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恋爱论

(2022-07-21 12:45:01)
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恋爱

坂口安吾

分类: 日本随笔

恋爱论

坂口安吾

翻译:王志镐

恋愛とはいかなるものか、私はよく知らない。そのいかなるものであるかを、一生の文学に探しつづけているようなものなのだから。

恋爱是什么,我知道得不多。所以我用毕生的文学来持续探讨它。

 誰しも恋というものに突きあたる。あるいは突きあたらずに結婚する人もあるかもしれない。やがてしかし良人おっとを妻を愛す。あるいは生れた子供を愛す。家庭そのものを愛す。金を愛す。着物を愛す。

私はフザけているのではないゝ。

谁都遇到过恋爱问题,或许有未遇到问题就结婚的人,不久就成为丈夫和爱妻,或者还生了爱子。他们非常爱家庭,爱钱财,爱打扮。

我可不是在开玩笑。

日本語では、恋と、愛という語がある。いくらかニュアンスがちがうようだ。あるいは二つをずいぶん違ったように解したり感じたりしている人もあるだろう。外国では(私の知るヨーロッパの二三の国では)愛も恋も同じで、人を愛すという同じ言葉で物を愛すという。日本では、人を愛し、人を恋しもするが、通例物を恋すとはいわない。まれに、そういう時は、愛すと違った意味、もう少し強烈な、狂的な力がこめられているような感じである。

在日本语中,有恋与爱之类的词语,它们有一点微妙的差别,或许有人对这两者有非常不同的理解和感觉吧。在外国(据我所知欧洲的两三个国家)爱与恋是一样的,与爱人同样的词语就是爱物。在日本,爱人,恋人的感觉通常并不是说恋物。那样的时候,很少有与爱不同的意思,我觉得好像还包括再稍许强烈的、发狂的语气。

もっとも、恋す、という語には、いまだ所有せざるものに思いこがれるようなニュアンスもあり、愛すというと、もっと落ちついて、静かで、澄んでいて、すでに所有したものを、いつくしむような感じもある。だから恋すという語には、もとめるはげしさ、狂的な祈願がこめられているような趣きでもある。私は辞書をしらべたわけではないのだが、しかし、恋と愛の二語に歴史的な、区別され限定された意味、ニュアンスが明確に規定されているようには思われぬ。

然而,在恋之类的词语中,有一些微妙之处在于你所不拥有却非常渴望的东西。一旦你恋爱了,你会更加安详,沉静和清澈,你会有一种疼爱你所拥有的一切的感觉。因此在恋这样的

的词语中,有一种难以找到的,包括疯狂祈祷在内的意思。虽然我没有查过字典,可是在恋与爱这两个词语中明确规定了历史的、独特的、有限的含义以及细微差别。

昔、切支丹キリシタンが初めて日本に渡来したころ、この愛という語で非常に苦労したという話がある。あちらでは愛すは好むで、人を愛す、物を愛す、みな一様に好むという平凡な語が一つあるだけだ。ところが、日本の武士道では、不義はお家の御法度で、色恋というと、すぐ不義とくる。恋愛はよこしまなものにきめられていて、清純な意味が愛の一字にふくまれておらぬのである。切支丹は愛を説く。神の愛、キリシトの愛、けれども愛は不義につらなるニュアンスが強いのだから、この訳語に困惑したので、苦心のあげくに発明したのが、大切という言葉だ。すなわち「神デウスのご大切」「キリシトのご大切」と称し、余は汝を愛す、というのを、余は汝を大切に思う、と訳したのである。

从前,当天主教最初东渡到日本的时候,据说爱这个字很难说出口。而外国人却喜欢说爱,爱人,爱物,大家一样喜欢而通俗的词只有一个。然而,日本的武士道却将不道德作为家庭的戒律,当说到色情时,马上想到不道德。恋爱被认定为是不正经的,爱这个词中包含着清纯的意思却不包括我。天主教讲究爱,神之爱,天父之爱,可是爱却牵连到不道德,语感很强,作为苦心发明出来的结果,一个重要的词语,却使人很为难。也就是说,如果说“上帝的保重”,“耶稣的保重”,翻译过来就是我爱你,我想让你保重。

