幸田露伴 食用菊
(2011-07-02 20:02:07)
标签:
幸田露伴食用菊青空文库 |
分类: 日本随笔 |
菊 食物としての
幸田露伴
食用菊
——幸田露伴
菊の季節になつた。其のすが/\しい花の香や、しをらしい花の姿、枝ぶり、葉の色、いづれか人の心持ちを美しい世界に誘はぬものはない。然(しか)し取訳(とりわけ)菊つくりの菊には俗趣の厭ふべき匂(におい)が有ることもある。特(こと)に此頃流行の何玉何々玉といふ類、まるで薬玉(くすだま)かなんぞのやうなのは、欧羅巴(ヨーロッパ)から出戻りの種で、余り好い感じがしないが、何でも新しいもの好きの人々の中には八九年来此のダリヤ臭い菊がもて囃される。濃艶だからであらう。けれども美しい方へかけては最も進歩した二色もの、花弁の表裏が色を異にする蜀紅などの古いものからしてが、そも/\菊の有(も)つ本性の美とは少し異つた方面へ発達したもののやうに思へる。これも老人の感情か知らぬ。陶淵明は菊を愛したので知れた古い人だが、淵明の愛した菊は何様(どのよう)な菊だつたか不明である。云伝へでは後の大笑菊といふのであるとされてゐるが、それならばむしろ其花はさして立派でもない小さな菊である。あの風流の人が営々として花作の爺さんのやうに齷齪(あくせく)したらうとも思はれないから、自然づくり、お手数かけずのヒョロケ菊かモジャモジャ菊かバサケ菊で、それおのづからに破れ籬(まがき)かなんかに倚(よ)りかゝり咲きに星光日精の美をあらはしたのを賞美したことだらうと想はれて、宋の詩人の笵石湖のやうに園芸美の満足を求めた菊つくりではなかつたらうと想はれるが、これは果たして当つていゐるか何様か知れない。
谈及食用菊花,则稍有野蛮羞愧之感。与有一出戏唱的腔调有所不同:“你死后不是送到寺庙烧掉,而是磨成粉末和酒饮下。”其实,爱到最后,不忍眼看其枯萎的样子,随便摘取一点,尝尝其清香秀色也不必过于指责。《楚辞》中早就有“餐秋菊之落英”的句子,可是此处“落英”的“落”字颇为费解,因为菊花并无纷纷掉落之事。“落”字与日前某君问起的“衅”字有关,可能是“落成”的“落”之义。也有人说“落英”就是指花开,这种解释不够稳妥。关于菊花的“落”与“不落”,后来王安石与苏东坡之间有过一场小小争论,为了避免走题,这里姑且不论。不过,食用菊普通是黄色的千叶或万叶小型菊花,市场上也出售料理菊,可是如仅用作配料,并不受欢迎。罕见的加上料酒、酱油、醋等作料的凉拌菜,盛在小碟子小口杯里单独食用。这些都不算什么。不过菊花本有甘苦两种,形状似葫芦,而葫芦形状好看者多带苦味,加酒放上一段时间,仍带些许苦味。菊花瓣大、肉厚、色佳者多为苦味。说来甘菊也有好几种,并非与普通料理菊一样,平平凡凡毫无新奇之处。从秋田佐佐木氏那里得来的胭脂色菊花,为管状花瓣,长六寸余,肉质肥厚,实在既美观又美味。因有“菊”“薏”两字,遂有品位。其他的大型菊花之中,也常常有许多甘菊。此等菊花可与梅肉一起保存百余日,其色香均不减。如我等不算富贵之家,随时可以从寒厨取来用于下酒。花之香味最佳者当为牡丹,然而此物并非轻易得来之物。麝香萱之花含微甘,微香者,为爱好者之适宜食物,也是山里人所需之酒糟腌菜。甘菊大者实在可喜,不过在匆忙搬到不满一坪的新家时,将所有的甘菊都遗弃了,如今我连一株甘菊也没有了。秋深酒香之时,如今只剩些许尚未抛弃的小白菊,它并不是料理菊,摘下一两朵小白花放入口中嚼着,大口喝一杯酒,苦啊,苦啊,尽管如此,仍觉清香留齿,浸透肠胃,感觉到一种香味以外的淡淡滋味,使人愉悦。
