父亲金子ふみ子
(2018-09-06 16:46:10)
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父亲金子ふみ子 |
分类: 日本随笔 |
父
金子ふみ子
翻译:王志镐
私の記憶は私の四歳頃のことまでさかのぼることができる。その頃私は、私の生みの親たちと一緒に横浜の寿町に住んでいた。
在我的记忆中,一直可以回忆到四岁时的事情,那时我和亲生父母一起住在横滨的寿镇。
父が何をしていたのか、むろん私は知らなかった。あとできいたところによると、父はその頃、寿警察署の刑事かなんかを勤めていたようである。
父亲是干什么的,当然我是不知道的。根据后来发生的事情判断,父亲在那时似乎在寿镇警察署的火灾刑事科工作。
私の思出からは、この頃のほんの少しの間だけが私の天国であったように思う。なぜなら、私は父に非常に可愛がられたことを覚えているから……。
根据我的回忆,那段时期在我的理想境界中有着稍许空间,那就是为什么我觉得父亲对我是非常疼爱的。
私はいつも父につれられて風呂に行った。毎夕私は、父の肩車に乗せられて父の頭に抱きついて銭湯の暖簾のれんをくぐった。床屋に行くときも父が必ず、私をつれて行ってくれた。父は私の傍につきっきりで、生え際や眉の剃方についてなにかと世話をやいていたが、それでもなお気に入らぬと本職の手から剃刀を取って自分で剃ってくれたりなんかした。私の衣類の柄の見立てなども父がしたようであったし、肩揚げや腰揚げのことまでも父が自分で指図して母に針をとらせたようであった。私が病気した時、枕元につきっきりで看護してくれたのもやはり父だった。父は間まがな隙がな私の脈をとったり、額に手をあてたりして、注意を怠らなかった。そうした時、私は物をいう必要がなかった。父は私の眼差まなざしから私の願いを知って、それをみたしてくれたから。
我经常被父亲带着去澡堂。每晚我都坐在父亲的肩头,抱着父亲的头,穿过澡堂子的门帘进入澡堂。去理发店时,父亲也一定要带我去。父亲在我身旁寸步不离,在修剪我的发际和眉毛时,他也总想帮上点忙,非但如此,一旦有什么不称心,就从理发师傅手中夺过剃刀自己来剃。我的衣服式样好像也是父亲挑选的,连儿童服装肩上缝的褶以及腰部打的褶也是父亲自己设计,由母亲缝纫的。当我生病的时候,不弃不离地看护在我的身边的还是我的父亲。他不断地给我号脉,用手摸我的额头,一点也不敢懈怠。那时候我不必说需要什么,父亲从我的眼神中就能知道我想要什么,并满足我的要求。
私に物を食べさせる時も、父は決して迂闊には与えなかった。肉は食べやすいように小さくむしり魚は小骨一つ残さず取りさり、ご飯やお湯は必ず自分の舌で味って見て、熱すぎれば根気よくさましてからくれるのだった。つまり、他の家庭なら母親がしてくれることを、私はみな父によってされていたのである。
在喂我的吃喝的时候,父亲绝不会大意。吃肉还容易,吃鱼他将小骨头拔得一根也不剩,无论吃饭喝汤,他必须亲口用舌头试一试,如果太烫,他总是耐心地吹凉再喂我。也就是说,对我来说,在其他的家庭里母亲做的事情都是父亲做的。
今から考えて見て、むろん私の家庭は裕福であったとは思われない。しかし人生に対する私の最初の印象は、決して不快なものではなかった。思うにその頃の私の家庭も、かなり貧しい、欠乏がちの生活をしていたのであろう。ただ、なんとかいう氏族の末流にあたる由緒ある家庭の長男に生れたと信じている私の父が、事実、その頃はまだかなり裕福に暮していた祖父のもとでわがままな若様風に育てられたところから、こうした貧窮の間にもなお、私をその昔のままの気位で育てたのに違いなかったのである。
如今想起来,我并不认为我的家庭还算富裕。不过对于人生,我最初印象也绝不是不愉快的。我想那时候我的家庭不也是相当贫困,过着有一顿没一顿的生活吗。只是确信作为长子出生在一个潦倒的名门望族家庭的我的父亲,事实上那时他生活在家境还算富裕的祖父身边,像一个娇生惯养的公子哥那样长大,因此即使在贫困岁月,他还是一定要按照从前那种派头来抚养我。
私の楽しい思い出はしかしこれだけで幕を閉じる。私はやがて、父が若い女を家へつれ込んだ事に気づいた。そしてその女と母とがしょっちゅういさかいをしたり罵ののしりあっているのを見た。しかも父はそのつど、女の肩をもって母を撲なぐったり蹴ったりするのを見なければならなかった。母は時たま家出した。そして、二、三日も帰って来ない事があった。その間私は父の友だちの家に預けられたのである。
可是我那愉快的回忆到此便落下帷幕。不久,我发现父亲将一个年轻女子带到家里。然后我看见那个女人与母亲总是争吵不休,骂骂咧咧。而且父亲每次都一定会搂着那女人的肩,对母亲拳打脚踢。母亲有时候会离家出走,甚至两三天后才回来。那期间,我就被托付给朋友家照看。
幼い私にとっては、それはかなり悲しいことであった。ことに母がいなくなった時などは一そうそうであった。けれどその女はいつとはなく私の家から姿をかくした。少くとも私の記憶にはなくなってしまっている。が、その代り私は、自分の家に父の姿を見ることもまた少なくなった。
对于幼年时代的我来说,那真是极大的悲哀,特别是母亲不在的时候更是如此。可是不知是什么时候,那女人从我家失去了踪影,至少从我的记忆中消失了。可是,我在家里看到父亲的身影也越来越少了。
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