実際、今日われわれの日常の慣用においても、愛とか恋は何となく板につかない言葉の一つで、僕はあなたを愛します、などというと、舞台の上でウワの空にしゃべっているような、われわれの生活の地盤に密着しない空々しさが感じられる。愛す、というのは何となくキザだ。そこで、僕はあなたがすきだ、という。この方がホンモノらしい重量があるような気がするから、要するに英語のラヴと同じ結果になるようだが、しかし、日本語のすきだ、だけでは力不足の感があり、チョコレートなみにしかすきでないような物たりなさがあるから、しかたなしに、とてもすきなんだ、と力むことになる。

  实际上,在我们今天的日常惯用语中,爱与恋已经成为恰如其分的一个词语了,如果我说爱你,我是在与舞台上的天空交谈而并不感到空虚,它并不靠近我们的生活范围。爱这个词总觉得有点装腔作势。在这里,就是我喜欢你的意思,因为这里含有正式的重量级的口气,总而言之,它与英语中的“爱情”有着同样的结果,然而我更喜欢日语,只是觉得它力量不足,由于缺乏像巧克力那样一般不喜欢的东西,怎么也喜欢不起来,逞强而已。

注:ラヴ为法语L'amour

日本の言葉は明治以来、外来文化に合わせて間に合わせた言葉が多いせいか、言葉の意味と、それがわれわれの日常に慣用される言葉のイノチがまちまちであったり、同義語が多様でその各々に靄がかかっているような境界線の不明確な言葉が多い。これを称して言葉の国というべきか、われわれの文化がそこから御利益を受けているか、私は大いに疑っている。

日本词语在明治以来与外来文化融合的过程中,被融合的词语很多,词语的意思和我们的日常惯用词语的寿命各不相同,同义词的多样性使每个词语有着腾云驾雾的境界线,不明确的词语很多。这里所称的词语是否应该国语化,我们的文化是否从那里受益,我抱有很大的疑问。

惚れたというと下品になる、愛すというといくらか上品な気がする。下品な恋、上品な恋、あるいは実際いろいろの恋があるのだろうから、惚れた、愛した、こう使いわけて、たった一字の動詞で簡単明瞭に区別がついて、日本語は便利のようだが、しかし、私はあべこべの不安を感じる。すなわち、たった一語の使いわけによって、いともあざやかに区別をつけてそれですましてしまうだけ、物自体の深い機微、独特な個性的な諸表象を見のがしてしまう。言葉にたよりすぎ、言葉にまかせすぎ、物自体に即して正確な表現を考え、つまりわれわれの言葉は物自体を知るための道具だという、考え方、観察の本質的な態度をおろそかにしてしまう。要するに、日本語の多様性は雰囲気的でありすぎ、したがって、日本人の心情の訓練をも雰囲気的にしている。われわれの多様な言葉はこれをあやつるにきわめて自在豊饒な心情的沃野を感じさせてたのもしい限りのようだが、実はわれわれはそのおかげで、わかったようなわからぬような、万事雰囲気ですまして卒業したような気持になっているだけの、原始詩人の言論の自由に恵まれすぎて、原始さながらのコトダマのさきわう国に、文化の借り衣裳をしているようなものだ。

我觉得迷恋为粗俗,而爱恋为典雅。粗俗的恋,典雅的恋,或者实际上有许多种恋,迷恋,爱恋,其使用的理由,只要用一个动词就能简单明了地区别开来。日本语似乎很方便使用,可是相反却使我感到很不安。也就是说由于只用一个词,附加了非常鲜明的区别,那样只是集中了注意力,却错过了事务自身的深刻微妙之处、独特个性等诸多表象。过度借助词语,过度依赖词语,考虑到事物的自身即正确的表现,也就是说我们的言语是为了了解事物自身的道具,思考方法和观察的本质态度却被疏忽了。总而言之,日本语的多样性过度强调了气氛,因此,日本人的心情是在气氛中训练出来的。我们多样的语言在其操纵下,让我们感到就像在极其自在而丰饶的心情的沃野上,非常靠得住,可是实际上,我们由于这个缘故,不管是明白还是不明白,做任何事情的气氛都好像是做完了就毕业了那样的心情,受惠于原始诗人的言论自由,一如原始的因词藻的神奇力量而带来幸运的国家,好像是在借助文化做衣裳。