菊をたべるといふことになると聊(いささ)か野蛮で小愧(こはず)かしいやうな気もせぬではないが、お前死んでも寺へはやらぬ焼いて粉にして酒で飲むといふ戯れ唄の調子とも違ひはするが、愛のはてが萎れ姿を眼にするよりも一寸のわざくれに摘んで取つて其清香秀色を口にするのもさして咎めるにも及ぶまい。既に楚辞にも、秋菊の落英を餐(く)ふ、とある位だ。ところが、此の落英の落の字が厄介で、菊ははら/\と落ちるものではないから、落は先日某君から質問された「チヌル」の事に関係のある落成の落の字と見なして、落英は即ち咲いた花だといふ説もあるが、何だかおちつきの悪い解ではある。菊の花の落ちる落ちぬについては、後に王安石と蘇東坡との間に軽い争があつた談などもあるが、話の横道入りを避けて今は抛って置く。さて、たべる菊は普通は黄の千葉又は万葉の小菊で、料理菊と云つて市場にも出て来るのであるが、それは下物(さかな)のツマにしか用ゐられぬ、あまり褒めたものではない。稀に三杯酢、二杯酢などの※物(ひたしもの)として、小皿、小猪口に単用されることもあるが、それにしても話題になるほどではない。たゞし菊には元来甘いと苦いとの二種あること瓢(ひさご)の如くであつて、又恰(あたか)も瓢の形の良いのには苦性(にがだち)のものが多くて、酒を入れると古くなつてゐても少し苦味を帯びさせるが如く、菊も兎角花の大にして肉厚く色好いものには苦いのが多い。といつて甘い菊にも類が多いから、普通料理菊の如くに平々凡々の何の奇無きもののみではない。秋田の佐々木氏から得た臙脂色の菊の管状弁の長さ六寸に余つて肉の厚いものなどは、実に美観でもあり美味でもあつた。菊、※の二字ある位であるから、其他にも大菊の中で甘いものが折々ある。此等の菊は梅の肉で保たせると百日にも余つて其の色香を保つことが出来るものであるから、我等の如き富まぬ者の寒厨からも随時に一寸おもしろい下物を得られるのである。花で味のよいものは何と云つても牡丹であるが、これは力よく之を得るに及びやすい訳にゆかぬ。ゆふ菅(すげ)の花も微甘でもあり、微気の愛すべきものがあつて宜いが、併(しか)し要するに山人のかすけき野饌である。甘菊の大なるものは実に嬉しいものである。一坪の庭も無い家へ急に移つた時に一切の菊を失つて終つてから、今はもう自分は一株の甘菊をも有たぬが、秋更けて酒うまき時、今はたゞ料理菊でもない抛つたらかし咲かせの白き小菊の一二輪を咬んで一盞(いつさん)を呷る[#「呷る」は底本では「呻る」と誤植]と、苦い、苦い、それでも清香歯牙に浸み腸胃に透つて、味外の味に淡い悦びを覚える。
菊花之名,有种种难解之谜。两百多年之前,嵐雪曾大喝一声:莫如无有!如今却产生了许许多多更难解的名字,而且谁都不知道古代之名是否名副其实。使用菊、药用菊中有一种被称为“濡鷺”的菊花,在德川时期就具其名,以良种菊花传承了下来。可是不知为什么,“濡鷺”之名却没有被流传下来,所以我想一见为快久矣,不过真正的“濡鷺”却似乎难得一遇。作为药用菊,必定要保持菊之本性,把握气味也许是其强项吧。进步是进步了,但较之西番菊那样的菊花,我想看看能够顽强把握其气味本性的菊花。倘若此,野菊、山路菊、龙脑菊据说已经足够了,那是不错的。欣赏富士菊、户隐菊也足够了,那也是不错的。
菊の名はいろ/\むづかしいのがあるが、無くもがなと嵐雪に喝破された二百年余のむかしから、今にいろ/\と猶更むづかしいのが出来る。そして古い名は果して其実を詮してゐるか何様か分らなくなつて終ふ。たべる菊、薬用の菊としては「ぬれ鷺」といふ菊が、徳川期の名で、良いものとして伝へられてゐる。所以(ゆえん)なくしてぬれ鷺の名が伝へられてゐるのではあるまいから、何様かしてそれを得て見たいと思つたのも久しいことであるが、ほんとのそれらしいのには遇はずじまひになりさうだ。薬用になるといふのは必ず菊なら菊の其本性の気味を把握してゐることが強いからのことであらう。進歩は進歩だらうが、ダリヤのやうになつた菊よりは、本性の気味を強く把握してゐるものを得て見たい。そんなら野菊や山路菊や竜脳菊で足りるだらうと云はれゝばそれも然様(さよう)である、富士菊や戸隠菊を賞してそれで足りる、それも然様である。
(昭和七年十一月)