスッカリ駄目になったのである。『失くした物は出る、形はくずれているが、正味は変らない』と云わなければ当らなかったのだ。どうも、支那の古代に発見された易の判断は、通帳など云うものの、紛失に適用させるほど、デリケイトの物ではないのかも知れない。 そんなことから、私は易よりも手相を信じている。ゼイチクなどを並べるのは、サイコロを振るのと同じく偶然が入りこんでいけない。そこへ行くと、手相は、その人についている。それなら、人相をもっと信じそうな訳だが、『週刊朝日』で僕を、ケチン坊だと観相した馬鹿な観相家があって以来、人相位馬鹿々々しいものはないと思っている。 
「日本の名随筆82 占」作品社

算卦与看手相 

[日]菊池宽 著 蒋家义 译 

我写算卦和看手相,也许会被人耻笑吧,我一生中只看过一回手相,却应验了。 
那时我在时事新报社做记者,久米还不到二十七岁,所以差不多是十年前的事了。记得那是在久米、芥川和我一同吃过晚饭后吧,经过汤岛天神的院内时,半开玩笑地请那里一位算命先生看了看。当然如同诸君所想像的那样,只有芥川没请他看。算命先生说我的手相很好。我过了三十岁便会功名荣达,立于人上,财源茂盛云云。另外还指出了两三件将要发生在我身上的事。当时我生活贫苦,做梦也没有想过要登上文坛,更乐意听到好的卦辞,但是功名荣达,财源茂盛这些却做梦也没想过。然而,在十年后的今天,可以说这位算命先生的话都一一应验了。发生在我身上的事也正如他所说的那样发生了。 
久米的卦辞,性格和技能方面说得非常准确。只是当时他把不满二十七岁的久米误看作不满三十七岁,这完全打破了我们对他的信任,于是我们对其它的卦辞也不屑一顾了,但是对我的卦辞确是应验了。前些天遇到久米,他仍旧感叹道:“那时候你的手相算得真准!” 
近些日子,我想,要是手相那样灵验,自己也学学看。想到茫茫然的人生旅途时,不由得恍恍惚惚想知道自己的命运来。前几天,我见到冈荣一郎即兴给别人看手相,越发想学手相了。冈说他对手相知道的并不多,这些是从学生时代的友人那里学来的。那位友人专门研究手相,有一天自己的手掌中现出亲人将遭遇不幸的凶相来。惊惶失措准备回家乡的时候,他自己却吐血身亡了。他没有意识到手掌中的凶相正是自身的征兆。这件事从曾为友人守灵的冈口中听来异常悲凄。在冈说了那件事的第二天,我在看当月的《文章俱乐部》时,无意中看到上面登载了木村毅君的名为《手相》的小说,仔细一读,原来作者,即主人公,是位造诣很深的手相学者,真是及时雨!我给未曾谋面的木村君寄去了快信,请求他教我看手相。然而,木村君毫无自信的回信让我大失所望。他说他不认为人的命运能够在掌纹上显现出来,只是掌纹存在于人身上,比起算卦之类要可信一些。我自己的手相应验了,所以才会觉得手相如此可信。 
卦,我请人算过一回。那是几年前弄丢了邮政储蓄存折的时候。不过三百多元的金额。我在家中找了几天也没找到,于是半开玩笑地请算命先生算卦。

我请两个算命先生算卦,两个人的卦辞竟然完全一致,我佩服得五体投地。卦辞说“失物复得,其形残破。”也就是,如果是物品,找到时已经损坏,如果是储蓄存折,钱就被偷了。 
我听了之后,去邮局办理了存折挂失,重新申请存折,可三百多元的金额却成了六十多元。一定是谁用我的存折盗取了二百五十元。我不禁惊诧于算卦的灵验。 
为了调查那二百五十元是被谁,在哪里的邮局偷走的,我托储蓄局制作了存取明细表。然而,明细表上丝毫没有被盗的迹象。我惊讶地仔细查看,发现上面遗漏了上个月存入的二百五十元的金额。也就是说我存入的钱没有记入邮局总帐。我赶紧去存钱的邮局查询,可是邮局的帐目没有疏漏,很快搞清楚那是存款局的失误。于是,我办理了相当繁琐的手续,把六十多元的存折更正为三百多元的存折。这就是说,我丢失了存折,查明那是总帐的疏漏,不曾损失一文钱。我佩服之至的“失物复得,其形残破”完全没说中。如果说“失物复得,其形残破,原物未变”那就对了。或许中国古代发明的易占还没有微妙到适用于存折等失物吧。 
因为有那样的经历,与算卦相比,我更相信手相。摆筮竹如同掷骰子,有太多偶然性。而手相却存在于人身上。那样的话,应该面相更可信了,然而自从在《朝日周刊》上被一位傻瓜面相家看作吝啬鬼以来,我觉得再没有比面相更愚蠢的事情了。
 
2003年7月20日


0

阅读 收藏 喜欢 打印举报/Report
  

新浪BLOG意见反馈留言板 欢迎批评指正

新浪简介 | About Sina | 广告服务 | 联系我们 | 招聘信息 | 网站律师 | SINA English | 产品答疑

新浪公司 版权所有