人は恋愛というものに、特別雰囲気を空想しすぎているようだ。しかし、恋愛は、言葉でもなければ、雰囲気でもない。ただ、すきだ、ということの一つなのだろう。すきだ、という心情に無数の差があるかもしれぬ。その差の中に、すき、と、恋との別があるのかもしれないが、差は差であって、雰囲気ではないはずである。

在人的恋爱过程中,似乎陷入过于空想的特别气氛中。但是恋爱必须有语言,却无关气氛,它只是喜欢的东西之一吧?喜欢这种心情,也许有无数的差别。而在这些差别中,喜欢与恋也许是有区别的,差别是有差别,但应该没有气氛。

          

恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、さめるものだ、ということを知っている大人の心は不幸なものだ。

恋爱经常是一时的幻影,必定灭亡,待清醒过来,方知成年人的心是多么不幸。

若い人たちは同じことを知っていても、情熱の現実の生命力がそれを知らないが、大人はそうではない、情熱自体が知っている、恋は幻だということを。

尽管年轻人也知道同样的道理,却对热恋中现实的生命力一无所知,成年人就不是这样,他们知道热恋中的自我只是一个幻觉。

年齢には年齢の花や果実があるのだから、恋は幻にすぎないという事実については、若い人々は、ただ、承った、ききおく、という程度でよろしいのだと私は思う。

由于各个年龄的人都有各自的精华和收获,所以对于恋爱只不过是幻觉这样的事实,我想年轻人只要心知肚明,记在心里就好。

ほんとうのことというものは、ほんとうすぎるから、私はきらいだ。死ねば白骨になるという。死んでしまえばそれまでだという。こういうあたりまえすぎることは、無意味であるにすぎないものだ。

真实的东西过于真实,我不喜欢。人死后就变成一堆白骨,死后万事皆空。这样理所当然的事情,不是很没有意思吗?

教訓には二つあって、先人がそのために失敗したから後人はそれをしてはならぬ、という意味のものと、先人はそのために失敗し後人も失敗するにきまっているが、さればといって、だからするなとはいえない性質のものと、二つである。

有两种教训,一种是前人的失败后人不能重蹈覆辙;另一种是如果后人重蹈前人的覆辙的话,注定会失败,所以那样做也是出于说不清其性质的理由。

恋愛は後者に属するもので、所詮幻であり、永遠の恋などは嘘の骨頂だとわかっていても、それをするな、といい得ない性質のものである。それをしなければ人生自体がなくなるようなものなのだから。つまりは、人間は死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえということが成り立たないのと同じだ。

恋爱就是属于后者,毕竟只是幻觉,永远的恋情虽说是谎言,但还是欲罢而不能。因为不这样做,就等于白活了一生。就像所谓人终有一死,横竖要死,还不如早点死的道理一样,都是不成立的。

私はいったいに万葉集、古今集の恋歌などを、真情が素朴純粋に吐露されているというので、高度の文学のように思う人々、そういう素朴な思想が嫌いである。

有人认为由于《万叶集》、《古今集》中的恋歌吐露了朴素而纯粹的真情,所以它们有着高度的文学价值,我却不喜欢这种单纯的思想。

極端にいえば、あのような恋歌は、動物の本能の叫び、犬や猫がその愛情によって吠え鳴くことと同断で、それが言葉によって表現されているだけのことではないか。

说得极端一点,那样的恋爱只是动物本能的叫喊,就和猫狗发情的叫声是一样的,只不过人将其用文字表达出来罢了。

恋をすれば、夜もねむれなくなる。別れたあとには死ぬほど苦しい。手紙を書かずにいられない。その手紙がどんなにうまく書かれたにしても、猫の鳴き声と所詮は同じことなので、以上の恋愛の相は万代不易の真実であるが、真実すぎるから特にいうべき必要はないので、恋をすれば誰でもそうなる。きまりきったことだから、勝手にそうするがいいだけの話だ。

