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综合日语教程第七册第四课我的夏天—1945年广岛(一)

(2010-09-16 19:00:11)
标签:

综合日语

堀場清子

广岛

原子弹爆炸

医院

分类: 日语综合教程第七册

综合日语教程第七册第四课  我的夏天——1945年广岛(一)

翻译:王志镐

 

关于作者:堀場清子,1930年生于广岛县,评论家。1949年进入早稻田大学文学部,从这时候起开始做诗。毕业后,在共同通讯社工作。1959年第一本诗集《狐的眸》刊行,1962年以原子弹爆炸体验为主题的诗集《空》刊行。她还对女性史研究有深度关心,从其批评精神和争取女权主义的立场出发,她对女性史的研究领域为人所知。主要著作有《冲绳女性史探索》、《被禁止的原爆体验》、诗集《爷爷百态》、《首里》等。

课文翻译:

194586日早上815分,原子弹在广岛上空爆炸。

当时,笔者因病从女子学校休学,与母亲和伯母一家一起,在离爆炸中心约9公里的疏散地,广岛县安佐郡绿井街的今井医院(即祖父的医院)的医师专用住宅中,正围着桌子吃早饭。在闪光和气浪的冲击中,笔者和母亲尚未缓过神来,便跑了出去,到医院接受治疗任务。医院门前,满载重伤员的卡车接二连三地到达,转瞬间医院周围就被伤员们围得水泄不通,真是惨不忍睹。

当时祖父已年过六十,可是按照当时的实际情况,与现在的同年龄的人比较起来要老得多。尽管如此,从6日的早上开始,“午饭晚饭全免,通宵未睡,全力处置伤员,忙得不可开交。翌日7日大同小异。“(据《回忆札记》)祖父由于过度疲劳而昏倒,打一针后爬起来继续手术。

无论是做助手的医师,还是做X光透视的技师,全都被召集入伍,6月份的最后一次征兵,已经是继任院长的伯父满头白发,肩上斜披着绶带入伍之后的事了。所剩护士6人,护工3人,历数祖父手记中的“兵力”,其中没有一个男劳力。持手术刀者,仅祖父一人,与其说是排队治疗,不如说是未治先亡,真是防不胜防。

结果,还未被从车上抬下来的负伤者,我们怎么再敢收容啊。卡车满载重伤员而来,一个劲儿往医院送的救护队员与我们,车上车下声嘶力竭地互相大声喝斥起来。

尽管陷入这样绝望的境地,我们却没有一个人抱怨。伤员们太容忍负重了,所以对那些人的悲痛,我们也能深刻地感受到。偶尔有人客气地问一声“轮到我了吗?”翻开登记簿一看,怪可怜的,他的前面还排着十几个人呢!

手术室的现场,我一次也未去看过一眼。外科室的毛玻璃对面一侧是祖父和护士们的岗位。而这一边是我们一大家子的地盘,只要不是抱着喂奶的孩子的女人,大家都在打杂帮忙。说起来,也只是应付蜂拥而至的重伤员而已,手忙脚乱地,至于具体做了些什么,我再也不能清楚地回忆起来了。

对医疗知识一无所知的我们,实际上什么忙也没帮上。只是在喊着“水…………”的伤员之间到处走动,端茶送水,日以继夜,朝朝不息。就连那水,也由于“对伤口不利……”,每个人必须慎重,仅润一润嘴唇,不能多喝。于是那三天医院事实上兼作了收容所的作用,而我则沐浴在那些重伤员的二次放射能量中。

 

课文原文:

わたしの夏――1945年.広島

194586日15分、広島上空で原子爆弾が炸裂した。

そのとき、病気で女学校を休んでいた筆者は、母や叔母の一家とともに、爆心地から約9キロ離れた疎開先の、広島県安佐郡緑井町の今井病院(祖父の病院)の医師用住宅で、朝食の卓を囲んでいた。閃光と爆風の衝撃から立ち直るまもなく、筆者は母とともに病院門前には重傷者を満載したトラックが次々に到着し、瞬く間に病院の周囲は無残に傷ついた人々で埋め尽くされていた。

このときの祖父は60歳を過ぎていて、当時の実態では、現在の同年齢よりずっと老齢だった。それでいて6日朝から、「昼食夕食も抜き、徹宵一睡もせずの大活動でも処置し尽くせなかった。翌7日も大同小異。」(『思い出の記』)疲労のあまり昏倒しては、注射を打って起き上がり、手術を続けていた。

助手の医師も、レントゲン技師も、とうに召集があって、院長を継ぐ伯父までが、白髪の目立つ襷姿で入営した後だった。看護婦6人、付添う婦3人と祖父は手記中に“戦力”を数えているが、とにかく男手がなかった。メスを持つ手は祖父一人きり、治療の順番より、死の順番が先に来てしまうのを、どう防ぎようもなかった。

結果的には、放置するしかない負傷者を、どうしてこのうえ、受け入れられよう。ドラックに重傷者を満載してきては、しゃにむに“病院”へ送り込もうとする救護班と、わたしとは、荷台の上と下で、声を限りに怒鳴り合うまでになった。

この絶望の状況にあって、だれひとり苦情をいわなっかた。あまりに負傷者たちのおとなしかったことが、あの人々への悼むを、限りなく深くする。まれに、「わたしの番はまだでしょうか。」と、遠慮勝ちに聞く人があって、受け付く簿を繰ってみれば、気の毒なことに、順番はまだ何十人も先なのだった。

手術の現場は、一度ものぞいていない。外科室のすりガラスの向こう側が、祖父と、看護婦さんたちの持ち場、こちら側が、大家族のうち、乳飲み子を抱えていなかった女たちの、下働きの場だった。といっても、押しかける重傷者への対だけで、きりきり舞いし、具体的には何をしていたか、はっきりと思い出せない。

医療の心得のない私など、実際何の役にも立たなかった。「水……、水……。」と訴える人々の間を、薬缶と湯飲みを持って走り回っているだけで、朝が夜になり、夜が朝になった。その重傷者たいtから、私もたっぷり二次放射能を浴びることになったのだが。

 

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