如沉湎于恋爱,就会夜不思眠,别后相思欲绝,非得用书信来表达。可是不管情书写得多好,毕竟与猫的叫声是一样的,上述的恋爱之相有万古不变的真情,因为过于真实而不必多言,恋爱过的人谁都是如此。因为是理所当然,所以还是随心所欲为好。

初恋だけがそうなのではなく、何度目の恋でも、恋は常にそういうもので、得恋は失恋と同じこと、眠れなかったり、死ぬほど切なく不安であったりするものだ。そんなことは純情でもなんでもない、一二年のうちには、また、別の人にそうなるのだから。

只有初恋不是这样,不管是第几次恋爱,恋爱经常都是这样的,恋爱成功和失恋是一样的,难以入眠,痛苦欲绝,焦躁不安。这种恋情是一种纯清,不过也算不了什么,一两年之内,又会爱上另一个人。

私たちが、恋愛について、考えたり小説を書いたりする意味は、こういう原始的な(不変な)心情のあたりまえの姿をつきとめようなどということではない。

关于恋爱,我们有的想写小说的意思,而不是去追究原始不变的心情所应有的状态。

人間の生活というものは、めいめいが建設すべきものなのである。めいめいが自分の人生を一生を建設すべきものなので、そういう努力の歴史的な足跡が、文化というものを育てあげてきた。恋愛とても同じことで、本能の世界から、文化の世界へひきだし、めいめいの手によってこれを作ろうとするところから、問題がはじまるのである。

人的生活应该靠每个人去建造,每个人应该去建造自己的人生,那样努力的历史足迹才能培育出所谓的文化。恋爱也是一样,从本能的世界升华到文化的世界,是用每个人的手建造成功的,问题由此而产生。

A君とB子が恋をした。二人は各々ねむられぬ。別れたあとでは死ぬほど苦しい。手紙を書く、泣きぬれる。そこまでは、二人の親もそのまた先祖も、孫も子孫も変りがないから、文句はいらぬ。しかし、これほど恋しあう御両人も、二三年後には御多分にもれず、つかみあいの喧嘩もやるし、別の面影を胸に宿したりするのである。何かよい方法はないものかと考える。

A君与B子相恋了。两人都难以入眠,别后痛苦欲绝,痛苦不已。书信往来,泪湿信笺。就连两人的父母、还有先辈、子子孙孙都是如此,毫无异议。可是如此相恋的两人,两三年之后或许会扭在一起,争吵打架,移情别恋,考虑着如何解决的办法。

しかし、大概そこまでは考えない。そしてA君とB子は結婚する。はたして、例外なく倦怠し、仇心も起きてくる。そこで、どうすべきかと考える。

但是,大概没想到会那样,所以A君与A子结婚了。果然,毫无例外,他们彼此厌倦、起了报复心。因此,考虑应该如何解决。

その解答を私にだせといっても、無理だ。私は知らない。私自身が、私自身だけの解答を探しつづけているにすぎないのだから。

这个答案如要我来说,就难办了,我也不知道。我自己也只不过在探索自己的答案而已。

          

私は妻ある男が、良人ある女が、恋をしてはいけないなどとは考えていない。

我是有妇之夫,而有夫之妇却没有考虑过不可以恋爱。

人は捨てられた一方に同情して捨てた一方を憎むけれども、捨てなければ捨てないために、捨てられた方と同価の苦痛を忍ばねばならないので、なべて失恋と得恋は苦痛において同価のものだと私は考えている。

我在想,人们同情被抛弃的一方,而憎恨舍弃的一方,为了不得不舍弃,必须与被舍弃的一方忍受同等的痛苦,那么一般来说失恋和得恋的人,在痛苦方面是同等的。

私はいったいに同情はすきではない。同情して恋をあきらめるなどというのは、第一、暗くて、私はいやだ。

我大体上不喜欢同情,而同情对恋爱死了心的人来说,第一是前景暗淡,我不喜欢。

私は弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ。この道が実際は苦難の道なのである。なぜなら、弱者の道はわかりきっている。暗いけれども、無難で、精神の大きな格闘が不要なのだ。

我与其选择弱者,不如选择强者,选择积极的生活方式。这条道路实际上是充满苦难的道路。原因是,对弱者所走的道路谁都明白,前景暗淡不说,无灾无难,不需要精神大搏杀。

しかしながら、いかなる正理も決して万人のものではないのである。人はおのおの個性が異なり、その環境、その周囲との関係が常に独自なものなのだから。

可是,无论什么正当理由,也绝不是大众的理由,人的个性各异,因为其环境和周边关系的原因,所以经常独处。

私たちの小説が、ギリシャの昔から性懲りもなく恋愛を堂々めぐりしているのも、個性が個性自身の解決をする以外に手がないからで、何か、万人に適した規則が有って恋愛を割りきることができるなら、小説などは書く要もなく、また、小説の存する意味もないのである。

我们的小说,从古希腊起就不接受教训,毫无忌惮地邂逅恋爱,除了个性之外没有其它手段可以解决个性的自身问题,总觉得如果大众有适合的规则来对恋爱简单下结论,就不必写小说了,小说的存在也没有意义了。

しかし、恋愛には規則はないとはいうものの、実は、ある種の規則がある。それは常識というものだ。または、因習というものである。この規則によって心のみたされず、その偽りに服しきれない魂が、いわば小説を生む魂でもあるのだから、小説の精神は常に現世に反逆的なものであり、よりよきなにかを探しているものなのである。しかし、それは作家の側からのいい分であり、常識の側からいえば、文学は常に良俗に反するものだ、ということになる。

可是,如果说恋爱没有规则,实际上,还是有着某种规则的,那是就是常识,或者是惯例。根据这个规则,那个不满足于内心,不服从虚伪的灵魂,可以说是小说所产生的灵魂,小说的精神经常是对现实世界的反叛,并且正在探索更好的东西。可是,在作家这方面来说,却是有益的,从常识方面来说,文学经常反叛良好的风俗,如此之类。

恋愛は人間永遠の問題だ。人間ある限り、その人生の恐らく最も主要なるものが恋愛なのだろうと私は思う。人間永遠の未来に対して、私が今ここに、恋愛の真相などを語りうるものでもなく、またわれわれが、正しき恋などというものを未来に賭けて断じうるはずもないのである。

恋爱是人类永恒的问题。我想只有人类在其整个人生中,最重要的事情恐怕就是恋爱了。人类面对永远的未来,我今天在这里无法说出恋爱的真相,我们甚至也不应该对正当恋爱的未来打赌。

ただ、われわれは、めいめいが、めいめいの人生を、せい一ぱいに生きること、それをもって自らだけの真実を悲しく誇り、いたわらねばならないだけだ。

我们只是在冥冥之中,在漫漫人生中,竭尽全力地活着,以此对不愧为真实自我的悲伤而感到自豪。

問題は、ただ一つ、みずからの真実とは何か、という基本的なことだけだろう。

问题是,仅此而已,至于大家认为的真实是什么,只是所谓基本的事实吧。

それについても、また、私は確信をもっていいうる言葉をもたない。ただ、常識、いわゆる醇風良俗なるものは真理でもなく正義でもないということで、醇風良俗によって悪徳とせられること必ずしも悪徳ではなく、醇風良俗によって罰せられるよりも、自我みずからによって罰せられることを怖るべきだ、ということだけはいい得るだろう。

关于这个问题,我确信不会讲什么好话。只是根据常识,所有良好风俗并不都是真理,由于没有正义,被良好风俗所认定的缺德并不一定是缺德,比起被良好风俗惩罚,自我惩罚应该更加可怕,只有这才是好的理解。

          

しかし、人生は由来、あんまり円満多幸なものではない。愛する人は愛してくれず、欲しいものは手に入らず、概してそういう種類のものであるが、それぐらいのことは序の口で、人間には「魂の孤独」という悪魔の国が口をひろげて待っている。強者ほど、大いなる悪魔を見、争わざるを得ないものだ。

可是人生本来并不是那样圆满幸福的。我爱的人不爱我,想要的东西得不到手,大致就是那几种情况,在那些事情刚开始时,人们在“灵魂的孤独”即所谓恶魔的国度张嘴等着。你越是强者,看到的恶魔越大,别无选择,只能与其抗争。

人の魂は、何物によっても満たし得ないものである。特に知識は人を悪魔につなぐ糸であり、人生に永遠なるもの、裏切らざる幸福などはあり得ない。限られた一生に、永遠などとはもとより嘘にきまっていて、永遠の恋などと詩人めかしていうのも、単にある主観的イメージュを弄ぶ言葉の綾だが、こういう詩的陶酔は決して優美高尚なものでもないのである。

任何东西都不能使人的灵魂得到满足。特别的知识是人一旦与恶魔拴在一起,就在人的一生中成为永远的东西,没有背叛就没有幸福。对于有限的一生,说什么永恒必定是谎言,说什么永远的爱、就像诗人的样子,那只不过是玩弄主观印象的词藻而已,陶醉在这样的诗中决不会有优美高尚的东西。

人生においては、詩を愛すよりも、現実を愛すことから始めなければならぬ。もとより現実は常に人を裏ぎるものである。しかし、現実の幸福を幸福とし、不幸を不幸とする、即物的な態く厳粛なものだ度はともか。詩的態度は不遜であり、空虚である。物自体が詩であるときに、初めて詩にイノチがありうる。

对于人生,比起爱诗,不如从爱现实开始为好。比过去更现实常常是对人的背叛。可是,现实的幸福才是幸福,现实的不幸才是不幸,实事求是的态度才是严肃的吧。诗的态度含有不逊、空虚。在事物本身含有诗情的时候,诗方才可能有生命。

プラトニック?ラヴと称して、精神的恋愛を高尚だというのも妙だが、肉体は軽蔑しない方がいい。肉体と精神というものは、常に二つが互に他を裏切ることが宿命で、われわれの生活は考えること、すなわち精神が主であるから、常に肉体を裏切り、肉体を軽蔑することに馴れているが、精神はまた、肉体に常に裏切られつつあることを忘るべきではない。どちらも、いい加減なものである。

虽然如帕拉图所称,将精神恋爱作为高尚的奥秘,可是也不要轻视肉体为好。肉体和精神常常是两者互相背叛,是宿命的,考虑到我们的生活,也就是说由于以精神为主,经常背叛肉体,不应该忘记如果轻视肉体成为习惯,那么精神又经常在背叛肉体。无论哪一方,都靠不住。

人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない。

人们对恋爱永远没有满足,经历了几次恋爱,除了将它当作不足道的事情之外,甚至似乎将它当作了伟大的事情。不用说那样的愚蠢只会经常导致背叛吧。那样的习惯,并没有爱,也不成其为人生。毕竟人生是愚蠢的,所以恋爱无论怎样愚蠢,却没有恋爱的自卑感。愚蠢是到死也治不了的,也就是说,在我们的愚蠢的一生,愚蠢是最珍贵的东西,我们必须铭记在心。

人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、せつなさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない。

对于人生,最能使人宽慰的是什么?是痛苦,悲伤,难过。如果是那样话,我最害怕愚蠢。痛苦,悲伤,难过,也有稍微满足的时候吧?如果是那样的话,你有没有一个不满足的灵魂?啊,是孤独。不要再说了。孤独,是人的故乡。而恋爱,是生命之花。无论你感到多么无聊,外面都没有花。

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